27 新規武将
さて、新年あけて元亀四年一月。正式に、南近江にある日野城の城主に任命された。
と、その前に駆け込みでもう一つ結婚式が行われた。
オレの腹心の勝蔵君。
この度、木村様の姪っ子を娶りまして、木村家の絶えた分家の中野家を継ぎ、中野 勝豊となりました。
ええ、私の口利きです。元々、例の一向衆の村の出で庄屋の長男なので、そこを管理している木村様とは縁がある。オレが利久派の奥村家と縁続きになったので、オレの腹心に利家派の重鎮の縁を入れる事で、バランスを取る役目だ。
新婚なのに、仲人とか無茶ぶり過ぎる。オレの時の仲人をしてくれた殿とおまつ様に、聞きまくって、問題なく終了。
新居についてはゴメン。日野で用意するからと、入り婿状態で木村様の家で肩身の狭い思いをさせていたけれど、もうちょっとだけよ。
話を戻そう。
南近江の日野城城主 前田利家。
最初大和って言ってごめんね。対大和という話だったらしい。
まあ、立地条件は変わってない。というか、ヤバイ。もし大和で何かあって、この城が落ちたら、琵琶湖方面に抜けられる。琵琶湖の南を通る街道の中山道は、織田の本拠地である美濃尾張と京都を結ぶ生命線である。
その為、ここら辺は織田家重臣で武闘派筆頭の柴田勝家に任せていたのだ。だが、昨年末に伊勢長島(と甲賀)が制圧できた事で、後方の憂いが消え、最大戦力である柴田を手元に戻す為に、前田利家と交代させる事になったのだ。
紛争地帯じゃなくなったのでもう安心。って、大火事の跡で煙くすぶっていますが「大丈夫です。」って言われて、誰が安心できるんだよ!!
どう見ても危険地帯です。本当にありがとうございました。
そんな、日野城はテンヤワンヤの状況である。
前にも少し話したが、荒子勢の中には、南近江に行くのを拒み、地元で生きる決心をした者もいる。オレの部下の内政団にも数名そういう人がいるわけで、当然、少なくなった人員で今まで以上の大きな領土を統治できるわけがない。
というか、そんなのオレが死ぬ。荒子城ですらアレだったのに、さらに大きな領土とか言われると確実に死ぬ。新婚早々死ぬ。死ぬのは嫌だ。
というわけで、人員補充がされました。
いや、普通はそんな簡単にはいかないんだけどね。それができたのには理由があるのですよ。
ロクな理由じゃないけどな!!
まず、補充員筆頭。前田慶次郎利益さん。
どう見ても問題児です。本当にありがとうございました。
この人。荒子城の前領主である前田利久の嫡男(養子)です。はい、面倒さがググッと上がりましたね。そんな彼は殿の荒子城継承後、父親と共に岐阜で暮らしていたのだが、この度叔父である前田利家に仕える事になったのだ。まあ、半分くらい地元に残って減った荒子勢利久派の旗印として、出てきたんだろうけど。
なんというか、ゴツイ。デカイ。ウルサイ。という素敵人間です。
奥村様と仲がいいらしいので、彼に全部任せよう。
で、その次が蒲生 賢秀さん。
だれだよ?って思ったけど。要はこの城の前の持ち主で、この地域密着の武将さんです。
また、現・地・勢・力か!
織田家上洛の際、六角家と一緒に戦ったが負けて降伏。嫡子を信長の所に人質にだして、柴田様の与力として戦い続けたのだそうだ。
で今回、上司を前田利家と交代。与力継続で、嫡子も岐阜で人質継続らしい。頑張れお父さん。
そして、オレはこの人を評価している。なにせ、日野城はきちんと年貢の記録を取っている。すばらしい。さすがに万石規模の領土を感覚で管理はできないようだ。ありがとう。でも、それはそれでいろいろ問題が起きているんだけどね。
地元出身のせいか、この人がこの地域の領民とのつなぎ役なので、きちんと配慮しておこう。とりあえず、岐阜に帰る時は、息子さんに手紙がないか聞くことにする。
そして、新たな任地でデスマーチになっている。
日野城にある物資のとりまとめの為に、既存の日野城の記録をまとめているのだが、素敵なことが判明した。
さっき、蒲生さんの説明で言っていた問題だ。
物資の取りまとめや記録の公式方法というのはこの戦国に存在しない。簿記も在庫管理表もないわけだ。
荒子城式物資管理記録と、日野城式物資管理記録は、作成者が違う為まったく違う形式なわけである。地方になれば、同じ物資でも呼び名が違ったりするからさらに素敵なことになるのだろう。
とりあえず、記録方法を統一させなければ!?
もちろん荒子式にだよ。こっちのほうが立場上なんだから、こっちを優先してもらうよ!
というか、そもそも日野式管理記録法をわかる人がいないってどういうこと!?
日野式管理書式に甲タイプ。乙タイプとかあるんだけど!?
だれだよ!?これ書いたの!!って、書いた人が戦死しているの!?
勝豊君。ちょっと、帳面持ってきてー!!