終わりから始まりへと
「ぷっ、見てよ、あの年増…」
「私なら、ああなる前に結婚して引退するけどね」
「ホント、ああはなりたくないよね。悪い見本として、よく見ておこ」
都内の某ビル内にある控え室、その端っこに座る眼鏡をかけた一人の女がいた。おせじにも容姿端麗と言えない地味な中年女。娘のような歳の女たちの陰口に歯を食いしばって耐え忍んでいる。
そんな時は、スマホのアルバムを見て心を落ち着かせる。
「ヤスさん…」
仲間、恩師、そして後ろ盾でもあった男の名前。彼女のスマートフォンの画面で優しく笑っている。20以上も歳の離れた男だった。親兄弟とは疎遠。東京で独り暮らす彼女にとって、心の父であり兄でもあった男。愛していたと知ったのは、その男の病死の知らせを聞いた時。涙が止まらなかった。
「負けないよ私、あんな小娘たちに負けてたまるもんか。私の仕事は声優しか…芝居しかないんだ!そうでしょ、ヤスさん!」
声の主は本編の主人公である村上真理子。現在40歳、独身。職業は声優である。
今日はある新作アニメの声優オーディションだった。
世界に誇る日本のアニメだが、現場は驚くほど低予算で、声優に支払うギャラもまた安く押さえたいのが実情である。声優の所属事務所が日本俳優協会、通称『俳協』に正規の所属を届け出てデビューが決まり、それから3年間は『ジュニア』と云うランク、このジュニアの時はアニメの放映時間の尺が30分であろうが2時間であろうがギャラは一律15,000円。長いセリフも短いセリフも値段は変わらない。
『声優は3年目が勝負』と云うのは、このジュニアの期間を終えて、ランカーと云う立ち位置になった時である。ギャラが上がることになってしまい、この途端に干されてしまい業界から去って行く者も少なくはない。
さて、真理子は高校を卒業してすぐ声優養成所に入り、2年後にデビューを叶えた。ジュニアランク時に『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』と云う少女向け魔女っ娘アニメで、ロゼアンナの敵役であるキャサリンと云う役を掴んだ。これが真理子の唯一のレギュラーでもあった。
それから、もう20年近く経っただろうか。真理子は3年目を切り抜けたものの、大きな役を掴めることなく、ずっとモブと端役で声優を続けていた。どうしても諦めきれず、辞めることが出来なかった。
若くして大役を掴み、アイドル声優となったメジャーな女性声優たちから馬鹿にされようとも。
「ふう…」
オーディションは受けた。ヒロインの母親役だ。予定では全26話と云うことだが、母親が出るのは26話中に1度か2度、それでも欲しい役だった。
しかし、審査員の反応はよろしくない。いつの間にか審査員たちも真理子より年下ばかりになってしまった。ディレクターやプロデューサーたちにしてみれば大きな役は掴んでなくとも経験豊富な真理子は使いにくいと云うこともある。
「さて、お仕事行かなきゃね」
自宅近くのスーパーマーケットが真理子の働き先である。
正直、自分はまだ恵まれている方だと思っている。声優の夢破れて東京の夜の街に沈んでいった女たちを数えきれないくらい見てきた。
幸いだが、真理子は沈まず今も声優が続けられている。かつ声優以外で生活費を稼ぐ仕事も肌をさらすようなものは経験しておらず借金もない。さっき、自分にああいう陰口を叩いた若い声優が、しばらく見ないと思えば風俗情報紙の表紙を飾っていたのを見た時は笑う気にもなれなかった。
上がれば天国、落ちれば地獄、それが声優の世界であった。
明日もオーディション、もう所属事務所は真理子をほとんど放置しているが、そのぶん真理子のセルフプロデュース能力はなまじのマネージャーより経験値が上と言えるだろう。もっとも結果が付いてきていないのが残念ではあるが。
パートの仕事も終わり、アパートに帰った真理子。従業員割引のお惣菜をつまみにビールを飲む。もう何年こんな暮らしをしているだろう。体に悪いと思っていても中々直せない。
事務所からおさがりの薄型テレビに映るのは、自分が唯一レギュラーを掴めた『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』主人公のロゼアンナにやられてしまう敵役キャサリン、真理子が演じた役だった。
その『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』のブルーレイを見ている。もっとも、最終話までブルーレイは所持していない。
「ごめんね、キャサリン…」
物語中盤、キャサリンはロゼアンナに敗れて、ラストまで登場することは無い。
真ん中の13話で消えてしまう完全に使い捨てのキャラクターと云えた。
しかし、真理子の中では違っていた。それが先の『ごめんね、キャサリン…』である。今まで、この言葉を数えきれないほど言っている。
