小屋の外にいたもの
夏なんでホラーっぽいのを一本。まあ、クトルゥフ神話っぽい何かと思っていただければ。
ばいめた本編とは少し関係があります。が本編の時間軸では起こらない事件なのでご安心を。あっちファンタジー要素極少ですし。
羊の膀胱でできた半透明の皮膜を張った小さな窓の外に、青白い閃光が踊る。殺風景な小屋の中、壁の隅とベッド代わりの藁の山の陰にわだかまった闇が、その瞬間だけより一層、暗く濃くなった。
季節外れの嵐に見舞われた吟遊詩人のクマクランは、放牧地の外れにある山小屋へ、ようようの思いで駆け込んだ。まったくなんともひどい日だ。
夏の間彼が居候をしてすごすホルガー谷は、男たちがヴァイキング活動に出払っていて、よそ者のクマクランはここしばらく、山で放牧中の羊の番をしているのだった。
雨具らしい雨具がまだ発達していないこの時代、雨に対処する方法は、とっとと雨宿りをしてぬれた服を乾かすことだけだ。フードのついた毛織のマントを脱いで、壁から突き出た吊り下げ鉤にかけると、クマクランは最近村の鍛冶屋に頼んで作らせた、粗雑なつくりのオイルライターを取り出した。
円筒状のやすりを指で回転させ、ばね仕掛けで密着させた火打石をこすって火花を出すものだ。燃料は松脂を乾留した揮発性のオイルで、羊毛のフェルトを詰め込んだ薄い銅の容器の中に貯えられている。
後の世のライターのような一発着火できるものではないが、携帯性と安全性を考えると実に便利なものだった。ヴァイキングの優れた細工師は各種の薄い金属板を使って精妙な錠前を作り出すことができる。このライターもその技術を応用して、試行錯誤の末どうにか形になった。
床の中央に切られた炉にささやかな火がともり、小屋の中は暖かな黄色の光で照らされた。そして皮膚に感じる輻射熱。地獄に仏とはこのことだ。
「ハルシの奴、どこまで行ったんだろうなあ」
相棒の牧羊犬『Hvitur halsi(白い喉)』のことだ。長ったらしいので縮めて「ハルシ」と呼んでいた。嵐が来る直前、急速に垂れ込め渦を巻き始めた雲の下で突然けたたましくほえ始め、静止するまもなくどこかへと走り去ってしまったのだった。
「賢くてよく言うことを聞く、いい犬だったのになあ」
犬や猫はたまに、グルーミングでたまった毛玉を吐いたり、おかしなものを食った後の胸焼けを解消するためにか、その辺の草を食うことがある。何か変な草を間違って食って、気が狂ったのかもしれない。クマクランはそう思った。
血統のよい犬はそこそこの値段がする。飼い主のフリーダに知られたら、しこたまどやされることだろう。
「ついてないな」
つぶやいたその声は、小屋の外で急激にまた大きくなった雨音にかき消された。ひどい雨だ。風も相当吹いているらしく、三角屋根の合わせ目に設けられた煙出しの穴から、時折雨の滴が激しく吹き込んでくる。ようやく乾き始めたシャツの肩がじっとりと濡れ、クマクランは呪詛の言葉を吐いた。座っていた位置が悪かったようだ。
壁にたたきつける横殴りの雨が時折ざあっと音を立てる。窓に張られた羊の膀胱に大きな水滴が張り付き、稲光がそれを照らすたびに小屋の中を奇怪な光の模様が踊った。
羊たちはあらかた小屋の外にいる。本来雨天に放牧はしない。何頭かは体を冷やして死んでしまうかもしれなかった。
