形勢逆転
『ひとり早くもやられたか。なるほど、竜どもめ、以前の勇ましさを取り戻しておるわ』
リリドが腕組みをして、余裕の微笑みを浮かべる。
正面を飛ぶ、ケインを乗せたゴールド・ドラゴンのスグリは、彼女から目を離さない。
ヒヒヒと笑い声を上げながら、リリドの横には、背は低く、まるまるとした果物が腐ってぶよぶよになったような、膨らんだ体型の魔族が、手をこすり合わせて、漂うように浮かんでいる。
ケイン、スグリは、その不気味な魔族のことも、油断なく見据える。
『どうした、ドラゴン・マスターよ、遠慮せずに、かかってくるがよい』
魔族の女は、低いしゃがれた声で笑いながら、両手を広げてみせ、いかにも自分はこんなにも無防備だ、と強調する。
次の瞬間、マスター・ソードは雷を放っていた。
雷は、女ともども、丸い魔族にまでも及んだ。
『ほほほほ、その程度の術では、効かぬわ! 』
リリドも、隣の魔族も笑う。
スグリが方向を変え、脇に回る際、剣は、赤い炎を噴射し、氷の刃等、ボルボを試した時の技が、次々と発動する。
スグリには、始め、ケインがなぜ、ボルボを一撃で倒した最大級の炎の技を使わないのかわからなかったが、徐々に理解していった。
魔族とは、弱点がそれぞれ違うものだった。例え、ボルボを倒せた技であっても、他の魔族にも有効とは限らない。
そのため、技を小出しにして、相手の弱点を探り、切り札は、最後に取っておこうというのだろう、と。
魔族ひとりを倒したとはいえ、冷静に取り組む姿に、スグリは、密かに感心した。
ケインの瞳が一層鋭くなった。
スグリは、彼の念じた方向へ、即座に飛ぶ。
剣先から、きらきらと光る、水晶の破片のようなものが、一気に噴き出した。
吹雪のように見えたそれは、ドラゴンほどの巨大な氷の刃となり、リリドに突き刺さる!
ーーかに思われたが、その足元にいる丸い魔族の身体を貫いた。
『ヒギャーッ! 』
魔族は、マントで防御したにもかかわらず、だらだらと濃い緑色の血を垂れ流し、落下していくところを、ドラゴンたちに噛み砕かれた。
それを、リリドは顔色も変えずに、ちらりと見ただけであった。
氷の刃は、転じて、巨大な黒い稲光となると、背後からリリドを襲った。
『ぎゃああああ! 』
女魔族の身体は、黒い放電に包まれた。
戦闘中のマリス、カイルも、それを見つめ、クレアも息を飲んで、様子を見守った。
リリドの絶叫が、止まない放電の中で、続いている。
ケインの眉が、わずかに動いた。
「おかしい。ボルボや、他の魔族をやった時と感触が違う。なんていうか……手応えが感じられない! 」
『皆、離れるのだ! 』
ケインを乗せるスグリが、近くのドラゴンたちに合図すると同時に、退散した途端だった。
にわかに黒い竜巻が起こり、スグリとケインとを包んだ。
余るほどの勢いで回転する黒い渦には、ところどころスグリの金色の身体が映る。
「ケイン! 」
『スグリ! 』
マリスがドラゴンとともに駆けつけ、他のドラゴンたちも、一斉に、黒い竜巻に注目した。
『ほほほほほ! 』
黒い竜巻の真上には、巨大なリリドの半透明な顔が現れ、笑い声を上げた。
『この私が、そう簡単に、人間の術如きに、引っかかるものか! 』
黄色い瞳の中の、黒い瞳孔が、くわっと、縦に細く伸びた。
その瞳孔から、青白い光線が発射され、竜巻の上から注がれると、絶叫とともに、青い血だらけになったスグリが、竜巻から放り出された。
「スグリさん! 」
『スグリ! 』
『スグリ! 』
マリスと竜たちが叫ぶ。
魔女の高笑いが、空に充満した。
『見たか、竜ども! わたくしの力を、思い知ったか! お前たちの仲間を喰らい、戦闘の後一〇〇年間眠ることで、その力を蓄えたこのわたくしは、一〇〇年前とは、違うのだ! いくら、お前たちが束になってかかろうと、この私の前では、人間の赤子の手をひねるようなもの』
リリドは、ヒトの八重歯が伸びたような、獰猛な牙を見せて笑った。
『予想通り、喰らった竜の力は、パワーアップにつながった。私の力は、今や、高位魔族にも匹敵するであろう。お前たちの中で、最も戦闘に長けたスグリですら、このざまだ。わかったら、今すぐ無駄な抵抗は止めることだ。もっとも、止めたところで、そちらから売ったケンカであるからには、我らとても容赦はせぬが、ここはひとまず退散してやろう。次に対面する時には、更に仲間を連れ、貴様たちを、恐怖と絶望に陥れてやる。せいぜい、怯えて待つがいい』