主人公ロゼアンナは魔法の世界ラクシュミー王国から来たプリンセス。次期女王として修業を積むために人間の世界へとやってきて人助けなどをして善行を積み、徳を高めると云うスタンダードな展開。そしてラクシュミーの隣国、敵国ヴィーナス帝国から同じくプリンセスであるキャサリンがやってきて、ロゼアンナの敵となる。
魔女っ娘アニメ定番の流れであるが王道とも言える。
しかし、物語冒頭からロゼアンナのライバルと位置付けられたキャサリンはロゼアンナに敗れて物語中盤で退場する。シナリオが元々そうであったとも言えるが、キャサリンを実力のある声優が演じたならば、キャラクターに人気が生じてシナリオは書き換えられていた可能性はある。
『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』のラスボスは魔法の世界そのものを滅ぼす大魔女ヴァルキリーで、王国と帝国は手を結んでヴァルキリーを倒すが、帝国側のプリンセスはウィーナス帝国の開祖であるヴィーナス本人が甦ったキャラクター。無論、真理子は演じていない。
その後ヴァルキリーを倒してめでたしめでたしとなるが、どうして帝国開祖なんて取って付けたような大物を出す必要があったのか分からない。キャサリンが終盤までライバル役として存在し、そのままロゼアンナと共闘した方が自然の展開である。
キャサリンかヴィーナスか、脚本家がどの時点でロゼアンナのパートナーを決めたのかは分からないが自分がキャサリンを主役ロゼアンナ以上の魅力あふれるキャラクターに演じられれば十分パートナー役は出来たはずだと真理子は今でも思っている。
唯一のレギュラーがこんな不完全燃焼で終わってしまったことが20年経った今も悔しくてならないのだ。
「ありゃ、お酒が切れちゃったか。明日のオーディションに備えて寝るか」
しかし翌日、真理子がオーディションに行くことは出来なかった。長年の不摂生が祟ったのだろう。
食事はコンビニ弁当か外食、家で食べるのはバイト先の残り物の惣菜。
夜中、突然胸が苦しくなった真理子は携帯電話で119番して救急車を呼ぼうとするも、それも叶わず死んでしまった。享年40歳だった。
◆ ◆ ◆
私…死んだのか……
『ふん、無様よのう…』
……?
わ、私の声?
声優ともなれば練習と本番と、自分の声はそれこそ数えきれないほど聞いている。間違えるはずがない。そして、この話し方…!まさか、まさか!
真っ白な世界に真理子はいた。その前方に立つ少女。
金髪の高飛車美少女、間違いない。かつて村上真理子が演じたキャサリンである。
『久しぶりじゃのう。我が分身よ』
『ま、まさか…信じられない。私が演じたキャサリンと…』
『ホーホッホッホッホッ!』
キャサリンは声高々に真理子を嘲笑う。癪に障る真理子、こんな憎らしい笑い声をしていたのかと。
『よう言うわ村上真理子、おぬし、妾を“演じた”と胸張って言えるのか?』
『…………!』
真理子は言い返せなかった。
『妾が三流の悪者のまま表舞台から消えたのは誰のせいじゃ?』
『そ、そりゃあ私のせいだけど!』
『誰の心にも残らない。忘れられた存在は死人も同然じゃぞ。妾の無念、いかばかりか』
『わ、悪かったわよ!確かにあの頃の私は未熟でお芝居も大根で!でもっ、でもっ』
『でも?』
『今なら!今ならロゼアンナよりも、ヴィーナスよりも、ヴァルキリーよりも、はるかに魅力的なキャサリンを演じられる!絶対に!』
『嘘つけ、眼鏡大根』
『くっ…!嘘じゃない!大きな役を掴めなくても、この歳になるまで声優一筋にやってきたんだから!』
『ほう、そこまで言うのならば見せてみよ』
『……え?』
『ホーホッホッホッホッ!妾を誰と心得る。魔法の世界ヴィーナス帝国皇女、キャサリンであるぞ!』
キャサリンは自慢の魔法の杖を天上にかざす。杖の上には神々しい光る玉が浮かぶ。
『楽しみにしておるぞ。今のおぬしが、どれほど魅力的な妾を演じるのか!』
『…キャサリン……!』
◆ ◆ ◆
ガタンガタン…
都内の小さなアパートが朝日に照らされて、聞きなれた電車の音が窓の外から聞こえる。
「ん、んん?」
かつて知っていた天井、薄汚れておりシミだらけ。いつか一流の声優になって素敵なマンションにとシミを見るたび思っていた。
「……え?」
真理子だった。起き上がってみると、そこはかつて自分が上京後に住んでいた安アパート。夢を叶えるため、かつて漫画家の巨匠たちが住んでいた『トキワ荘』にあやかり『常盤荘』と云う名前のこのアパートに住んだ。
部屋を見渡すと、質素な家具ばかり。粗大ごみから拾ってきた本箱と小汚いテーブルがあった。
「…………」
意味が分からず立ち上がる真理子は、ふと鏡台を見て驚愕した。
「ええええええええっ!」
そこには20歳の村上真理子が立っていたのである。