85 手取川~その5
東の壁でも苦戦は続いていた。城壁には索が巻付き上杉軍が引くたびに城壁が揺れる。それを邪魔するように無数の矢や礫が上杉軍に降り注ぐ。
織田軍が死守するべき城壁。しかし、奥村永福は矢継ぎ早に指示を出しながら、親友に合図を送る。
「倒せ!」
慶次郎の命令で倒されたのは、ただの木の板であった。幅は2尺(60cm)ほどだろう。城壁に立てかけるように斜めになった木の板に、慶次郎は足を乗せた。
「いざ!命が要らぬ者だけついてこい」
僅か5歩で、自ら守る城壁を超える。そこにはぽっかりと空間が開いていた。
当然である。城壁を壊そうと群がる上杉兵は当然壊れる壁に集中する。だから、防衛側の応戦がそこに集中できるのだ。
いいかえれば、攻撃の集中していない場所に上杉軍はいない。
まるで、櫛の歯のように、戦力の集中する箇所と、戦力のいない場所とが出来上がる。
「抜け駆け御免!」
櫛の歯であるが故に、その歯の根元にあるのは、すべての指示が集まる将がいるという事だ。
愛刀を引き抜いて前田慶次郎は、敵のいない道を駆けだした。
最も激戦である北壁は壮絶な状況であった。敵味方が入り乱れて倒れ、降り続く雨が血を含んで河となす。
死山血河という言葉がそこにあった。
すでに城壁など見る影もなく、防衛戦ではなく野戦だ。上杉軍は4回目の攻撃をいったん引いて部隊を再編制している。このまま、5回目の波状攻撃が来るのだろう。
「矢と礫を配れ、投擲隊と弓隊はまとまれ、バラバラに投げても効果はないぞ。弓と投擲まとめろ」
村井の言葉に、バラバラだった部隊の一部が、集まるように動き出す。すでに上杉軍の波状攻撃で部隊としての区分けが出来なくなっていた。数はまだいるが、槍持ちと飛び道具と言う大雑把なくくりでしか部隊を把握できない。
しかし、少しでも統率させねば、北壁の戦線が崩壊する。それは、織田軍の敗北を意味している。状況は相変わらずの劣勢。しのいではいるが、勢いは明らかに向こうが上だ。
そこで、村井は大事な事に気が付く。
「殿はどこじゃ?」
周囲を見回して、背筋が寒くなる。
前田本隊が前線にいる事を隠すために、馬印の旗を付けなかったことが災いした。村井長頼一生の不覚。周囲を見回すが、雨に寄り視界が悪くなっている事もあり、勝虫の前立てが見つからない。
そして、村井には主君を探す時間など残されていなかった。
「上杉軍。来ます!」
「持ちこたえさせろ」
五度目の攻撃が来たのだ。
その男がやって来たことを誰もが見咎めなかった。
旗指物(織田か上杉かを識別する背中に刺す旗)がなかったし、上杉軍は地元の大柄な人間を集めた力士衆と呼ばれる部隊を作っていた事から、雨で悪い視界の中、その大柄な人間を敵だと認識しなかった。
そもそも、攻城戦で敵は砦にこもっている。単身で敵が来るとは予想だにしていなかったのだ。
もちろん、だからといって、東壁攻撃部隊の先陣である直江信綱に無警戒に近づけたわけではない。
近習の一人がその男に気がつき、要件を聞こうと近づいた。
人の気配は察知できなかった。戦場は人の坩堝だ。一つ一つを認識するのは不可能だ。
殺気は感じなかった。当たり前だ、戦場で殺意を放たぬ者がいるわけがない。
近づいた近習が、宙を舞った。それは、直江信綱の近くにいた側近数名を巻き込んで倒れる。
突然の事態に誰も動けなかった。
その影を縫うように、獣のような俊敏さで信綱に白い刃が襲い掛かってきた。
直江信綱の命を助けたものの一つは運。
襲撃者がたまたま信綱の右側から襲い掛かり、信綱の右手に愛用の槍が握られていた事。
そして、反射的に持ち上げた槍が、襲撃者の太刀を防げた事。
「(この重みは!?)」
しかし、予想外にかかる一撃の重みに驚愕する。止めきれなかった斬撃が右の腕に鋭い痛みを与えた。
信綱を助けたもう一つの物は己の武勇。
戦場をかけ豪勇でしられる直江信綱の槍は鉄の芯の入った豪槍であった。それ故に、ひしゃげたとはいえ、桁外れの一撃を受け止める事が出来たのだ。それがなければ、その太刀の一撃で槍ごと体を真っ二つにされていただろう。
