シゲと12人のベオウルフ その1
以前に割烹で垂れ流した妄想が大体形になったので投下します。お気に入りユーザー登録してくれてる女性読者が、金切り声を上げて逃げていきそうな気がしますがそこはそれ。
本当にもう、しゃれの分かる人だけ読んでください。
寒い。特にお尻が!
重力の方向に対しておおよそ横向きに横たわった状態で、あたしは目を覚ました。まだ目を開けるのが億劫だ。ただこめかみの辺りに感じる液体の感触と冷たさが、あたしのなかで警鐘を鳴らしていた。そして下半身にじかに触れる冷たい空気。
考えうる限りではお尻を出したままの横倒し。さらにアルコールをとりすぎた後特有の、喉の渇きとかすかな頭痛。あれ、これってあたしはかなりダメな状況にあるんじゃないだろうか。そういえばおぼろげに、どこかのお店でリミッター外れたまま痛飲していた記憶がある。
うわあ。目を開けて正確な状況を把握するのが怖いよお。
最悪これは、水道水ではない液体でびしょびしょに濡れた床の上に、トイレで用を足そうとした状態のまま崩れおちて、そのまま熟睡しちゃってた、と。言うことですか。
はい終わった! あたしの女としてのなにやかやもろもろが今、終わったよ! たぶん数人ですまない人間がトイレのドアを開けてあたしの惨状を目にしたことだろうし――目を閉じたまま仰向けに寝返り、両腕を体の横でじたばたと動かそうとしてあたしは異変に気がついた。
床(?)がぐらりと揺れたのだ。しかも床にはなんだかシンプルな二次関数で表せそうなカーブがついているじゃないですか。
つまり……ここはトイレじゃないよ! やったー!
弾みをつけて立ち上がったあたしはしかし、次の瞬間『ここがトイレだったらどんなに良かったか』とめまいがするほどの絶望に襲われた。
そこは、2対のオール受け(船をこぐオールを受ける台のことだよ! あたし腐ってないもん!)のある、細長いボートの上。
周りは一面、薄く垂れ込めた雲の色を映した灰色の水で、波は静かだったけど間違いなく海の上。陸岸の影すら視界に入らない、広漠とした海の上だったのだ。
* * * * * * *
こめかみの辺りに痺れたような――いや実際に皮膚感覚も麻痺しているのだろう――酩酊感を覚えながら、あたしは眼前の鏡を覗き込んでいた。
しっかりしろ。あたしは誰だ?――麻上シゲ。30歳。お酒で自分を見失いそうになると、いつもこうやってトイレの鏡に向かい、あたしは鏡の中のあたしに問いかけて認識をつなぎとめる。
それにしてもひどい名前。美女の誉れ高かったひいおばあちゃんの名前を貰ったそうだけど、1980年代に親が新生児の女子につける名前じゃないと思うのよ。
もう一度鏡の中の自分とにらめっこ。別に人様と比べてそんなに見劣りのする容貌じゃないし、週末はスイミングにエステとそれなりに自分磨きも続けている。それなのになんで――こんなに酒量をすごしてしまうほどに、あたしは孤独なんだろうか。
ああ、もちろん同性の友達はいる。それもむやみに。孤独ってのはそういう意味じゃなくて。
どうしてあたしはいまだに一人身なんだろう、ってことなのだ。
「しぎゅーん、大丈夫? 飲みすぎじゃない?」
友人の誰かがトイレのドアの向こう側から私を呼ぶ。ええいあたしをその名で呼ぶな。恥ずかしいから!
大学のゼミ仲間はいまだにあたしのことを北欧神話のロキ神の妻に引っ掛けて「しぎゅん」と呼ぶ。確かにあたしは北欧史を専攻して、比較神話学的アプローチでゲルマン諸族が西ヨーロッパへ拡散したルートの検証を行った。教授にはそこそこの評価をいただいたのだけど――社会に出てしまった今では、そんなのほぼ黒歴史だ。建機リース会社の経理部で毎日伝票や計算書とにらめっこしてるあたしにはもう、神話の神々がどうだろうと関係ないのよ。
大体なんで北欧史専攻の人文学科を出て経理部に配属されるの。おかしいでしょうちの会社。おかげで入社後1年とちょっと、死ぬ思いで簿記とか勉強したのは嫌な思い出だ。
席に戻って、若干引き気味の同窓生たちを前に、ふらつく頭を何とか真っ直ぐ立てて、あたしはボックス席に廻ってきた男性従業員に、梅サワーのお代わりを注文した。
卒業して6年。目の前のこの子たちは皆それぞれに折り合いのつく相手を見繕って家庭を持った。隣の席の加奈子なんか、去年二人目を出産している。今日は実家のお母さんのところに子供を預けて来ているのだ。
うらやましくなんか。うらやましくなんかないんだから!
