ちゃーにんぐ棒(艶笑噺)
(出囃子の音とともに高座に上がる落語家。花木瓜の紋を染め抜いた羽織と、頭にはなぜか鎧武者めいたロボットの被り物)
「えーまいど、ばかばかしいお笑いを一席――」
ええ、昨今は何かと不景気だ不景気だって言われてますな。物が売れないってえだけでも大変困ったことなんですが、ものによっては品不足なんてえことも出ておりますようで。
私なんかもたまにスーパーに買い物に行きますってえと、「バターはお一家族様につき一個まででお願いします」なあんて張り紙がしてありましてびっくりいたします。
これはまあ単純に景気だけのせいでもございませんで。酪農家、牛を飼って乳を搾ってそれを売るってえお仕事の方が減っておるとか、経営が苦しくなって飼える頭数が減ってるとか、いろいろ事情があるようですな。
私らが子供のころは、バターは動物性の油脂だから体に悪い、などと申しましてね。植物油からこさえたマーガリンの方を健康にいい美容にいいとありがたがっておりました。給食に添えてあるのもたいていは銀紙包みのマーガリンだったもんです。
近頃じゃあトランス脂肪酸とかいうのが細胞の壁に穴をあけちゃう、健康に悪いよ、ってえことを学者先生が言いだして、すっかりマーガリンの人気がなくなっちまったようで。
バターの棚が「お一家族さまお一つ」ですっかっらかんになった横で、マーガリンが全然売れずに積み上がってる。これじゃいけねえ、ってんでいろいろと製法や原料を工夫しだしてるようですが、さて、何年か後にはまたマーガリンの方がいいよってなことになるんでございましょうかね……?
さてある家に小学校に上がったばかりの坊やがおりまして。
外に働きに出てた母親が帰ってくるってえと玄関口まで駆けだしてきて、「おっ母さん、あのね、あのね」となにやら申します。
「どうしたんだい、そんなに飛び跳ねて」
「あのね、あのね、今日は先生が面白いご本を読んでくださったの」
「へえ、なんて本だい」
「ちびくろサンボっていう本」
「ああ、そうなのかい。良かったねえ、あたしが子供のころは変な言いがかりをつけられて出版できなくなってたけど、ちょいとは世の中もまともになったんだねえ。大体ありゃあインドの話だって――」
「ねえおっ母さん、あたいホットケーキが食べたいや。サンボみたいにたっぷりのバターで焼いたやつ」
「ホットケーキかい? あー、今日は無理だよ、明日までお待ち。おとつい買い物に行ったときにバターが売り切れで、買い損ねたままだった」
「そんなあ。やだいやだい、ホットケェエキーーー」
駄々をこねる子供に手を焼きながらも夕飯の支度をいたしておりますと、近所の寄り合いに出かけていた亭主もそこへ戻ってくる。だいぶ聞し召したと見えて顔は真っ赤、すっかり出来上がっております。
「いやだよ、お前さん。まだ暗くもならないうちから、とんだ大トラじゃないか」
それを聞きました坊や、目をきらーんと輝かせまして、気を利かせたふうに親父の書斎から回転椅子を持ってまいりました。
「お父ッつぁん、お帰りよぅ。さあ、座って座って」
「おお? なんだい坊や。こんなもん持ってこなくても食卓にはちゃんとテーブルとセットの椅子が……どっこいしょ」
「座ったかな? 座ったね?」
「ああ、座ったよ、座ったとも」
「じゃあ回すよ……そぉーれ」
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる――
「お、おいおい何をしやがるんだこんな……うえええ目が回るぅ。おおおおおおおえええええぇえええ」
何せ酔っぱらっておりますから最初っから足元がおぼつかない。椅子を立つこともできずにぶん回されて、親父は目を白黒、顔は赤からだんだん紫色になってくるてぇな塩梅で。
「ちょっとちょっと坊や、お父ッつぁんにこんなことをして何のつもりだい」
「だってほら、トラはぐるぐる回すとバターになるって!」
* * * * * * *
さてさお話変わりまして、こちらはちょいとなじみの薄いところで申し訳ございませんが、今を去ること千年ばかり前のことでございます。ノルウェー西海岸にあるヴァイキングの村に、トールってえ男がおりました。
この男、どっちかといえばヴァイキングの中では変わり者でございまして、暇さえあれば楽器を奏で、どこで覚えてきたのか遠い国の夢物語を歌にするってな具合だったんですが、不思議と周りの村人には評判が悪くない。