雷が鳴るたびに心細げな羊の鳴き声がするが、戸を開けて羊を入れてやることは到底できなかった。小屋は狭すぎるし、炉の火に踏み込んで怪我をするに違いないからだ。羊は愚かな動物で羊飼いや牧羊犬、あるいは山羊に先導されないと滅茶苦茶にあちらこちらへと散らばってしまう。
この雨の中、小屋の外の群れからさまよい出て、行方が分からなくなる羊も少なくないだろう。クマクランは憂鬱になった。まったくのところ彼の責任ではないはずなのだが、羊の被害しだいでは、今後夏の間ホルガー谷で居候暮らしを決め込むことは叶わないかもしれない。
失望と落胆が急激に彼の気力を奪った。もう寝てしまおう、そう自分に言い聞かせ、彼は乾きかけのマントをもう一度はおって、寝藁の中に身を横たえた。
どれくらい時間がたったろうか。クマクランはふと目を覚ました。外の雨はやんでいるようだが、まだ風の音が残っている。ときどき小屋の壁に当たってぱしぱしと音を立てるのは、風に飛ばされてきた枯れ枝だろうか。
炉の火が消えているのに気がついて彼が再びポケットのライターに手を伸ばしたそのとき、窓の薄膜の向こうに、何か人の頭ほどの影が動いた気がした。
(おかしいな)
時計がないので正確な時刻は分からないが、夜明けまでにはまだ遠くおそらくは夜更け、そろそろ日付が変わった後かもしれない。こんな時刻に放牧地を歩く者など普通は考えられない。
ぱし、とまた外の壁に枝のあたる音がした。窓の外にそれっきり、先ほどの影は見当たらない。気のせいか、とクマクランは苦笑した。
(疲れているんだな。やれやれ、夜が明けたら迷い羊と、できればハルシも探し出さなきゃならん)
風邪を引かないようにもう一度火をおこして朝まで寝よう。雷雨の後だからか、夏だというのに妙に寒い。
そう思った時。
何か重いものがドアにもたれかかったような、鈍い音がした。ちょうど人間一人くらいの大きさの、半ばやわらかいものの存在感。
それが厚みのある樫板のドアごしに、小屋の中の空気に奇妙な変化を及ぼした。闇の中で孤独と不幸さに呻いていたクマクランの心理に、別の焦点を作り出したのだ。他者がすぐそばに存在することによる緊張感と違和感。人はそれを和らげるために、会話を行い、あるいはもっと緊密な接触を行う。
そうして妥協点を探し、共通点を見出し、部分的また一時的な同一化、感情や肉体のレベルまでの交流を行うことで、他者の存在をお互いに解決するのだ。
「そこに、誰かいるのか?」言わずもがなの質問を、クマクランはドアの外に投げかけた。そうすると、ドアの外の誰か――何かは、ちょうど沼地のガスが汚泥の上にあぶくを作りそれが弾け破れるときのような、湿った、そしてうつろな声でそれに応えた。
『入リタイ』
クマクランの胃袋が、ぎゅっとつかみ上げられたように痙攣した。心臓が頭蓋骨の中まで飛び上がったようなショック。何だこの声は。
『入リタイ。入レテクレ』
ぱしぱし、ぱしぱしと立て続けに枯れ枝のぶつかる音が続いた。
いや待て。あれは本当に枯れ枝の音なのか? むしろ何か、小さな鞭のようなものが何本も、リズミカルに小屋の外壁をたたいたとしたら、あんな音がするのではないか。
心の中で、人の頭を擬した肉塊を生やし、鞭のような無数の触手を備えた得体の知れないものの姿が像を結びかけ、クマクランは慌ててそれを打ち消した。はっきりと想像してしまうと、まさにその形を、小屋の外にいるものに与えてしまうような気がしたのだ。
「お前は誰だ? お前は何だ?」