……うちの会社には基本的にろくな男がいない。社長は秘書課の女子たちに対するセクハラと休日ごとの釣り三昧のこと以外考えていないような人だし、営業部や総務部などの男子社員はみんな過労で死んだ目をしている。そういえばつい先日も、営業部の万年平社員、営業成績下から3番目の井出川さんが、就寝中の無呼吸と心不全で亡くなったばかりだ。
ネット小説の異世界トリップ物が大層好きで、喫煙所で見かけるたびにぼんやりと視線を空中にさまよわせ「おお、ユニークスキル……」とかつぶやいていた。気の利いた来世に生まれ変わってることをせめて祈ってあげよう。
そんなことを朦朧と考えているうちに、また目の前に空のグラスが増えた気がする。当たり前ですよ、注文したんだもん。
「すみまへーん、コケモモサワーとオニオンリング……」
「金木犀ハイ(桂花陳酒ベース)、お持ちしましたー」
ああ、まだ来てなかったんだ。いただきまーす(ぐび)
あはは、お腹の中から鼻の奥まで金木犀の香りでトイレっぽい。あたしはまるで人間芳香剤だー! うふふ悪酔いしてる、あたし悪酔いしてるわー。
「ちょ、しぎゅん! もうやめなってば!」
加奈子が私の手首を掴んで酒を飲むのを止めようとする。
「ええい、うるちゃい! はなへー、リア充はみにゃ爆はちゅしる」
「何で弱いのにそんなペースで飲んでんのよ!」
「貴様らにあたしの気持ちが分かるかー!」
「呂律が戻った挙句にアサム様ってどういうことなの!」
そんなマイナーな北斗キャラのネタに反応するあんたもおかしいわよ。
そうして、次にトイレに立ったあと、私の記憶は途切れた。うん、加奈子への仕打ちが八つ当たりなのは分かってるのだよ。
分かってるのだ。
* * * * * * *
「お姉ちゃん。お尻丸見えだよ」
ボートの上に呆然と立ち尽くしていると、後ろから声がした。振り返る。
「ひっ!?」
そこには愛くるしい顔立ちをした白人の少年が、暗黒時代さながらの衣装に身を包み、ご丁寧に剣らしきものまで腰に吊って、しゃがみこんでいた。可愛い。こんな可愛い子の前であたしったらなんと言うひどい姿なんだろう。死にたい。
「ねえ、お願いだから早くお尻を隠してくれないかな。じゃないと僕、立ったり座ったりできないんだけど」困り果てたといった表情で少年はあたしにささやいた。
言われてみれば、少年はしゃがんでいると言うよりは前かがみにうずくまっていると言う感じだった。大まかに事情は察される。ごめんね、ごめんね。あたしは膝から足首にかけて引っかかっていた煮え切らない長さのスカートを、腰までたくし上げてベルトで止めなおした。
「これで大丈夫かしら?」
「5分も待てば」
あたしから顔ごと視線をそらして海を見つめる少年を、こちらもぼんやりと眺める。なんだかいたたまれない時間が過ぎていった。
「ね、キミ、名前は?」
「アース――アースグリム・ベオウルフ」
「ベオウルフですって?」
まさか、そんな。ベオウルフって有名な叙事詩の英雄の名前じゃない。成立年代で考えても6世紀前後の――
「ああ、怪しまれるのは当然だよね。僕はフロスガール王を助けてグレンデルを倒した初代から、数えて12代目のベオウルフなんだ。さすがに400年前のご先祖を騙ろうとか思わないよ」
いやいやいや。待って、ちょっと待って。12代?。ということは一世代30年と考えても……
「10世紀!?」
「ああ、最近広がってるキリスト教の信者さんたちはそんな数え方をしてるね。そう、今はキリストとか言う人の生誕から922年目だってさ」
10世紀! ヴァイキング時代真っ盛りじゃない。じゃあここはまさか。
まさにその瞬間、私はアースと私の交わしてる会話が、古いデンマーク語だということに気がついていた。女子会の会場になった居酒屋の、狭いトイレにいたはずの私はいつの間にか、10世紀の北欧、おそらくバルト海にいるらしいのだ。
うん、我ながらひどい。しゃれにもなってない気がする。
ちなみにこれ書くために近所の古本屋(と言う名の魔窟)に赴いてロマンス小説を主に文体の参考資料にするために買おうと思ったけど、微妙に高いし内容が内容だし、で断念。
追加パッチなしで書くと大体新井素子とか氷室冴子とかのまがい物が出来上がる気がするので思春期のころの読書傾向がばれて悶死しそうだけどまあ仕方ない。