傷を癒す泉
四人は、辺りを見渡して、その美しさに、見蕩れていた。
「なあ、ここが、癒しの谷なんだな? 吟遊詩人」
うっとりとしながら、カイルが後ろを振り返るが、詩人の姿はない。
「おい、あいつ、どこ行ったんだ? 」
カイルの驚いた声に、皆も、我に返り、きょろきょろする。
「おかしいな。今まで隣にいたんだけど……」
ケインが目を凝らして、遠くも見てみるが、四人以外は誰もいない。
「ちょっとー、吟遊詩人の人、どこ行ったのよー! 」
「おーい、まだ洞穴ん中にいるのかよー? 早く来いよー! 」
マリスとカイルが方々に向かって叫ぶが、あの中性的な美少年の姿は、どこにも
見当たらない。
「また消えたか……」
溜め息まじりに、ケインが言った。
「あの洞穴は、近道だって言ってたもんな。……ってことは、やっぱり、ここが癒し
の谷に間違いない! やったぜー! 」
カイルが小躍りする。
「……ねえ、おかしいと思わない? 」
マリスが顔を引き締める。
カイルが小躍りをやめ、皆、マリスに注目した。
「あの近道に辿り着いた時は、夕方だったわ。あれから大分歩いたんだから、今は、
夜のはずよ。なのに、ここは、こんなに明るいわ。どう見ても、真昼よ」
「言われてみりゃあ、……そうだよな……」
マリスの言葉に、カイルも、クレアも、心配そうな顔になった。
「それに、あの吟遊詩人、近道を通る前に、あたしたちに『自然の能力』
とやらを使って、小さくなる術をかけたわ。あの場でそれを言うと、不気味がると
思ったから、黙っておいたけど」
「『自然の能力』……だって? 」
ケインが問い返す。
「ええ、確か、そう言ってたわ。だけど、この景色を見る限りでは、あたしたちの
大きさは、元に戻っているように思えるわ。いつの間にか、術を解いたのかしら? 」
静かなマリスの口調に、クレアもカイルも、不安気に、あたりを見回す。
「……どっちにしろ、この場所は、今まで、私たちのいた世界ーーつまり、……人間
界とは違う場所ということになるのかしら? 」
「あの吟遊詩人が消えちまったら、どうやって、もとの世界に帰るんだよ? 苦労し
て、やっとここまで辿り着いたってのに、これじゃあ、癒しの水が手に入っても、
売れないじゃねえか」
カイルが嘆き始めると、その不安は、クレアにも伝染し、彼女もおろおろし始めた。
マリスは、二人から目を反らし、ケインを向いた。ケインは、ずっと黙って、何か
を考えているようだった。
「あたしたちのいた世界とは違う次元に、今いるのだとしたら、……マスター・ソー
ドの魔石のある確率も高いのかしらね、ケイン? 」
クレア、カイルも、ケインに注目した。
ケインは驚くでもなく、こくんと頷いた。
「俺も、そう思ってたんだ。ひとつ目の魔石は、ヴァルによると、ミュミュが見つけ
てくれたんだ。次元の違う世界に散っている可能性が高いから、魔石は、魔道士でも
探し出すのが難しい。吟遊詩人も、ここが魔石に関係していると、はっきり言って
いた。やっぱり、魔石は、ここにあるのかも」
ケインの拳は、ぎゅっと握られた。その瞳には、新たに、強い光が浮かぶ。
「そして、ドラゴンもね」
マリスが、横から付け加えた。
「いや、それは、どうかな? さっきから、俺も感覚を研ぎ澄まし、心の中から呼び
かけてみてはいたんだけど、応えないんだ。だから、……いないのかも知れない。
竜神のゲートに触った時は、ドラゴンのイメージは感じられたんだけどなぁ」
少しがっかりしたように、ケインが言うが、マリスは、まだ諦めていない顔だ。
「もっと奥にいるのかも知れないじゃない? 魔石も、きっと、ドラゴンが持ってる
のよ」
「ドラゴンが魔石を……! 」
ケインが、はっとした。
