109 軍師
一室で布団に横たわり、荒く深く息をしていた。
その顔は蒼白で、死相が浮き出ている。
竹中半兵衛重治
もはや目を開ける事すらできない彼の頭脳は、それでもめぐっていた。
『野心』
自分には生まれた時からそれが欠けていた。
人より優れていると自負できる。人より秀でていると自覚している。
それ故に、何かを成し遂げたいとは思わなかった。
うらやましいとは思わなかった。
諸行無常。
莫大な富。広大な領土。手足のごとく動く軍勢。
それにどんな意味がある。
誰もが生きる事に貪欲で、誰もが奪う事に執着し、誰もが周囲を警戒する中。
自分は知っていた。生きる事は容易で、奪う必要もなく、警戒するに値しない。
一国一城。
戯れに手を出してみれば、天下の名城が手に入った。何一つ。予想外の事は起こらなかった。一国一城を手の中で転がし。そして、興味を失った。
そんな時だ。
彼に出会った。
彼は何も持っていなかった。強靭な体躯も、鋭利な知恵も持っていなかった。
彼の中にあったのは感謝だった。
奪われ続けた己に、与えてくれた人への感謝しかなかった。
興味本位でそばに付き、彼の求める先を見てみようと思った。
そして知った。彼の望んだ先は、それは余りに簡単で、あまりに拍子抜けするものだった。
ただ、楽しく笑う。
自分の好きな人達と、まるで子供のように楽しく笑う。
なんとも単純で、朴訥で、そんなありふれた物を望める事がうらやましいとすら思った。
そして、そんな簡単な事すら見落としていた自分が惨めに思えた。
それ故に決めたのだ。彼に、それを与えようと。
自分はあの輪には入れない。だが、楽しく笑う輪を見る事なら出来る。
その為に、私のすべてを使おうと決めた。
そして、そいつが現れた。
自分と同じ立場の者。それ故に確信する。
宿敵だ。
目の前に男が座っていた。かつて賢き者と評した男だ。
盤をはさみ対局に座り、碁笥(碁石入れ)に手を伸ばす。石を掴んで盤へ…
しかし、石を置いた先は碁盤ではない。
日本地図。
地図に置かれた碁石は彼の色だけではない、紅、藍、紫、翠。様々な色の碁石が置かれており、豪奢な模様を作っていた。
そして、男が置いた黒い石の場所は『加賀』。
鼓動が一拍子早くなった。
あの時、自分でも知らずに予言していたのだ。
最後の最後にと…。
抑えきれず唇が持ち上がり、歯を見せるように笑いが漏れる。
8度の勝利と2度の完敗。
知りえる事の無き、知りたいと願う、全力をかけて挑むに値する…我が封じられた欲よ。
いいだろう。それが今際の際の望みなら、証明してやろう。
半兵衛は自分の碁笥に手を伸ばし白い石を掴んだ。
布団の中でかすかに腕が動いた。力ないその腕は布団を押しのける事もできず。布団の重さに負けて落ちた。
天正七年六月十三日
多くの人が死んだように、一人の男が死んだ。
手紙を畳んで机の上に戻す。わざわざ羽柴秀長様がオレ宛に送ってくれた手紙だ。
見るともなしに、机に置いた手紙を見る。
唯一、オレと対局できた男が死んだ。
もし、彼が生きていたのなら。オレは、望まぬ道を歩む事になったかもしれない。その為に、全智全力を尽くして戦う事があったかもしれない。
しかし、その相手が消えた。
その後釜は、小寺官兵衛。
悪いが話にならない。あの男では争いにすらならない。
目を閉じる。前田利家の人となり、加賀越前の国力。羽柴秀吉の功績、正史ならたどる未来。そして織田信長。
「人は、欲の為にここまで他人の命をないがしろに出来るものなのだな…」
かつて、織田信長がしたように、位牌に焼香を投げつけたい気分だ。
お前に敗れるなら納得できた。お前に勝てたなら納得できた。
納得できる唯一の方法だった。
それがなくなった今。オレは…
「許せ。豊臣秀吉。お前は生贄だ」
どうやらオレは、唐の国の鳳雛よりも悪辣らしい。