ある夏のこと、遠征に出かけて行った先で、遠くはるばるカスピ海のほとりにあるハザールってえ国から事情があって逃げだしてきたお姫様と知り合いまして、すっかり仲良くなりました。
遠征の間もはるばるイングランドまで連れまわす、秋にはフランドル伯のお城に上がり込み、立ち合いを頼み込んで盛大な祝言を上げるといった具合。ようやく村に返ったころにはすっかり冬支度のころあいで、忙しいばかりの日々が過ぎておりましたがそんなある日のこと。
「おーい、イレーネや。今帰ったぞ」
「やあお帰りトール。朝から族長の家の手伝いごくろうさま、スープがあっためてあるから食事にするといいよ……あれ、手に持ってるそいつは何だい?」
「なんだかよくわからないが、族長のおっ母さんが下すったんだよ。ご新造さんに、ってことだったからお前さんが使うもんだと思うんだがね」
「へえ。見せてごらんよ」
お姫様――申し上げた通りイレーネってぇ名前なんでございますが、彼女がトールからそいつを受け取ると、何やら見覚えのあるもんでございます。
こう、木でできた、胴回りが十五寸ばかりの細長い桶のようなものですが、天辺には蓋がしてありそこに二寸ばかりの口が開いておりまして。んでもって、そこに黒光りのする長い木の棒が差し込んである。
「ははあ、分かったよトール。こいつはバター桶だね」
「バター桶」
トールは判ったような判らねえような心持で鸚鵡返しに相槌をうちました。
「牛や羊の乳からクリームをとってこの中に入れるだろう、そうしておいてこの棒で辛抱強く突いてると、クリームから脂が分かれてきれいなバターができるって寸法だよ」
「へえ」
何せイレーネの生国ハザールといえば、遊牧民の建てた国でございます。かてて加えてこのお姫様ときたらめっぽうお転婆な性質で、子供のころから馬にまたがって下々の子供と一緒に走り回っておりましたから乳製品のことにもめっぽう詳しかったというわけで。
トールもすっかり感じ入って、バター桶を撫でまわします。
「そいつは豪儀なもんだ。蜂蜜を塗った平焼きパンも悪かあないが、たまにはバターも食いたいなと思ってたとこだよ、じゃあさっそく作ってみるか」
「そうはいってもトール、うちにはまだ牛も羊もいやしないよ」
「おっと、そういやあそうだった。まあグンナルのところの羊を売ってもらう約束だし、年が明けてしばらくすれば羊が仔を産むはずだ。そうしたらクリームを採ってバターづくりを試してみようじゃないか」
「うんうん、楽しみだねえ」
さてそれからというもの。二人が始まったばかりの暮らしを便利にしようとこまごま立ち働いているうちに、あっという間に月日が過ぎました。冬もそろそろ終わりというころになると村のあちこちでベエベエと羊が騒ぎ、どこの家でも大忙し。トールの家でも買い入れた羊がめでたく仔を産んで、子羊が飲み切れない乳が人間様の方へ廻ってまいります。
桶に蓄えた乳のうえにうっすらとクリームが浮かんで、さあそれじゃーバターを作ろうかって運びになりました。
中世のあたりのバターづくりってのは、先ほどもイレーネが申しましたように、細長い桶に入れたクリームを棒で突っついて脂肪と水分を分離させます。これをチャーニングと申しますんですが、なかなかに根気のいる面倒な作業でございます。
トールは別段にせっかちというわけでもないんですが、なにせ若い夫婦二人っきりの家、日がな一日悠長にバター桶を突っついてばかりいるわけにもいきません。
「ううむ、ちょいと乱暴だが促成で行こう。イレーネ、この桶をしっかり抱えて揺れないように押さえててくれ、そうしたら俺が上から突くから」
「わかったよ、どしどし突いておくれ」
トールたちには初めてでも昔から使われている道具、そこは良く工夫されたもんで、蓋の穴には乳が漏れ出さないように布であて物がしてありますから、棒はガタつかずにずずいと桶の底まで入っていくわけですな。
トールがグッと突きますと中でポチャリと音がする。グッポチャ。グッポチャ。グッポチャグッポチャグッポチャグッポチャ。
クリームがうまい具合に分離してまいりますと、これがだんだんと音が変わってグッポン、グッポンという具合になってきます。
「よしよし、いい調子だ。それ」グッポン。
「おいしいバターができるといいねえ」グッポン。
調子づいたトールが伸ばした髪を振り乱して棒を突き、イレーネが桶をしっかり抱えて膝を締め付ける。
