祐子
よく、女性は手の皮も面の皮も厚いなんて言うでしょう? でもそれは違うの。どんなに熱くても、落としちゃいけない、離しちゃいけないって思うから耐えていられる。だから、気付いたら手遅れなくらい火傷してたりするのよ。
私みたいに、ね。
◇◇◇
「お前のせいだ」……何度言われただろう。何が私のせいだと言うのだろう。
「やめて!」
飛んでくる物たちが容赦なく私にぶつかる。頭に、肩に、顔を庇う手の甲に。
「お前のせいだ! 俺はただ、幸せな家庭を築きたかっただけなのに」
「ごめんなさい、私が悪いの。ごめんなさい」
バカのひとつ覚えみたいに「ごめんなさい」を繰り返す私。怖い。次に何が飛んでくるか分からない。茶碗? 手? 言葉? 言葉ならまだ良い。でもせめて、あれだけは。あれだけは投げないで――。
「そもそも、お前と結婚したのが間違いだったんだ」
「ごめんなさい」
私のことはいくらでも貶してくれて構わない。でも、娘にだけは……。この騒ぎが、娘が帰るまでに収まれば良いんだけど。……収まって欲しい。
「本当にごめんなさい。だから、」
「だから何だ? やめろとでも言うのか? 全部お前のせいなんだぞ? あいつがこうなったのも、全部!」
娘が出歩くようになったことだろうか。そんなことを言ったって、娘はもう中学生。今だって、10時を過ぎたばかりだ。確かに帰りが少し遅いが、暴れる程ではないと思う。
夫の手が、行き場のない怒りが、娘が幼い頃に作ってくれた母の日の絵皿に伸びる。拙いけれど、きっと一生懸命描いたであろう、私の似顔絵の絵皿。
待って。それだけは、
「こんなものしか作れないような能無しを産んだ覚えはない!」
「待っ――」
ガシャン、だろうか。パリン、だろうか。……いや、プチン、かも知れない。私にはっきりと聞こえた音は、私の何かが切れる音――。
気付いたら、夫は息をしていなかった。自分が何をしてしまったのか、全く分からなかった。
「パパ?」
小さく呼んでみる。
返事はない。
「パパ、何やってるの。起きて」
返事がない。
そっと首に手を当てる。……脈がない。生きていない。
夫は死んだ。
夫は死んだ!
これでもう、痛い思いはしなくて良い。娘は守られた。良かった。良かった!
――プルルルル、
「ひっ」
お、落ち着け私。ただの電話だ。うん。落ち着きなさい。
「もしもし……?」
――あ、もしもしママ? もうすぐ帰るから。またねー。
……そうだ。娘が帰ってくる。
早く片付けなくちゃ。
死体は重かった。こんな人にも重さがあるなんて。押し入れの中、雛人形を入れていた段ボールを見付けた。……これだ。
気持ちの悪い生ぬるさと、ズンとした重さが腕にのしかかる。
……玄関の鍵を開ける音がする。娘が帰って来た。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
最後の力を振り絞り、それを段ボールに入れ、力の限り、押し入れの奥の方まで押し込んだ。
◇◇◇
「ねぇママ、なんで泣いてんの?」
「……え?」
頬を触る。……また濡れている?
「そんなにパパが好きだったの?」
「……そうね」
あれから何度繰り返したか分からないやり取り。自分でも、どうして涙が出るのか分からない。
そんなにパパが好きだったの? ――……そうかも知れない。だけど、一緒にはいられなかった。どうしてかは分からない。価値観の相違? ……ううん、きっと、もっと小さなもの。小さな小さな、本当だったら取るに足らないようなことが原因だと思う。
だって元々は、彼を愛していたんだから。
好きだったの。
大好きだったのよ。
どうしてこうなっちゃったのかしら。
でも、疑問になんかいちいちぶつかってたら埒が開かないから、今やるべきことをとにかくやるの。
「ごめんなさいね、祐実」
「えっ、ちょっと、またー?」
「本当にごめんなさい」
「良いって。小さい時過ぎて、描いた時のこと覚えてないし」
「……うん」
「あ、そういえば、お土産」
「え?」
「ほら、いっつもあたしばっか遊びに行って悪いじゃん。だからたまには」
「あ、りがとう」
久々に見る「甘いもの」の数々。シュークリームみたいなものから、小さな駄菓子まである。
「ほら、食べて? これはミルクレープっつって、めちゃくちゃ美味しいの」
「……うん、ありがとう」
あぁ、どうしたら良いの? こんなに良い子から私は、父親を奪ってしまいました。大切な、欠けてはいけないはずのそれを、私がこの手で殺めてしまいました。
「ほら、泣いてないで食べてってー。食べなきゃ元気出ないよ?」
私がこの大事な娘のために出来ることは? ……何不自由なく生活させてやること。真っ当な人生を歩ませてやること。これしかない。
「ありがとう」
そう決めたは良いものの、何かをやるには全てにお金が必要だった。もちろん会社で働いてはいたが、生活がギリギリ成り立つ程度だった。性別を呪った。同期の男共はあんなに出世しているのに、どうして私はまだお茶汲みをやっている? どうして会社に若い女の子を入れない? どうせ辞める? そんなの、性別は関係ないんじゃないか?
