60 設楽が原の前に
三河の陣幕にて、一人の男が頭を下げていた。
蒲生忠三郎賦秀である。
越前での撤退戦に参加した賦秀は、一向宗への横槍の後、殿軍から離れ尾張へ帰還した。
当然、混乱する一向宗と言えど無力ではない。少なくない被害も出た。当然、到着も遅れた。
完全な命令違反である。
それを許す大殿であろうはずがない。
無論、言い訳はある。だが、それは文字通り言い訳に過ぎない。本当の理由は言い訳にすらならないことは十分承知していた。
だがそれでも…
陣幕が上がり、男が入ってくる。
土の地面に膝を突き、頭を下げたままの賦秀であったが、それが誰かわかった。
「忠三郎。顔を上げろ。」
義理の父にして、主君である織田信長だ。その声は怒気をはらんでいた。
ゆっくりと顔を上げる。眉間に皺を寄せた主君の視線が賦秀に突き刺さる。
しかし、その視線を正面から見返す。
すべては己の我侭。それは百も承知。だが、後悔はない。いかなる勘気をこうむろうとも、自分はあの戦場で槍を振るった事を絶対に後悔しない。
「…」
「…」
しばし視線を合わせたまま時間が止まる。
「…」
「……ッ」
不意に信長の頬が膨れ。
「ブッ!!」
吹いた。
「ブハハハハハ。は~っはははは。は~は~。フハハハハハハ」
大爆笑である。
「クソッ!餓鬼め。クソ餓鬼め!クククク。そ、そんな、そんな『ケンカに勝ったガキ大将』みたいな顔しやがって!!ブホッ。ブフッハハハハハハ」
腹を抑え、身もだえするように笑い転げる。
しばらく笑い転げた後、水を飲んで落ち着くと目配せをする。横にいた近習が一通の手紙を賦秀に手渡した。
「よく覚えておけ。クソ餓鬼。これが大人の対応という奴だ。」
手渡された手紙は越前からの物であった。賦秀は広げて中を読む。
「饅頭があの後、府中城を落としたそうだ。『蒲生様がいなければ』と、わざわざ三度も書いてある」
「…」
余りの事に、ぽかんと見返す賦秀。
それを見て信長は唇の端を持ち上げる。
「この武田との戦いで奮起せよ。その功績をもって遅参を許す。功なくば…わかっておろうな」
「は、ハハッ」
頭を下げると、賦秀は陣幕から退いた。
「あ、書状を…」
賦秀が書状を持って行ってしまったことに気が付いた近習が声を上げたが、信長はそれを手で制した。
かつて、尾張のウツケであったころを思い出すように笑みを浮かべながら…
天正三年五月
織田の天下統一を決定付ける長篠の戦いが始まった。