そして、その武勇は最後まで信綱を助けた。
重い一撃が信綱の豪槍の芯を捻じ曲げ、その右腕に傷を負わせたところで、太刀の方がもたなかったのだ。
金属音を立てて折れる襲撃者の太刀。
余りの事態に、味方も襲撃者にも一瞬空白が訪れた。
「ちぃ!」
襲撃者の舌打ちと、信綱が槍を捨てて後ろに飛びのいたのはほぼ同時であった。そして、それから一拍子遅れて周囲の側近が事態に気が付く。
手に武器のない襲撃者は、近くにいた側近の顔に拳をめり込ませると、その腰に刺した太刀を引き抜く。
しかし、その段階ですでに信綱と襲撃者の間には刃を抜いた人の壁が出来ていた。
捨て身で襲い掛かるかと刃を向ける側近たちをしり目に、襲撃者はクルリと振り返ると走り出すと、すぐに雨で悪くなった視界から消えた。
「殿。今手当を!」
「クッ。兵を引かせろ。いったん体勢を立て直す」
「と、殿?」
やられた。防衛線での敵将を狙う決死隊。普通なら失敗したとしても死ぬまで暴れるだろう。だが、あの襲撃者は引いた。逃げる場所があるからだ。逃げる先は城壁のない南壁。東壁を攻める自軍の兵は、前しか見ていない。あのまま、あの恐るべき武勇を振るえば、我が隊を横から抜けるのは造作もないだろう。そして、その被害に比例して予想外の攻撃に我が隊は混乱する。普通なら、その程度すぐに回復する事が出来る。だが、負傷した今の自分では、通常よりも回復時間は増す。
最善手は、己の手当てをしつつ部隊の再統制をするよりも、直江隊を引かせ上杉景勝様の部隊で攻撃を引き継ぐほうが早い。
「不覚。景勝様に合わせる顔がないわ」
応急手当の為に甲冑を脱がされながら、直江信綱は毒付いた。
そして、同じように毒付いていた男がいた。
恐るべき襲撃者。前田慶次郎である。
「槍があれば勝てた!」
槍があれば、最初の一撃で胸を一突きにできた。よしんば、防がれたとしても、後ろに下がる敵将の速度を上回る一撃を与える事が出来た。
愛用の朱槍さえあれば。
「クソッ!」
自分についてきた十数名の決死隊の先頭で、八つ当たりのように太刀を振るい。あるいは敵の槍を奪って振るい。周囲の上杉兵を斬り飛ばしながら進む。
手取川の砦しか見てない上杉兵が、慶次郎達に気が付くのは通り過ぎた後姿だけだった。
各部隊に物資を送る為に、指示を出していたオレは、小雨になっていく雨を見上げて次の指示を出す。
「本陣に連絡してください。手取川下流の霞堰を破壊しました」
「へ?」
「呆けている時間はない。行きなさい」
慌てて走り出す足軽を見送って、引き続き各部隊に物資を送る指示に戻る。
あの足軽が戸惑うのも無理はない。オレは今の今までここにいて、忙しく矢弾のお代わり要求に答えていたのだ。当然、霞堰を壊す余裕などない。
最初から霞堰は崩していたのだ。手取川が氾濫した段階で手は打っていた。だが、それを報告しなかったに過ぎない。
そして、ここで報告する事に意味はある。
そもそも、圧倒的劣勢なのだ。それを押し返すための背水の陣。後ろがないと思うが故に必死の抵抗をする。
だが、それでも状況は劣勢だ。必死さは長時間持続しない。そして、必死さを失えば残ったのはぬけがらだけだ。
だから、そこで希望を与える。堰を切り、手取川の奔流が収まると知れば、希望を見出して活力がわく。
最初にそれを知らせていれば、死力を尽くさずに逃げ出すものも出るだろう。教えなければ、希望を失い力尽きるだろう。
籠城の前提は士気の維持だ。純粋に戦力比で行けば織田軍と上杉軍は負けてはいない。兵の精強さはともかく数で言えば勝っている。それでも、劣勢なのは士気によるものが大きい。劣勢で相手は上杉軍で敗北確定という状況の中で、士気を維持させるためになりふり構わず撃てる手をすべて打つ。
とはいえ…
「さて、これでカラッケツだ。もう何も残ってないぞ」
そしてそれは、オレが勝つために用意したものをすべてを出し尽くした事を意味していた。