雷雲のように沸き起こる、説明のつかないものへの恐怖に脂汗を浮べながら、クマクランは懐に収めていた一個のブローチを取り出し、握り締めた。
デンマークでの放浪中に場末のみすぼらしい小間物屋で、戯れに買い求めたものだ。だれかいきずりの娼婦にでも投げ与える心積もりで。ただ、小間物屋の説明では、それは出産の苦痛を和らげる効果を持つ、神秘的な護符でもあるのだというふれ込みだった。
安産のお守り。お笑いだが何もないよりはましというものだ。
『俺ハ……ソノ護符ヲ捨テロ。入レナイ』
驚いたことに護符には何がしかの効果があるらしかった。
「お前がどうやら人間じゃないことは分かった。この護符に効き目があるなら手放すものか!」
クマクランの絶叫に呼応するように、ドアがガタゴトと激しく揺さぶられた。
『入リタイ! オ前ノナカニ! 暖カイ肉!』
身の毛もよだつような声音、あの沸き立つ泥沼のような声で、小屋の外のものは不吉で身勝手な要求を叫び、クマクランを戦慄させた。
『護符ヲ捨テロ!』
「冗談じゃねぇ! どっかへ行きやがれ!」
返事はなく、ドアの外の気配が不意に消えた。ぱしぱしと鳴り続けていた小屋の外壁もやがて静まり返った。
その後しばらく護符のブローチをドアへ向けてかざしていたが、とうとう精神的疲労が限界に達し、クマクランは半ば気を失うように眠りに落ちた。
ノックの音がした。ぎょっとして頭を起こしたクマクランは、窓の外が夜明け前の青い薄明かりに照らされていることを確かめ、ドアへと近づいた。
「誰だ?」
『私よ』柔らかな優しい声がした。女のようだ。雇い主の家の娘フリーダを一瞬思い浮かべた。だがあの娘の声はこんなだっただろうか?
「誰だ」
『私よ。ここを開けて。中へ入れて頂戴。朝ごはんを持ってきたわ』
疑念が生じる。あの娘はそんなに優しくない。祖父と二人暮しの家で家事のほとんどを取り仕切っている14歳の少女が、足元も定かならないこんな朝まだきに、山の上の放牧地まで食事を届けてくれるわけがなかった。
『食事の後は、一緒にいい事をしましょう。ね、中へ――』
ああ、こいつはやはりさっきの化け物だ。フリーダに限らず、そんなことがあればと願った事こそ何度もあったのだが、それは身に過ぎた夢だとクマクランは達観してしまっていた。
「俺の知ってる女はそんな事をしない。お前は誰だ……いや、俺は誰だ? 俺の知っている女なら答えられるはずだ!」
言いざま、ドアの板に護符を押し付けた。樫板の向こうでかすかな苦悶の悲鳴が上がり、ドア全体が黄色く発光したように感じた。
『キあアあアあアア! オのレ、強情者ノ羊飼いメ! ナらバ羊ヲ貰う事ニしよウ』
汚泥のあぶくと偽りの女の声が重なった。ドアの外の気配が巨大に膨れ上がり、思い返せば奇怪なことに今まで静まり返って物音一つ立てなかった羊たちが、一斉に悲鳴を上げて騒ぎ出した。
ベエエ、ベエエと騒ぎ惑う家畜の声に混じって、身の毛のよだつような口笛めいた音がぴゅうぴゅうと響き、膀胱の膜を通した薄明の中に輪郭のおかしな太い腕のような、大蛇の胴体のようなものの影が映り、のた打ち回った。
羊の鳴き声の中に、断末魔よりも更に悲痛な悲鳴が混ざる。死よりも恐ろしく、食われるよりもはるかにおぞましい何事かが、罪のない家畜たちの上に降りかかっているのだと、クマクランは直感的に理解した。だが一体どんな恐ろしいことが?
