50 越前侵攻
天正三年三月。
前田軍出陣。
近江で佐々内蔵助成政様と合流。
どう見ても脳筋ですね。なんでも殿と同じ母衣衆の一人で、殿とはライバルの関係らしい。とはいえ、嫌悪感はほとんどなく。いきなりクロスカウンターを放って、その後で笑って肩をたたき合う仲だそうだ。
脳筋、意味わかんないです。
ちなみに、もう一人の与力不破様は、去年より敦賀におり、羽柴様や丹羽様と一緒に越前警戒に当たっているそうだ。
なんで、佐々様は先に敦賀に行かなかったか確認しようとしたら、殿から「内蔵助と藤吉郎は、馬が合わない」との回答を得た。
馬が合わなくとも、表面上は仲良くするのが社会人だぞ。
あれ?
「羽柴様と佐々様が一緒に戦という事は…」
「その間を取り持つのも、ワシの仕事という事になる。」
殿。ため息が深いです。
なにせ、羽柴秀吉は長浜城主になった段階で、筑前守の官位を授かり、階級的には殿と一緒。でも、佐々様は殿の同僚にして旧友にして戦友。
間違いなく板挟みですね。お疲れ様です。じゃあ、オレ兵糧管理の仕事があるんで。
厄介事を押し付けられそうだったので、さっさと自分の仕事に逃げる事にする。
なぜだろう、自分より不幸な人間がいると、自分の不幸が苦にならなくなる現象ってあるよね。兵糧管理をしつつ、日野城の備蓄の整理をしながら、時々帰りたくて泣き出す勝豊君に、子供の名前を考える精神安定方法を伝授しつつ仕事をする。
さて、敦賀から越前に入るには二つのルートがある。
一つは、東側のルート。木の芽峠を越え今庄を抜けて府中に出るルート。
もう一つが西の海岸線を北上し杉浦、河野を経由して府中に出るルート。
その二つが合流した先が府中である。府中には石山本願寺から派遣された一向宗の七里頼周がいる。
まずは、この府中を目指す。
そこで、前田軍は軍を二つに分けた。
前田軍および羽柴軍が西側のルートを北上。そのまま府中前で東側の合流地点まで進軍。その後、明智軍が東側のルートを北上、その際、羽柴軍が南下し、東側ルートを挟撃。前田隊が府中からの援軍を止める。
もし、府中にいる一向宗が、西側ルートの杉浦や河野に援軍を送っても、後続の明智軍が東ルートを北上すれば、援軍のない東ルートは敵ではなく、そのまま、西ルートの出口を抑えて、一向宗の援軍もろとも、袋のネズミにできる。
「トシ。府中で大殿到着を待つことになるが、兵糧は大丈夫か?」
殿の言葉に、顎に手をやりながら返事をする。
「問題ありません。敦賀から船で杉浦、河野への運ぶ手筈を整えております。」
初手の東ルートで敗れれば、そもそも兵糧輸送が不要になるし、明智隊が破れても、羽柴隊がいる以上、西ルートに輸送を潰す余裕はない。
それ以前に、羽柴隊と明智隊の挟撃だ。
総兵力はこちらが上。兵の質でも相手は一揆の農民。指揮官においても、前田家重臣一同に加え、与力二人に、羽柴様に明智様。
しかも、後から数倍の織田本隊がやってくる予定。
どうやって負けるのか想像する事すらできないわ。
もう、何も怖いモノはない。