114 北陸侵攻の大義名分
天正七年十一月
石山本願寺。織田家と和睦。
和睦とは名ばかりの降伏である。門跡の本願寺十一世 顕如は、本拠地石山本願寺から退去。紀伊へと送られた。
一度、大殿から「一乗谷に顕如入れちゃダメ?」って手紙が来たけど。
いい訳ないだろ!!
厄介事を、こっちに持ってくんな!
と、いう内容の手紙を丁寧語フィルターを通してから送る。ただ、顕如の息子である教如が一乗谷に来るらしい。父親と切り離した人質という事なのだろう。
まあ、一乗谷一向衆の派閥がまた荒れるだろうけどね。一応、側近は最小限にしてね。とだけ、付け加えておく。
最悪、何かあっても扶持米と言う命綱はこちらが握っているから大丈夫だろう。
本願寺の和睦に合わせて、越前府中より佐々成政が部下200名と共に金沢城へ到着。
着々と準備は整っていく。
さて、能登(と越中)侵攻の前に、準備しなければならない重要な問題がある。
前にも少し話したが、大義名分である。
加賀守という公職である前田利家が、ジャイアンのように「お前の物は、オレの物」感覚で隣国を奪い取るわけにはいかないのだ。
越前と加賀への侵攻は、あくまで加賀平定のための戦いだ。だから敵が“加賀”一向宗であり、“越前”一向宗ではない。越前侵攻時でも、わずか二郡とはいえ、加賀の領土を占領している。
つまり、これまでの働きは前田加賀守利家が、加賀の地を取り戻す。という話なわけだ。
当然、これは加賀を手に入れるまでであり、能登越中には通用しない。
織田家家臣前田利家は、能登守でもなければ越中守でもない。旧室町時代の守護職でもないので、北陸に攻める理由が必要である。
その為に、長宗顒様のクーデターを利用する。
別に、長様に大義名分があるわけではない。一応、長様は一族を殺され、能登の領土も奪われているが、公式に役職についているわけではない。敵討ちと言っても、長一族は能登畠山家の重鎮でしかなく、能登の支配者ではない。能登を支配する正統な権利があるわけではない。
すべて当人の私怨というわけだ。
結果、今回のクーデターは長宗顒様下剋上という事になる。
それがなぜ、能登侵攻の大義名分になるのか?
長様の現在の立場が関係する。
つまり、長様は織田家家臣である。織田家は主君として家臣を助ける義務があるわけだ。
『窮地に置かれた織田家家臣を救うために、近隣の加賀前田軍が出発する』
大義名分の出来上がりである。
もちろん長様と合流したから終了ではない。クーデターが始まれば、それは戦争状態が開始した事を意味する。そして、敵がいる以上、こちらの都合で戦争は終わらない。
という理由で能登侵攻はとことんまで進められる。
大義名分は重要な話であるが、同時に「あればOK」と言う程度のモノでもあるのだ。
なんで、わざわざこんなことをしたかと言えば、この理由ならほとんどの問題がグダグダにできるのだ。
例えば『長様の仇であり遊佐の一族の一部が逃亡。逃亡先は越中上杉家。長様がそれを追って侵攻。急ぎ長様を救いに行く(※ただし、この情報は不確定情報を含みます)』
これで、能登のみならず越中に攻め込む理由が出来た。どうせ、前田軍が能登に攻め込めば、助かる見込みのない遊佐一族は越後上杉家に逃げる。
当然、その際の逃走ルートを告知するわけがない。見当違いの方向を探す前田軍にわざわざ指摘する逃亡者はいない。
結果、上杉家に逃げ込むという事実だけが残り「我々は追跡には失敗したが間違っていなかった」という事実が残る。
余談ではあるが、長様の私怨による今回の独断専行を、織田家は罰する義務もある。
勝手な行動をした長様はもちろん罰せられるわけだ。
例えば『独断専行により、(下剋上で手に入れた)能登一国は召し上げ』
こんな感じで長様の今回のクーデターはくたびれもうけで終わる。
ただ、その理由が一族郎党の敵討ちと言う(武士の世界では)美徳であれば、情状酌量の余地も出るわけである。
例えば『一族の無念を晴らした働きは天晴れである。その功に報いて領土を下賜する』といった恩賞が渡される。
もちろん、下賜される領土がどれくらいになるかは裁定者の判断になるし、クーデターにより支配者がいなくなった能登は、代理人が臨時で支配する事になる。
ちなみに、長様に下賜される領土を決めるのは主君であり裁定者である織田家である。さらに、代官を派遣するのも織田家である。
あとは、朝廷からお墨付き(官位)でも与えられれば完了だろう。ちなみに、朝廷のある京都を支配しているのは織田家である。
なんで、大殿が一貫して京都を支配し続けたかよくわかる構図だ。
天正七年十二月末
長宗顒様。二十二名の徒党と共に、七尾城城主の遊佐 続光を討ち取る。
そして、織田家による能登越中侵攻が開始した。
年末なのに…