「……もし、もっと奥にドラゴンがいるなら、……魔石を持ってる可能性がある。
マスター・ソードの課題で、最初に魔石を手に入れた時は、北の国のサル族が、魔石
を宝物にしていた。二つ目の魔石は、小人族の長老が、コレクションとして持って
いた。三つ目は、小動物の村にいた、岩を食べる動物ガンダルの腹の中にあった。
……そうだ、魔石は皆、『誰かが持っていた』んだ……! 」
ケインが、目を白黒させている皆を見回してから、マリスを見た。
マリスが面白そうに言った。
「へえ、随分『面白い人たち』に、出会ってきたのねえ。それで、ミュミュが見つけ
た時は、誰が持っていたの? 」
「ハヤブサ。キシールとかいう別次元の国の、オオハヤブサが持ってた……! 」
マリスの不敵な笑みが、確信へと変わっていく。
「ますますドラゴンが持ってる可能性が高いわ! さあ、みんなでドラゴンを探しま
しょう! 」
マリスが拳を上げる。ケインも上げかけるが、首を傾げる。
「……だけど、ここは、夢の中に出て来た、魔石のあった場所と、ちょっと違うよう
な……」
ずいっと、両手を腰に当てたマリスが、進み出る。
「なんでもいいから、ドラゴンを探しましょうよっ!」
「……きみは、魔石よりも、ドラゴンが目的なんじゃ? 」
「だって、見たいじゃない? 」
「あのー、……それだけ? 」
二人の間に、カイルが、すまなそうに、口を挟んだ。
「お取り込み中、悪いんだけどさ、……ドラゴンも魔石も、クレアの身体を治して
からでも、遅くはないんじゃないか? 」
マリスもケインも、慌ててクレアを見た。
クレアは肩を竦めて、上目遣いで、二人を見ている。
「ごっ、ごめんね、クレア! 決して、あなたのこと、忘れてたわけじゃないのよ」
「そ、そうだよ! もちろん、クレアの身体を治してからの話だからさ! 」
二人は、必死に言い訳をした。
(……なんて綺麗なところなのかしら……! )
クレアは、ひとりで、泉を見つめていた。
人間界よりも、いくらか濃い青い空は澄んでいて、温かい日差しが、樹々の間から
こぼれている。
聞き慣れない、トリの囀りが、聞こえる。
泉を囲む、突き上げるような岩々。人の手が加わったものではなくとも、いや、
人の手が加わっていないからこそ、美しいのだと、クレアには感じられた。
(癒しの谷……ここが……)
離れたところで、こちらに背を向けて見張るマリスの他には、誰もいない。
ケインもカイルも、他の場所で、時間を潰している。
人の気配などない、例え、誰もいないとわかってはいても、このような自然の中で
水浴びをするのは、彼女の性質から言って、大いに抵抗はあった。
だが、大怪我をして、魔法で治療済みであっても、傷は残り、体調もすぐれない。
その上の登山で、身体中の筋肉も、凝ってしまっていた。
このような透き通った水での水浴びは、ありがたかった。
(誰もいないんだし、マリスが見張っていてくれてるんだもの。大丈夫だわ)
ドキドキしながら、着ているものを、そろそろと脱いでいく。
衣服を折り畳み、側の岩の上に置いた。
そっと、足から漬かると、涼し気な水の音と、心地よい風が、そよそよとやさしく、
彼女の身体を、髪を、撫でるように、吹き抜けていった。
恥ずかしさに心臓は高鳴り、頬も上気していく。それでも、泉の心地よさには変え
られず、少しずつ、滝にも近付いてみた。
あまり深くはなく、滝の間近にまで寄って行っても、彼女の腰のあたりにまでしか、
漬かることはなかった。
彼女の頭よりも少々高いくらいの滝の水に、手を差し延べてみる。
透明の水が、流れ落ちる。
クレアは頭から、すっぽりと、滝の中に入った。
(なんて、気持ちがいいのかしら……! )
滝の勢いは、痛くもなく、ちょうどよい。
