55 引き鳥府中~その2
「堰を切ったか」
その様子を見て、七里の眉間に皺が寄る。
府中前の織田陣跡での予想外の騒乱で遅れてしまった一向宗だが、事態を収束させて追撃を再開。昼過ぎに敵を補足した。しかし、同時に敵が万全の構えで待ち構えている事を知る。
越前南条郡のこのあたりは、農耕地域でありいくつもの水田がある。今はまだ3月。だが、そのすべてに水が張られている。織田軍が事前に堰を切り崩し水を張っているのだ。その目的は言わずもがな。足止めである。
ここを広がって進めば、田園の泥で足を取られることになり、足並みはそろわない。
中央の道は無事だが、そこを通るには大軍の利を捨てなければならない。当然向こうもそれを想定しているだろう。
「百姓の持ちたる国をなめるなよ。お前たち、近くの葦草なりなんなりを切って田に放れ」
これで少しはましになる。多少足並みを狂わされても、最終的には大多数で押しつぶせる。多少の被害は出るが、それは想定内だ。
「「「四公六民!四公六民!四公六民!四公六民!」」」
「!!」
コチラの姿をみたのか、織田の殿軍から大声が響き、旗が立ち並ぶ。
「「「四公六民!四公六民!四公六民!四公六民!」」」
「おまえら、やりかえせ!!」
「「「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」」」
織田陣営から炊事の煙が上がっているのを、うらやましそうに見ながら、一向宗は声を上げ続けた。
「どれくらい残りました?」
「第一陣で11俵。二陣で8俵ほどですか」
「2000弱の軍で余剰20俵以下ですか。お見事です」
いったいどれほどの人間がこの神業を理解できるだろうか。なにより、敵はその策に最後まで気づくことがない。すべてが終わってもなお、気づかれない策ほど恐ろしいものはない。
「いいえ。竹中殿が撤退を指揮してくれたからこそです。被害が出ていたらさらに余剰分が増えていたでしょう。ここまで無傷で退いていただけたおかげです」
「そう言っていただけて光栄です。では、後はお願いします」
「羽柴様によろしく言っておいてください」
竹中半兵衛が踵を返して自分の馬に乗る。
殿軍で最初の撤退を指揮した後、竹中半兵衛は殿軍から離脱した。
対武田戦に羽柴様が参加される以上、軍師の半兵衛の存在は必要不可欠である。個人と軍勢の進行速度の差があるとはいえ、早々に羽柴本隊に合流する必要がある。
彼は共に知恵を出し合った男に一礼すると、馬に鞭を入れて走らせた。
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「(賢き者)」
かつて自分がそう評した男。
彼は恐るべき知恵を持つ。こちらの予想しない点を予見する。兵法家や軍師とは違う視点を持っている。何より恐ろしいのは、軍師の視点を知った上で、別の方向から見ている稀有な存在だ。
数で勝る相手の足を止める作戦。それ自体は撤退の基本だ。
追撃部隊を攻撃し足を止める。伏兵で警戒させ足を遅らせる。前例を挙げるなら枚挙に暇がないだろう。しかし、攻撃すればこちらにも被害は出る。負傷でなくとも疲労という形で出てしまう。それを許容しての策だ。
いったい誰が、残す兵糧の残量を調整する事で1人も兵も使わずに同じ事をできると思うだろうか。
残された兵糧を奪い合う事で追撃部隊は混乱し進軍が遅滞する。
追撃部隊の兵糧配分の未熟さを見抜き、それを踏まえたうえで、自軍の補給を万全にし、余剰分を奪い合わせる事で操作する。
その発想が出てくる時点で、そして実行できてしまう手腕が稀有なのだ。
しかし、同時にそれは彼の欠点でもある。
兵法家でも軍師でもないという欠点だ。
あの時、主に言った「勝てと言われれば勝ちます」という言葉を今でも自信を持って答えられる。
10度戦えば10度勝てる。
相手はこちらと戦おうとしていない。なればこそ、こちらが勝つために戦えば機先を制せられる。そうすれば、私の勝ちは揺るがない。
だがもし、
ありえないとわかっていても、だがもしも…
もしも、お互いが同時に敵対した時どう戦うか。
お互いが突然敵対する事はあり得ない以上、それは無意味な想定である。だが、盤上遊戯のように同じ条件で争った時…
おそらく10度戦えば8度は勝てる。
それが半兵衛の結論である。
軍略を競うだけなら、彼と比肩しうる者は他にもいるだろう。この戦国の世に策士、謀将は数多いる。勝率で彼を超える者とて存在する。
しかし…
それでも、彼は私の中で恐るべき賢き者だ。
私は8度の勝利で、彼を8度討ち取ることができる。
だが彼の2度の勝利は、この半兵衛のみならず主である羽柴様すら滅びる事になる。
8度の勝利と2度の完敗。
竹中半兵衛と対峙し、そのすべてを滅ぼしうる者。
ありえぬ想定の上での、起こりえぬ結末。しかし、その夢想のなんと甘美な事か。
これは欲だ。知恵持つ者として、それがどんなに危険であっても知りたいと思ってしまう欲。
湧き上がる何かを抑えるように、竹中半兵衛は片手を胸にあてた。
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周囲の雑草や倒木などを田畑に投げ入れジリジリと織田陣に進む一向宗ではあったが、続々と集まる後続部隊により、埋め立て作業ははかどらず、日が沈んでしまう。
さすがに、これ以上遅れるのは得策ではない。
そこで七里は田畑の埋め立てを続けさせた上で、一部の兵を引き抜いて夜襲部隊を編成させた。
埋め立て作業にまぎれるように接近させれば、相手の隙をつけるかもしれないと考えたためである。
しかし、その策は予想外の結果をもたらした。
「敵陣はもぬけの殻です」
日が暮れた時点で、織田軍は第二陣を密かに撤退させていたのだ。昼間の騒動の騒がしさに気をとられ、また埋め立て作業の音にまぎれたせいで、異様に織田陣が静かであったことに気がつけなかった。
一度ならず二度までも。まるで手玉に取られるように逃がしている。
七里は腹立たしさに唾を飛ばすように命じた。
「追え!奴らを決して逃がすな」
「先行部隊が織田陣跡で騒動を起こしております」
「またか!辞めさせろ。一刻も早く奴らを追うのだ。食糧は奴を殺して奪え!そう伝えて向かわせろ!」
まるで巨獣のようにその体を揺らすと、越前一向一揆はゆっくりと動きだした。




