宏二
「パパー、今日もレストラン?」
「ん、ああ、そうだよー。何食べたい?」
「ハンバーグ!」
「よしよし。美味しいハンバーグ食べに行こうなー」
小さな手が俺の手を握りしめる。本当に小さい。ちょっと捻れば簡単に折れてしまいそうな、頼りない手。
「パパ、ぼく、ハンバーグ大好きだよ」
「うん」
オレンジ色の暖かな光が俺たちを迎える。
いらっしゃいませー、なんて無機質な声が『おかえりなさい』に変わる日は来るのだろうか。来てほしい。まだ幼い息子のためにも。
目の前のメニューには、きらびやかな油っこい料理たちが並んでいる。健康に良くないのは分かっている。でも、料理なんかしたことのない俺には、越えられない壁がある。能力的にも、プライド的にも。
「パパ、コーラ入れてきても良い? パパのも入れてくるー」
「あぁ、ありがとう」
息子の小さな手にはまだ似合わない大きさのグラスに、炭酸が注がれるのだろう。俺はまた、それを見ていなければならない。息子の小さな口に流れて行く、茶色の液体を。
「パパー、ママ」
「やだ、ちょっと宏太くん、ママだなんて……。すみません。お子さんがコップを持ってらしたのがどうも落ち着かなくて……差し出がましいことを」
「い、いえいえいえいえ。ありがとうございます」
綺麗な、いや、違うな。可愛らしい? いや、これも違う。何だ。……とにかく、俺の気が惹かれたことは確かだ。
息子がなついているからか? 息子がこの女性の服の裾にしっかり掴まっているからか?
「こちらこそ、すみません。俺がしっかりしてないもんで」
「いえ、そんな」
「ねーママー、ごはん一緒に食べようよー」
「えっ?」
戸惑ったように、少し困ったように眉根を寄せる彼女。
「あ、あの、お礼と言っては何ですが、奢りますんで、是非」
息子に便乗なんて、男らしくないだろうか。
「そんな……私、」
「何もしてないとは言わせません。……というか、俺からもお願いです。少しお話ししませんか」
……あ。
言ってしまってから気付いた。慌てて彼女の左手を確認する。……良かった。何も付いていない。
「あの……それなら私、料理ならある程度出来ますので……」
「本当ですか?!」
「ええ……もし、まだ何も頼んでいらっしゃらないのでしたら、ですが……」
「ぜ、是非うちにいらしてください! 台所と食材は提供しますので」
入れて来てしまったドリンクバーの料金だけ払えば良いだろう。
「……ありがとうございます」
彼女は少し照れたようにはにかみながら、ぺこりと頭を下げた。
◇◇◇
「お風呂入って来ても良いですよ~?」
台所から声が飛んでくる。見ると、エプロンの紐をしめている彼女がいた。俺のエプロンだ。まだ1度も使ったことがない。
「宏太、風呂入るか」
「ぼく、手伝いしてるー」
「あら、ありがとう」
天使のよう……と言うと語弊があるかも知れないが、子どもに向けた笑顔がとても素敵だ。
「じゃあ宏太くん、パパとお風呂に入ってから、お手伝いしてくれる?」
「はーい!」
すごいな、と思った。
子どもの扱いに慣れている。保育所で働いているのかも知れない。
「すみません」
「いえいえ~ごゆっくり~」
野菜をスーパーの袋から出しながら、歌うような返事。
……何と言うか……こんな人が奥さんなら、俺は幸せに暮らせるのかも知れない。
例え、こんな風に狭いアパート住まいでも、彼女なら文句ひとつ言わずに楽しんでくれそうだし。貧乏だろうが金持ちだろうが、関係なさそうだ。
「ありがとう」
「パパー! 早く!」
「はいはーい、今行くぞー」
俺は息子の後を追った。
◇◇◇
「パパ、ママのこと好きなの?」
風呂に浸かり、水の掛け合いをしていると、宏太がいきなり訊いてきた。我が息子ながら、随分ませたものだ。
スーパーでの出来事を指しているのだろうか。指が触れる度、互いに驚いて手を引っ込める、というようなことが何度もあった。
「そうだな……そうかも知れないな」
年は幾つなんだろう。見た目からすると、30代中頃? 可憐さはあるが、人生の荒波を乗り越えて来たような図太さもある気がする。あの笑顔の奥に、何かとてつもないものが潜んでいる気がしてならない。苦労人なのだろう。
……彼女は、俺のことをどう思っているのだろう。
「パパ、顔赤いよー」
「のぼせたんだよ」
「パパ、目も赤いよー」
「目に水が入ったんだよ」
