小ネタ 三直豊利 - Wikip○dia
三直 豊利(???-1599) 戦国時代から安土桃山時代までの武将。初名は豊年。妻は奥村永福の妹加奈。子は秀利。
戦国時代を代表する軍師の一人としても知られ、織田氏の家臣である前田利家の部下として活躍。同年代の武将竹中重治と共に「伏竜鳳雛」または「今士元」と称された。
日本管理会計の祖
三直豊利が作り上げた功績として、在庫管理システムがある。現代でもその痕跡が残っているほど画期的なものである。現代の公認管理記帳方の一つ荒子式の名は、その原型が作られた荒子城(愛知県名古屋市)に由来する。
生涯
尾張に生まれたとされているが明確な記録は残っていない。豊利の存在が出るのは荒子城に残されていた資料からで、この資料から逆算すると元亀元年(1570年)には仕官していたとされる。
仕官当初から、城の管理を任されていた為、前田家重臣奥村家の者と思われるが、寺の坊主であったという記述も残されており、奥村家庶子が寺に入った後、その才覚を見込まれ還俗したという見方が強い。
ただ、奥村家息女加奈を妻とした事、またこの婚姻と同時に、奥村分家ではなく三直家を立ち上げている事から疑問視されている。
蒲生家に伝えられる三直十四書(注1)によると、1574年の前田利家が、筒井順慶を打ち破った日野城の戦いにおいて、策を巡らし軍師として暗躍していたことがうかがえる。
その後、中山道と東海道をつなぐ瑞方道(旧名瑞鳳道。現国道XXX号線)の改修指揮を執っている。
このため、当時から軍略のみならず前田家の内政を一手に取り仕切っている事がうかがえる。
越前侵攻
豊利が軍師として名を馳せるのが第一次越前侵攻時である。侵攻途中で武田勝頼率いる甲斐の武田軍との戦い(長篠の戦)により前田軍が撤退する中、竹中半兵衛と共に策を練り、前田利益、蒲生氏郷の協力を得て越前一向衆の追撃部隊を壊滅させ、そのまま進軍し府中城を落城させた『引き鳥府中の戦い』である。
またこの戦いの際、後の越前統治を見越して軍事行動をとっている事から、豊利が高い政治能力を持っていた事をうかがわせている。(注2)
越前統治後は、一乗谷の復興にまい進し、現在の一乗谷寺社通りの原型を作っている。
寺社への手厚い保護(注3)、民衆への減税と復興による手腕により、北陸民衆への人気は高い。一乗谷において12年ごとに行われる三宗派同時の御開帳が「三納祭り(みのうまつり)」と呼ばれるのは、三直の語呂合わせである事が、当時の寺の資料に残されている。
本能寺の変の後、前田利家に天下を取る策を授けたとされているが、同様の黒田官兵衛と違い。主君に活を入れる為と言うのが通説である(注4)。
豊臣政権になると大阪城に留まり、大老前田利家を補佐し続けた。
慶長四年二月。加賀にて病死。死因は肺の病とされ、肺炎か肺結核と推測される。
人物・逸話
・その直筆の書が多く現存しており、また特徴的な外見から多くの人にその風体を書きとめられている。その中では、柔和で、明朗快活な弁舌を持ち、声を荒げるようなことはめったにない人物とある。
・一乗谷天台宗『三乗寺』には「乱世にありて鳳雛。治世にあれば名僧たるを約束された人柄也」と当時の高僧の記録が残されている。
・豊利の死後、前田利益により当人の生前の姿を書き残させている(石川県立美術館所蔵)。その際、二度書き直させたという記録が残されており『引き鳥府中の戦い』以降も双方の親交の深さを物語っている。
・1577年の手取川の戦いのおり一夜城を築いたとされるが信憑性は低く。後世の創作とされている。
・竹中半兵衛と親友もしくはライバルとして美濃尾張時代から関係があったとされるが、そのような記録は残されておらず。現存が確認される接点は『引き鳥府中の戦い』の時のみである。
・1972年に一乗谷の五乗堂の天頂に作られた三尾の鳳凰に三直豊利奉納の文字が見つかり重文指定され、五乗堂の廃棄工事が中断。建築会社と一乗谷市との訴訟問題になった鳳雛事件がある。
注1:三直十四書。前田利家が日野城主になった際、蒲生賢秀が嫡子氏郷に送った計十四通の手紙の事。その記述は三直豊利の行動に関する報告が多く。織田信長が三直の能力を危惧し、娘婿の氏郷に情報を集めさせたという見方もある。ただ、この行動が後の『引き鳥府中』の氏郷参戦につながったというのが一般的な見解である。
注2:蒲生帯書。蒲生氏郷が死ぬまで身に帯びていたとされる書状である。帯に縫込み身から放さなかったという解釈は後世の創作である。その内容は引き鳥府中の際、織田信長に宛てた三直豊利の直筆の書状で、その中に越前での統治に関する記載が残されている。なお、なぜ信長宛の手紙を氏郷が持っていたかは諸説がある。
注3:一乗谷の寺社について、主君である前田利家と激論を交わした記録が残されている。忠臣とも呼ばれた三直が、主君と相対した唯一の記録であり、当時の多くの重臣の記録の中にも「双方収まりつかず」との記述が残され、その確執の大きさがうかがえる。
注4:豊臣政権下の関白豊臣秀吉の前で、この件を聞かれた際「是」と答えたため、場は騒然となった。しかる後「さもなくは、佐和山にて加賀勢が出る事かないませなんだ故に」と続けている。秀吉自身がこの問答を書き残させ、その知略を褒め称えている。
読み直して思った。
誰だこれ?