56 引き鳥府中~その3
「昔、漢籍の解釈で間違えたことがありましてね」
「漢籍ですか?」
何気なく勝豊君に話しながら、河野の城で兵糧を数える。そもそも撤退戦で重い兵糧を運ぶのは危険を増すだけの行いである。
まったくもってその通りなのだが、府中城前で羽柴隊が戻るまで、数日の余裕があった。その間に重い兵糧を運んでもらう事にしたのだ。なにも、尾張まで運ぶ必要はない。河野なら移動速度を計算に入れても十分に可能な距離だ。
「『韓非子』という本ですが「街中で虎が出た」と三回も報告されると、それが嘘でも信じられてしまうという話ですよ」
「へぇ…で、どう解釈したんです?」
「『どんなバカでも二回同じ間違いを犯せば、次は別の方法を取る』」
男は飢えていた。
ロクに食事もできないまま出陣し二日目を迎えた。先の陣営でも、織田軍の兵糧は手に入らなかった。あれだけ、炊事の煙が上がっていたのにだ!
そして、到着する第3陣目。そこからも炊事の煙が上がっている。
男は思った。
今ならあそこに米がある。
誰かが一歩前に出る。負けじと前に出る。誰が抜け駆けなどさせるものか。
そして、誰かが前に歩き出した。
「だれが攻めろと言った!?」
七里が織田の第三の防衛線に到着した時、すでに戦端は開かれていた。先陣が無策にも攻め懸け、防衛線からの弓により甚大な被害が出ている。
そもそも、第二陣の水田前で一向宗は再編成に手間取っていた。そうでなくても万を超える大軍を急遽集めたのだ。第二陣を押しつぶすために陣を整え、織田第二陣撤退を知って急遽追いかけたがゆえに、陣をまとめるのに手間取った。さらに織田陣での騒動。
七里も自軍の侵攻が遅れている事がわかっていた。
このままでは…
「ええい!お前たち進め。あそこに飯はある。落とすのだ!」
しばし躊躇した後、七里は攻撃の命令を下した。この防衛線を抜ければ、その先は河野の城だ。即席で作った柵とは規模が違う。河野の城で徹底抗戦に入られたら、前田本隊を追うのは難しくなる。
確かに、先陣は被害を受けた。しかし、その数はほんの百数十程度。万を数える一向宗には大した被害ではない。戦端を開いた以上、奴らが今までのようにこちらの不意を突いて撤退するのは難しくなる。そして、こちらの軍はこれから続々と集まっているのだ。
少数の敵などすぐに圧倒できる。
「よし、炊事係りも前線の攻撃に向かわせろ」
向かってくる一揆軍を相手に、慶次郎は部下にそう命じる。三直豊利と竹中半兵衛の予見通り、この陣にて一向宗の先陣は、後続を待つことなく向かってきたのだ。
予見していた以上、こちらは備えてある。十分な量の矢弾が置かれており、迎え撃つ準備を整えていた。
とはいえ、防衛柵は即席の物で、防御力という意味では気休めでしかない。
ただ、隊列もそろわない先陣の数は多くない。無策で進むだけの敵だ。待ち構えていた殿軍には、そう恐ろしい相手ではなかった。
「注進。一向宗本隊の姿が現れました」
「そのまま迎撃しつつ本隊の動きに注意しろ。守備隊は矢弾を惜しむな」
「一向宗本隊。前に出ます!!」
「…あきれた」
ため息をつくと、手で部下に合図する。
「最後まで、あの二人の言ったとおりか」