竜巻が、巨大なリリドの姿に変わる。
その骨張った青白いてのひらには、スグリの青い血を浴びたケインが、剣を握り締めたまま、倒れていた。
「ケイン! 」
「ケイン! 」
マリス、カイル、クレアが口々に呼びかける。
『このドラゴン・マスターは連れてゆく。こやつの変わり果てた姿を見れば、期待に満ちておった貴様たちの士気は、完全に消え失せ、我々に楯突こうなどと、いかな無謀な考えは、二度と起こすこともないだろう』
聞き終わらないうちに、マリスは、自分を乗せたドラゴンを促すが、彼は、恐怖のためにすくんでしまい、それ以上、リリドに近寄ろうとはしなかった。
「どうしたのよ、早く行ってよ! ケインが連れて行かれちゃうじゃないの! 」
マリスが強く訴えるが、ドラゴンは、首を振った。
『今行っては危険だ! リリドが、あれほどにまでパワーアップしていたとは……! 奴は、ボルボをも簡単に凌ぐ力を身に付けていたのだ! 今行っては、俺たちも、お前たちも、やられてしまうぞ! 』
『ほほほほほ! 』
リリドの半透明の腕は、もう腕の原形をとどめておらず、ぼやぼやと、黒い煙と化していた。
ケインの身体は、その煙に包まれると、浮かんでいった。
「待ちなさいよ! どこへ行く気よ!? 」
マリスが黒煙に向かい、叫ぶが、リリドの姿をしていたものは、ますます透明になっていき、生き残っていた二人の負傷した魔族たちも、姿を消し始める。
「……うっ……」
その時、ケインが頭を振って、起き上がった。
「ケイン! ケイン! 無事なのね!? 」
マリスの叫ぶ声に、ケインは正気を取り戻したが、黒煙は、リリドの巨大な手のように、ケインをさらに包み込み始めた。
「うわっ! なっ、なんだこれ! 」
剣を振るうこともできずに、ケインは黒い煙の中へ、もがきながら、完全に姿を消した。
「ケインー! 」
マリスの必死な叫び声も空しく、黒い煙は、宙に消えていった。
「……! 」
信じられない思いで、マリスたちは、リリドとケインの消えた辺りを、いつまでも見つめていることしか出来なかった。
ゴールド・ドラゴンたちは、荒野に降り立つと、怪我をしたスグリを取り囲み、治療に当たった。
「ケインが……ケインが……! 」
クレアは、両手で顔を覆い、泣きじゃくっていた。
いつもは慰めるカイルも、さすがに言葉を失い、茫然と立ち尽くしている。
マリスは、リリドの消えた空を、キッと、いつまでも見上げている。
そのうち、一頭のドラゴンが、マリスに近付いていった。
スグリが呼んでいるという。
マリスも、カイル、クレアも、スグリの方へと急いだ。
青い血まみれになったスグリは、その面が憔悴しきっていることは、マリスたちにもわかった。
かなりの致命傷を負ったおかげで、治療にも時間がかかっている。
『ひどすぎる』
『もう、これ以上は……』
『今夜がヤマか……』
治療に当たるドラゴンたちの念が、聞こえてくる。
(ゴールド・ドラゴンで一番の戦闘能力を持つスグリさんでさえ、一撃で……)
スグリは、マリスの目から見ても、他のドラゴンより一段と際立って能力が高く見えていた。
マリスの、スグリを見つめる瞳は、やるせなさに潤み始めていた。
『……話がある……』
スグリの念が、目の前に並んだマリスたちに流れてきた。
これまでと違い、弱々しい。
『ドラゴン・マスター……彼は、おそらく、……魔空間へ連れ去られたに、違いない』
途切れ途切れに伝わる思念に、カイルもクレアも、驚愕のあまり、思わずマリスを見た。
「……そうなのね」
マリスは、静かに頷いた。
「おい、マリス、魔空間て……? 」
カイルが、不安気な面持ちで尋ねる。
「魔族の造った空間よ。最も奴らの力を発揮出来る、『魔』の強い場所ーー竜神の領域であるこの場所よりも、ずっと魔族に有利な」
絶望的な答えであった。
仲間のドラゴンを一頭やられた時は、ケインやマリスたち四人を責めたドラゴンたちも、今は、責めることはなかった。
ドラゴンたち自身も、今度は、本当にどうしていいやら、見当も付かなかったのだ。
今は、怪我をした仲間たちの治療に、忙しく動くのみである。