……お金が足りなかった。
高校の学費はなんとかなった。でも、大学の学費は賄えないと思った。入学金はどうにかなっても、継続しての学費は払えないと思った。
真っ当に働いていても、意味がない。
別のやり方を見付けないと、娘が大学に行けない。
ふと視界を広げてみると、世の中には、至るところに弱っている人間がいた。
そしてそいつらは皆、金は有り余っていた。
それなら、互いに欲しいものを交換すれば良い。私はお金を得て、相手は人間的な充足感を得る。
どの人も、簡単に私の話を信じた。もちろん、全てが嘘な訳じゃない。真実に、少しだけアレンジを加えるだけ。誰でもやったことがあるでしょう?
皆が私の話を信じ、金を渡してくれた。
何人とやり取りがあっただろう? もう、分からないくらい沢山。だから、学費は賄えるくらいまで貯まった。でも、それがいけなかった。全員と、きちんと友達を続ければ良かった。そうすれば、「借りた」ことにして、返せたかも知れないのに。
私は馬鹿だ。
◇◇◇
娘を駅まで送った時、彼がいたのが見えた。名前は覚えていない。確か、小さな息子がいた男だ。きっと私を狙っている。騙したと思われている。殺される? まだ死ぬわけにはいかない。娘を養うには、まだ私が生きてなくちゃいけない。
娘は入試に向かっている。きっと今頃、ドキドキしながら教科書を見詰めているだろう。
車を置いて、電車に飛び乗る。
ごめんね、祐実。ちょっとだけ逃げてくるね。すぐ戻るから。夜には絶対、お疲れ様パーティー開くから。美味しいものいっぱい作るから、ふたりで食べようね。
さっきから、彼から電話が掛かって来ている。もしかしたら、家まで行ってるのかも知れない。まさか家に入っていることはない……と思いたい。
……メールだ。彼から。娘は預かった。最終警告だ。返して欲しければすぐに……馬鹿馬鹿しい。祐実は入試に行ってるの。こんな陳腐な嘘をつくなんて、この人もバカね。
さて、どこまで行こうかしら。
たまには、終点まで行ってしまうのも良いかも知れない。
◇◇◇
「ママー! 早く早く! 早くしないと遅刻しちゃうよ!」
「はいはいー、ちょっと待ってね! じゃっ、送りに行って来るね」
「気を付けて。今日は帰り早いから」
「そうなの? じゃあ、久しぶりにハンバーグね」
「ママ、早くー」
「はいはーい」
夫と頬にキスをし合い、手を振って別れる。
「ごめんね、お待たせ」
「遅いよー」
「ごめんごめん。急ぐから」
ヘルメットをした娘を自転車の後ろに座らせ、私もまたがる。
「はい、しっかり掴まって~? 出発進行!」
「しんこう~」
春の陽気が清々しい。桜の花びらがひらひらと舞い降りている。
「ねー、ゆうちゃんの名前、どうして優子なの?」
「ゆうちゃんとは違うゆうちゃんがね……ママの恩人なの。漢字は違うけど、ゆうちゃんにもゆうちゃんみたいになって欲しいから」
そういえば、あれから彼女はどうなったのだろう。旦那さんの事業は成功したのかな?
近況報告も兼ねて、またお話するのも良いかも知れない。連絡取れるかな?
「ふーん。ママ、遅刻しちゃうよー」
「はいはい、急ぎますよ~スピード上げて~」
ぐん、とペダルを踏み込む。
視界に入った公園の時計を見る。大丈夫。間に合いそうだ。
◇◇◇
「そうそう、きみ、うまくなったな~」
「ありがとうございます」
やっと認めてもらえた。本当に嬉しい。じんわりと滲んできた視界に、慌てて涙を拭う。
あの時諦めないで頑張れたのは、彼女のおかげだ。――ゆうちゃん。
今、連絡取れるのかな? 携帯電話を取りだし、電話帳を開く。
「あ、弥枝。今夜の食事会だけど、来ない? 今度の本番で共演するみんなが集まるんだけど」
「……っ……行きます!」
「よし、じゃあ、7時にここの入り口集合ね」
「はい!」
よし、また新たなチャンスが舞い込んできた。
ゆうちゃん、ありがとね。私はもう大丈夫。ゆうちゃんも頑張ってる?
心の中で小さく呟き、携帯電話を閉じた。
窓の外では、綺麗な桜が美しく散っている。