よろよろと窓に近づく。見てはいけないと分かっていたが、体が勝手に動いた。嵌め殺しの窓枠の隙間から、外の有様を確かめようとしたその刹那。
「グァルルルルゥワウガウガウワウ!」
けたたましく吼える声と共に犬が小屋の前に走りこんで来た。窓の下に陣取って恐ろしい勢いで吼え、駆け回るのが聞こえる。
「ハルシ! 帰ってきてくれたのか!」
膝から力が抜け、クマクランはそのまま土間の上に崩れ落ちへたり込んだ。
やがて、小屋の外を覆っていた怪しいものの気配は消え、太陽が高く昇った。クマクランが外に出てみるとあたりには羊の姿は一切なく、ただ黄色くにごった粘液にまみれた肉の塊がわずかに残っていて、更に驚くべきことには辺りの地面と肉塊の一部が真冬の屋外にさらしたように凍り付いていた。ドアにも人の姿めいた形にびっしりと氷と霜が張り付き、昼過ぎまで消えなかった。
ハルシは元気いっぱいだったが、前足を片方、まるで飴の棒を舐りとったように失っていてフリーダを嘆かせ、クマクランは羊の賠償こそ要求されなかったものの、ホルガー谷への立ち入りを二度と許されなかった。
* * * * * * *
「やれやれ、なんとも不運なそして奇怪な話だね。面白かったよ」
旅の途中で立ち寄ったフリースラントの町、ドーレスタットの酒場。珍しく顔を合わせた同業者の旅芸人イレーネは、語り終えたクマクランにワインをもう一杯勧めてねぎらった。
「だが一つだけ分からないことがある。その、デンマークで買った護符のブローチ、なぜそんなに化け物に対して効果があったのかな?」
クマクランはワインを一口すすって喉を潤すと、懐をまさぐった。
「護符はまだ持ってるんだ。あの時はさっぱり分からなかったんだが、その後ルーン文字に詳しいセイズコナ(女魔法使い)の婆さんに知り合う機会があって、それで疑問が解けた」
「簡単に説明すると、ルーンを使った加護や呪詛の魔法は、4文字単位で組み合わせたルーン文字のフサルク(ルーン文字における「アルファベット」)で構成される。4文字組み合わさったものをガルドル、と言う」
クマクランはブローチを取り出し、そこに刻まれたガルドルを指し示した。
「うん、見ても僕にはさっぱり分からないよ」
「俺にもちんぷんかんぷんさ。ただ、婆さんが言うにはルーン文字の意味は一つではないと言うことでな。ここに彫られたガルドルは普通に知られた意味をそのままで構成すると『出産の苦痛を和らげる』と言う加護になる。ところがこの一文字、太陽に由来するルーンには安産や多産、成功の意味のほかに、「闇の力に対抗するもの」「死の呪いへの防御」と言う意味があるそうだ。まあ、聞いてしまえば当然と言う感じだが」
イレーネは興味深げにしげしげとブローチを覗き込んだ。
「その解釈を用いると、ガルドル全体ではどういう意味になるんだい?」
「『歩き回る死霊を退ける』、だそうだ。俺も聞いたときは身の毛が逆立ったよ」
「うわっ」
畏怖の目でブローチを見つめるイレーネだったが、ふといたずらっぽい表情に戻り、クマクランの目を覗き込んだ。
「ふーん……死霊に対する効果は確かだったわけだね。さてそうなると出産の苦痛のほうはどうだろう。さだめし効果がありそうだが、どうやって確かめてみたものかな」
「ほう。手伝って欲しいとでもいうのか?」
本気の発言ではなかったが、気取りのない好色の表情を浮べ、クマクランはイレーネの男装に隠された美貌と、曲芸で鍛えたしなやかな肢体を想像した。
「さあ、どうしようかね?」
この娘はいつもこんな調子だ。愛想がよくさばけてはいるが、いつも半ば冗談めかしてはぐらかされる。くすくすと笑いながら、浮き草稼業の男女二人はワインの杯を更に重ねたのだった。
文体はぜんぜん違いますが第一部「ホルガー谷の春」の続編に当たります。
登場する化け物のイメージは「モラン」を極度に邪悪にした感じ。
ちなみに作中で描かれたブローチは実在してまして、ばいめたの資料として愛用してるB・アルムグレンの「図説バイキングの歴史」第9章に言及があります。二重の意味を持つルーンの刻まれた護符、って言うイメージに魅せられ、何とか本編に出したかったのですが、世界観をやや崩しそうなのでこのような形で番外編として書いてみました。
まあ、北欧のサガには普通にドラゴンとか巨人とか亡霊とか出てくるのではありますが。