「パパ、」
「宏太」
これだけは訊いておかなくちゃいけない。これからどうなるとしても。
「宏太は、彼女と一緒に住みたいか?」
「うん!」
「パパを応援してくれるのか?」
「うん!」
向日葵のような笑顔で大きく返事をする宏太は、何だかとても頼もしく見えた。
「ありがとう」
頭を下げると、宏太の小さな手が俺の頭に乗った。
「心配するな、若造よ」
「そんな言葉、どこで覚えたんだよ」
涙でぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて、頭を上げることさえ出来なかった。
◇◇◇
「祐子さん」
「はぁい?」
ちょうど食器洗いが終わったらしく、エプロンで手を拭きながらこっちを向く。
「あ、すみません……このエプロン、宏二さんのなのに……」
「良いよ良いよ。……今日は本当にありがとう」
隣の部屋では、まだ9時にも関わらず、息子が安らかな寝息を立てて眠っている。これも彼女のおかげだ。いつもなら、だらだらと11時頃まで一緒に起きていてしまう。
「いえ、そんな……むしろ、私までご馳走になっちゃって申し訳ないと言うか……」
「いや、良いんだ。作ってくれたのは祐子さんだし」
彼女は、様子を窺うように黙ってこっちを見ている。
「久しぶりに、人の手料理を食べた。煮物を食べた。すごく美味しかった。宏太も喜んでる。……宏太じゃなくて、俺も。健康の面だけじゃなくて、その……俺には、あなたが必要なんだ、祐子さん。だから……」
「……ごめんなさい」
「どうして」
「ごめんなさい」
彼女はゆっくりと後退り、怯えたような顔で俺を見た。
何故だ? どうして怯える?
「ご、ごめん。早すぎたよな。ごめん」
「ううん。違うの。違う。あなたは悪くない。ごめんなさい」
挙動不審さが異様だ。急にどうしたんだ?
「俺のことは気にするな。とりあえず落ち着け。な?」
ガラッと襖が開いた。宏太だ。
「ママ、どうしたのー?」
彼女はその声を聞き、殴られたような表情になった。
「ご、ごめんなさい、取り乱してしまって。宏太も、起こしちゃってごめんね」
弱々しい笑顔だ。儚くて、脆い。
「ほら宏太、早く寝ろ。明日も早いんだから」
「うん。おやすみなさーい」
目を擦りながら隣の部屋に戻る宏太。良かった。聞き分けが良い子どもで。
「……ごめんなさい」
「いや、良いんだ。それより、何があったか話してくれないか? 俺で良かったら聞くよ」
「…………うん」
彼女は、困ったような笑顔で俺を見つめた。
◇◇◇
「お茶で良い?」
「うん。ありがとう。ごめんね」
「良いから謝るなって」
「うん。ごめん」
「こら、今のはわざとだろ」
ふふ、と笑う声にも覇気がない。
湯飲みに、電子レンジで温めた麦茶をつぐ。
「どうぞ」
「……ありがと。いつもペットボトル麦茶なの?」
「……ウチには既製品しかないんだよ」
「そっか……」
寂しそうに笑う彼女は、湯飲みに小さく口を付けた。
「……私、実は結婚してるの」
「え?」
「ごめんなさい。騙すつもりはなかったの」
「……そうか」
騙すつもりは無かった、なんて、信じられる訳がない。騙すつもりがあったから、欺くつもりがあったから、俺たちに近付いたんじゃないのか。
「私、暴力を受けてるの」
「暴力? 誰から? 旦那からか?」
小さく頷く彼女。何だか話が深刻になってきた。
「疑わないで。本当なの。信じて」
「信じない訳じゃねぇけど……」
「私、この生活から早く楽になりたいの」
初めて見るその目付きは、安易な答えを求めてはいなかった。
「そうか……」
どう答えたら良いのか分からない。試されている気さえしてきた。
「一緒に、逃げよう」
試されていても俺の気持ちは変わらない。宏太のためでもあるが、俺のためでもあるんだ。
絶対に譲れない。
「……でも、見付かった時が」
「そうだよな……」
考えなくても分かることじゃないか。俺、アホなのか?
「あ」
「うん?」
「金は?」
「もしかして、手切れ、金……そんなのでどうにかなるのかな……」
「なるなる! どうにかしようぜ、そんなやつ」
「……うん。ありがとう」
今まででいちばんの微笑。
あぁ、この笑顔をこれからずっと見ていられるなんて。
思わぬ天からのプレゼントに、頬が弛むのを抑えきれない。
「頑張ろうな」
「うん」
宏太。パパ、やったぞ。