「そんな空間になんて、ヴァルがいないんじゃ行けるはずもないし、だいいち、どうやってケインを助け出したらいいんだ……? 魔族にとって、最も都合のいい場所なんじゃ、俺たちには相当不利だぜ。……それに、もしかしたら、ケインは、……もう……」
その先は、どうしても口に出来なかったカイルが、悔しそうに、ぎゅっと拳を握り締めた。
クレアの嗚咽だけが、辺りに流れる。
マリスは、リリドとケインの消えた空を、見上げた。
「ケインから聞いたことがあるわ。このバスター・ブレードは、空間を切り裂くことができるって。……もしかしたら、これで、魔空間へ入り込むことは、出来るかもしれない。ヴァルやジュニアがいれば、もっと簡単に行けたと思うけど」
妙に冷静な声のマリスは、振り返った。
「あたし、魔空間へ行ってくるわ。そして、ケインを必ず救い出してくる」
ざわっとドラゴンたちが、治療の手を止めて、マリスに注目した。
『……無茶を、言うんじゃない……! 』
弱々しいが、必死で止めるスグリの念だった。
『生身の人間が行って、無事で済むところでは……ないのだ。我々竜族にすら、得体の知れない場所なのだぞ……! 』
途切れ途切れに伝わる思念が、痛ましい。
「あたしもケインも、魔空間に行った経験はあるわ。ほんの僅かな時間だったけど、そこで、高位魔族と戦闘したこともあるのよ」
マリスは不敵な笑みを作った。
ドラゴンたちは、ざわめきながら、どうしたものかと、顔を見合わせている。
「だから、あたし、行ってくるわ。そのためには、ドラゴンの皆さんの、どなたかに、あそこまで、あたしを運んでもらいたいの。お願い出来ないかしら? 」
マリスは、両手を合わせた。
しかし、名乗りを上げるドラゴンはいない。
『魔空間の入り口になど、我々ですら危険なのだ。そんなことは無理だ』
『……悪いが、ドラゴン・マスターは、……もう……』
力のないドラゴンたちの思念が、マリスたちの頭に響いてくる。
そんな彼らを責めるわけにはいかないことは、百も承知だった。
子孫を全滅させられ、大勢の仲間も失った彼らは、魔族の恐ろしさを、マリスたち以上に思い知っているのだから。
ヴァルドリューズさえいればーー!
幾度も、その思いが、マリスに湧き起こる。
マリスの瞳に、じわりと涙が浮かんだ時だった。
「グルルル、ピー! 」
彼女の前に、ベビードラゴンが、よちよちと、つたない足取りで、歩いてきた。
「ベビー……? 」
マリスは指で涙を拭うと、アメジストの瞳を、真剣に、ドラゴンの子供に向けた。
「あなた、ケインを助けたい? 」
「グルルル、ピー! 」
ベビードラゴンは、大きな黒い瞳を、何の不安もなく輝かせている。
『ベビーを連れて行く気か? 無茶だ! 』
『そいつは、何もわかっちゃいないし、何も出来やしない。その上、俺たちの最後の子孫だと、わかっているだろう! 』
ドラゴンたちは、そう言って止めるものがほとんどだった。
「あなたの大好きなケインが、危ないのよ。一緒に戦ってとは言わないわ。あたしを、あそこの空間まで乗せていってくれればいいの。ね、お願い! それくらいなら、やってくれるわよね? 」
ドラゴンたちが止めるのも聞かず、意味が通じているのか、事の重大さを理解しているのか、その表情からは、さっぱり伺い知ることはできないが、ベビーは、安易に同意している様子だった。
『ベビー、お前、わかっているのか? 』
『魔族に、殺されるぞ! 』
ドラゴンたちがどんなに説得しても、ベビーは、愛らしい瞳をくるくると輝かせて、『ピー! 』と、応えている。
「ドラゴンの皆さん、大事な子孫をお預かりしますが、決して危険な目には合わさないと約束するわ。少しの間だけ、彼を貸してください。ただで、お借りしようとは思わないわ。あなたたちのリーダーに、あたしの生命力を、分け与えます」
戸惑うドラゴンたちの合間を進み、マリスはスグリの前に立つと、辛そうに息を
している彼の頬を、やさしく撫でた。
「スグリさん、あたしの力が、人間以外の種族にも効くものか、わからないけど、多分、サンダガーの遠縁なら、大丈夫でしょう。あなたは、死んではだめ。どうか、元気になって……! 」
マリスは、スグリの、牙の覗く口の端に、口づけた。
そして、彼の生命を取り戻すよう念じると、あたたかい光が、スグリにも伝わっていくのが感じられた。
スグリの瞳が、驚いたように開く。
