02 赴任
そんなわけで、あれから1ヵ月。
光琳和尚から兵法書「尉繚子」の写本の許可をもらって餞別代りとし還俗。
その後、光琳様より「三直 豊年」の名をもらう。
なんでも、光琳和尚の生家も武家で、すでに家はつぶれており、適当に使っていい名前らしい。
いやいや、この時代の名前ってそんな簡単な物じゃないからね。
「名乗ってしまえば、それでよいのだ。ただの、言葉よ。」
光琳和尚。器デカすぎだろ。底が抜けるほど。
まあ、そんなわけで、仏の道から放り出された俺は、岐阜城へ行き、殿(前田利家様の事だ)と面会。その後、大殿(織田信長の事だ)に許可をもらい、問題なく俺は前田利家の家臣となる。
ちなみに、大殿の顔は見ていない。殿が報告してお言葉もらって、俺に伝えて終了。
オレ岐阜城来る必要ないジャン。あの、稲葉山の山道を登る苦労はなんだったんだ!?
で、そこから3日。
俺は荒子城に向かっている。
三日も何していたかって?
書類作ってもらっていたんだよ。うちの殿。マジで脳筋。俺の役職とか権限とか考えなし。紹介状とかも用意なし。オレ、このまま荒子城行ったら不審者として殺されるんじゃね?
見ず知らずの人が、殿の部下になったから入れて。なんて言ってきたら。俺なら即逮捕するな。治安的に考えて。
一応、岐阜にいる同僚とも挨拶をしたが、どうも現在朝倉討伐のために、戦争準備中らしい。あ~、浅井とは同盟中だし、金ヶ崎の撤退かな?まあ、いいか。俺が参戦するようにはいわれていないので問題なし。どうせ、木下藤吉郎が殿して、功績上げるんだろう。
そういえば、俺の初陣っていつになるんだろう。暇なときに「尉繚子」読んでおこう。
ちなみに荒子城は、織田の元居城である清州城と三河(徳川家康の領土だ)の間にある城だ。三河(当時は松平家)と争っていた時の出城の一つで、ぶっちゃけると、徳川家と同盟した段階で、意味のないものとなっている。
いや、同盟破棄されたらまた最前線なんですけどね。
荒子城一帯の平野は裕福な土地で、防衛拠点としてではなく、支配の象徴としての意味に移行されている。
とりあえず、代官としての権限と検地の許可をもらう。
というか、検地って何?って言われたときは、口から魂出そうになったわ。
荒子城行くのが怖くて仕方ない今日この頃です。