グッポングッポン。グッポングッポングッポンポン。
「ねえトール、ちょっとリズムがおかしくないかい」
「おっといけねえ、平常心平常心」
この二人、床入りはとうに済ませておりますが何せ日々忙しく、夫婦の営みの方は決して十分とは申せません。桶に棒を突いているうちに、若い頭の中はどうしてもおかしな具合になってまいります。
「……どうもいけねえなあ、桶を突いているのやらイレーネを突いているのやらわからなくなってきた」
「あ、あははは、いくらなんでも僕はこんなに細くないよ」
冗談めかして言いながらも、鼻をくすぐる互いの汗の匂いあり、桶越しに伝わる微妙な揺れ動きありで二人は内心どんどん切羽詰まってくる。
バター桶の方はとうとう出来上がって、ずずっと抜き出した棒の先に白い生バターの塊が付くようになりましたが、こうなるともういけません。
「と、トール。君のチャーニング棒をちょっと僕に見せてほしいんだ」
顔を赤らめてどもりながらイレーネがあらぬことを口走ります。
トールも阿呆のように「チャーニング棒――」とひとこと口走ると、お姫様をまさしくお姫様抱っこに抱え上げ、二人はバター桶ほったらかしで母屋へ駆け込んだもんでございます。
さてそこからあとはお定まりの流れでございます。巫山雲雨の交わりはまさに琴瑟相和す如くなり、ってなもんで。
恋し恋されて一緒になった二人が、歓楽の限りを尽くしてようやく落ち着きを取り戻すころには、バター桶の方もあとは固まったものを取り出し、少々の塩を加えて練るばかりとなっておりました。
余談ですがこのバターを分離した後に残る水分をバターミルクと申しまして、脂肪分が少ない上に乳酸菌の働きで程よい酸味がついて腐りにくいという、この辺りの時代ではなかなかよろしい飲み物だったようですな。
私は子供のころに読んだ小説で、主人公の家においてやってる孤児の娘が何かとバターミルクをさし入れに来る、ってくだりで初めてこの飲み物のことを知ったんですが、なにせものを知らねえ子供のことで、ミルクにバターを混ぜたもんだとすっかり勘違いいたしましてねえ。牛乳カップをマーガリンで汚して、お袋にいやっていうほど叱られたもんです。
さておき、原因があれば結果が生じるのが世の中ってぇもんでございます。ふた月ほどしますとイレーネの体にどうも変調が起きてきました。酸っぱいバターミルクを喜んで飲みたがり、粥を煮る鍋の湯気にむせかえっては食べたものを戻すといったことを繰り返す。
最初は流行り病かなにかと心配したトールでしたが、もしや、と気づいて村の中の、歳のいった女たちに相談いたしました。早速村でも一番年かさの取り上げ婆様が呼ばれてくる。
「ああ、どうもヘルガの婆様、わざわざ来ていただいて。それでうちの女房なんですが……」
婆様、てきぱきと寝台の周りに垂れ幕を下げましてトールを部屋の外に追い出すと、ひとしきりイレーネの体を検めて、脈をとったり舌をみたり。やがてトールのところへやってくるとにっこり笑って申しました。
「おめでただよ、よかったねえ」
「おめでたですって? そいつぁつまり……」
「ええ、そうですよ。あんたのやや子ができたってことさ」
そりゃあもうトールが喜んだの喜ばねえのって。イレーネを抱きかかえて上げたり下げたり。その場でぐるぐる回ってひげの生えた面で頬ずりをし、キスの雨を降らせます。
婆様とその付き添いの女たちもニコニコと笑って、早いとこ自分の家のかまどの前で、このめでたい話を披露したくてたまらないといった様子。
「それじゃああたしらは帰るからね、いいかい、ご新造さんを大事にするんだよ」
「へい!」
婆様たちが帰っていくと後は二人っきり。互いに愛しさが募って、二人はそのままベッドにもぐりこんで、一緒に生まれた子猫のようにじゃれ合いました。そのうちにまたぞろ、気持ちが高ぶってまいります。
たとえるならばチャーニング棒はりゅうりゅうと天を突き、桶の中にはクリームがどっぷり。
「よし、おいでよトール」
男前な物言いでイレーネが亭主を誘います。得たりや応、と体を重ねた二人ですが、しばらくすると不意にトールが神妙な顔になって起き上がり、女房から身を離しました。
「あれ、トール。どうしたの。途中でやめないでおくれよ、君だってそれじゃ収まりがつかないだろうに」
「いいや、このくらいにしておこう。ややがバターになるといけねえ」
おあとがよろしいようで。