マリスの奇妙な動作に驚いていたドラゴンたちにも、スグリに、生きる力が湧いてきているのを感じ取り、ざわめいた。
マリスの膝が、がくっと地面に付いた。
カイルとクレアが、駆け寄り、支える。
「お、おい、大丈夫かよ? 」
「マリス、今のは……? どういうことなの? どこか、具合が悪いの? 」
「大丈夫。サンダガーに教わった、自分の生命エネルギーを、相手に分ける方法よ。巨大なドラゴンには、どのくらい注いでいいのか、加減がわからなくて……ちょっと疲れただけ」
弱々しく呟くマリスに、今度は、ベビードラゴンが、口から光線を浴びせる。
「ベビー、あたしを、回復してくれてるの? 」
マリスは徐々に、体力を取り戻していく。
スグリを治療していたドラゴンたちも、彼が死ぬほどの重症ではなくなったのがわかると、さらに治療と回復を続けた。
『獣神の巫女よ……。おまえのおかげで、……どうやら、私は、生きられそうだ』
スグリの思念には、希望が感じられた。
元気を取り戻したマリスは、すっくと立ち上がると、頭を下げた。
「大事なベビーを、お借りするわ」
それには、ドラゴンたちも、何も言わなかった。
急いでベビーに足をかけて乗ろうとするマリスに、カイルが小声で言った。
「魔空間で、高位魔族と戦闘したことあるなんて、ウソだろ? 」
マリスは、カイルを振り返った。
彼の水色に光る瞳が、マリスの心の中まで見抜こうというくらい、鋭く、真剣になっている。
「ウソじゃないわ。ジュニアの家臣の造った魔空間に、ちょっとの間だけど、ケインと巻き込まれたことがあったの。確かに、戦闘らしい戦闘をしたとは、とても言い切れないけどね」
その時は、マリスが、ジュニアに馬乗りになって、ぽかぽか殴っていただけである。
「ジュニアも家臣も、高位魔族ではあるでしょ? ウソは言ってないわ」
「だとしても、今度は、いくらなんでも、お前の身だって、無事じゃ済まされないんじゃねえか? ケインを助けたいのはわかるけど、なにも、そこまで強がることはねえだろ? 」
いつになく、カイルの目は、真剣であった。
マリスは、ふっと目元を緩めた。
「心配してくれてるの? ありがと。そうね。確かに、今は、単なる強がりよ。あたしだって、ホントは怖いわ。だけどね、そうしなければ、ならないの」
「自分に暗示かけなきゃ、そうでもしなけりゃ、魔空間に入ろうなんて、無理かも知れないけどな」
「それもあるけど、それだけじゃないわ」
マリスは、クレアの方を見た。
心配そうに両手を組み合わせた彼女は、もう泣いてはいなかったが、不安そうに、マリスを見つめている。
「多分、後で、クレアの力が必要になると思うの。そうよ、絶対、必要になるわ! 」
「クレアの? だって、クレアは、まだ魔法ができないんだぜ? 」
「それでも、必要なの。荒療治かも知れないけど……。そのためには、魔空間に入るのは、そんなに怖いことじゃないって、カオしておかないとね、彼女、怖がっちゃうでしょ? だから、後で、あなたには、クレアを連れて来てもらいたいの」
「えっ、クレアを!? ……って、俺も行くのかよ!? 」
困惑して、カイルは、マリスの白い顔を、ただ見つめる。
「お願いね! 」
カイルにウィンクすると、マリスはベビーに飛び乗った。
マリスを乗せることに、以前のように嫌がることはないところを見ると、ベビーは、ケインを救いに行くことを、理解していると見えた。
「あたし一人でケインを救出できれば一番いいけど、そう簡単には、いかないかも知れないわ。後で、ベビーを迎えによこすから、あなたたちの力も貸してね! 」
上昇するベビーの上で、マリスが笑顔で、カイルとクレアに手を振る。
ドラゴンたちも、何も言葉を発するものはなく、皆、マリスとベビーとを見守っていた。
彼らに背を向けると、マリスの表情は一変し、真剣になった。
(バスター・ブレードで空間を裂くなんて、あたしでも、出来るのかしら? そんなのやったことないけど、やってみなくちゃ! )
数時間前に起きた良くない予感に、マリスの心臓は、早鐘を打つ。
(ケイン、どうか、無事でいて……! )
重厚な大剣を、汗ばんだ両手で握り直すと、巨大なリリドの顔のあったと思われるあたりに、振り下ろす。
空間は、ざっくりと、何の抵抗もなく、大きな斬り口を広げた。