(皆も水浴びしたいだろうな……。後で、勧めておこうかな)
そう考えながら、クレアが、滝から出た時だった。
「どう? 気持ちいいでしょ? 」
目の前には、消えたはずの、例の吟遊詩人が、ふわりと浮かんでいたのだった。
「きゃっ! 」
クレアは思わず、ばしゃんと、水の中にしゃがみこんだ。
「あ、あ、あなた、いなくなったんじゃ……!? 」
顔中真っ赤に染めて、クレアは、顔だけを水面に出して、詩人を見上げた。
ふわふわと浮かんでいる、中性的な美少年は、にこっと笑った。
「きみを治してあげるよ」
「……? 」
クレアは、わけがわかっていない目を、彼に向けた。
「ここが癒しの谷って言うのは、本当だよ。ただし、それは、僕がいればの話なんだ
よ」
詩人は、微笑んで、人差し指を立てた。
「きみを、ここへ連れてきたかった。ケインのこともだけど、僕の用は、きみにも
あったんだよ、クレア」
これまでの、茶目っ気とは少し違う、落ち着いた笑顔で、彼は続けた。
「さあ、立って。デモン・ソルジャーにやられた傷を見せてごらん」
彼の美しい顔立ちと、その姿は、どこか神がかっているように、彼女にも思えて
いた。
普通の男性にそのようなことを言われて、素直に従う彼女ではなかったが、その
神聖な雰囲気が、彼を男性と意識させずに、彼女を立ち上がらせることができた。
クレアは長い黒髪で胸を隠し、その上から手で覆った。
「ふ~ん、……随分、ひどくやられたんだねえ。魔道士に、治療の呪文もかけてもら
ったんでしょう? 」
「ええ……」
「ここまでひどいと、人間では、神殿の祭司長クラスの白魔法じゃないと、難しい
かもね」
吟遊詩人は、彼女の腹部の、紫色を帯びた数本の長い掻き傷を見つめた。
彼女の、白く美しい肌に、そこだけが皮膚を引きつらせ、痛々しい跡を残している。
詩人は、傷だけ観察すると、クレアの顔に、視線を戻した。
「この滝の水を飲んでごらん」
詩人が、滝に手を入れると、水がきらきらと、光輝き出した。
半信半疑であったクレアも、言われた通りに、煌めく水を両手で掬い、一口
飲んだ。
詩人も水に漬かり、クレアと対峙する。そうすると、彼は、クレアよりも、少し
背が高い程度であり、マリスと同じくらいだと、彼女は思った。
その彼の手が、すっと伸びていくと、腹部の傷に触れる前で止まった。
「身体の力を抜いて」
クレアは目を閉じると、そのように努めた。
だが、心臓は早く打ち、動揺もしていたので、どうしても、完全にリラックスする
ことはできなかった。
腹のあたりに、温かいものを感じ、うすく目を開いてみる。
詩人のてのひらから、淡い光が、傷に向かって発しているのが見える。
すると、みるみる紫色の傷が小さくなっていく。
クレアは目を見開き、それを見つめていた。
傷は完全に消えた。
それと同時に、気怠い感覚もなくなり、身体が軽くなったように思えた。
「魔法でも治らなかったのに……! 」
驚いた顔で、クレアは詩人を見つめると、彼は、ふっと笑った。
「さっき、マリスさんが言ってたでしょう? 僕が使うのは魔法じゃないんだ。自然
の力なんだよ」
詩人は、クレアの両肩に、手を置いた。彼女の身体が、ビクッと震えた。
「身体の方は、これで完治したよ。怪我をする前と同じ状態のはずだよ。次は、心の
方を、治してあげる」
「……心の……方……? 」
「そうだよ」
詩人は、やさしい笑顔で、頷いた。
「きみが魔法が使えなくなったのは、あきらかに、精神的なものだ。使わなくては
ならないところでは、もう使えるはずだよ」
「……でも、私……、何度もやってみたけど、できなかったわ。つかわなくてはいけ
ない場面で、もし使えなかったら……」
クレアが、うつむいた。
「大丈夫。きみの身体は、今、僕が治療して、もう完治しているんだよ。精神的には、
怖い思いが刻み込まれちゃってるから、戦闘となると、やっぱりまだ敵が怖いかも
知れないけどね、きみがやらなくては、いけない場面に、今後、きっと遭遇する。
今の四人で、白魔法が使えるのは、きみだけなんだろう? ヴァルドリューズは、
きみに、みんなのことを頼むと言ったのではなかったの? 」
はっとして、クレアが顔を上げる。
(……そうよ。ヴァルドリューズさんは、確かにそう言って、私に魔道書を返して
くださった。魔法が使えるのは、私だけだから、私に、皆のことを頼むって言って、
旅立って行かれたのだったわ! )
「思い出した? 」
クレアが、詩人の顔を、改めて見る。
「あなたは、どうして、そんなことまで、知っているの? 」
「『そのあたり』から、見てたんだ」
「……? 」
クレアは不思議そうに、彼を見つめたが、彼は、そのことには、それ以上語る様子
はなかった。
「それよりも、いいかい、クレア。きみは、才能云々と言って、時々落ち込んでいる
けど、そんなことに惑わされてはいけない。魔道を習得するのがはがゆくても、焦っ
たり、気にしたりしちゃだめだ。少し単純になるくらいでちょうどいい。ひたすら
信じて、修行に励むんだよ。魔道を頑張って極めれば、きみの持っているチャール・
ダパゴの魔道書を、使いこなすことだって出来る。そうして、きみは、ケインを
うまくサポートするんだ。マスター・ソードの宝石を揃えるまで……いや、揃えた
以降も、ずっと、彼のことを支えていくんだ。きみは、この戦いで、最後まで、
ケインと共に戦い抜くんだ。そういう運命だと思っていいだろう」
クレアは、びっくりして、詩人の顔を見た。
彼の髪と同じ薄茶色の瞳は、真剣なまなざしで、彼女を見ていた。
「ルナ・ティア……」
詩人の言葉に、クレアは、自分の耳を疑った。
「きみが、死の淵から這い上がってこの谷へ来たことによって、……その前に、伝説
の剣の勇者たちと、獣神を呼ぶ二人の戦士と出会い、旅をすることを選択した時から、
『ルナ・ティアが来やすくなっていた』んだろう。僕には、今、『きみの後ろに、
ルナ・ティアが見える』」
「……ルナ・ティアって……あの『戦いと癒しの女神』の……? 」
驚いて見開かれるクレアの瞳を、じっと見つめると、詩人は言った。
「ケインには、きみの力が必要だ。だから、戦闘においても、精神面においても、
彼を支えて、勇気づけてあげてくれ」
クレアには、詩人の言うことは、よくは理解できなかったが、女神の名前と、運命
という言葉は、強烈に、彼女の心に響いていた。
吟遊詩人は、クレアから離れると、背を向けて、浮かび上がった。
「ま、待って、またどこかへ消えてしまうの? 私は、これから、いったい、どう
すればいいの? 」
詩人は、顔だけ振り返った。
「自分の心に素直に従っていれば、おのずと、何をすればいいかは、わかってくる
はずだよ」
「そんな抽象的な言い方では、わからないわ」
両手を組み合わせ、彼女は、懇願するように、詩人を見上げる。
詩人は、控えめに、微笑んだ。
「ケインのためになることを、考えてやってくれ。彼の成長は、きみの成長でもある。
きみは、『ケイン側の人間』なんだよ」
「……わからない……わからないわ。どういうことなの? 」
「くれぐれも、あの獣神から、目を放さないようにね。彼のおかげで、女神がきみの
側へ寄ってきたのもあるけど、それとこれとは別だから。あの娘に罪はないんだけど、
僕が言ってるのは、獣神のことだから」
「……どういうことなの? 」
それには答えずに、詩人は、手を挙げた。
「応援してるよ、クレア。頑張って」
そう言うと、彼の姿は、ふっと、その場から消えた。