第5話 怪盗スフィンクス
ガラスの破片がとびちる。
トトの悲鳴。
ちはるは反射的にベッドからとびのき、あたりに武器を求めた。
右手がほうきの柄をつかむ。
窓のそとから、真っ赤なシルエットがとびこんできた。
その右手に凶器を確認したちはるは、ほうきで突きをはなった。
シルエットはそれを間一髪でかわし、すたりと床に着地した。
栗色のショートヘアに、小柄な体とは不釣り合いなほど大きな、赤い羽根つき帽子。これまた真っ赤なフランス竜騎兵の衣装に身をつつんだ姿は、三銃士、もとい、長靴をはいた猫そのものであった。
「だれッ!?」
ちはるがさけぶや否や、長靴をはいた猫は、ふみこんできた。
ほうきがサーベルと交差し、まっぷたつになる。
ちはるはひるまず、冷静に対処した。
重心を引いて、あいてを引き寄せる。
それからマントの端をつまんで、思いっ切りひっぱった。
長靴をはいた猫は、その勢いで、反対側の壁へ激突しかけた。
「トトさんッ! ダッシュ!」
ふたりは、ドアからろうかに出た。ほかの部屋の客たちが、なんだなんだと顔をのぞかせていた。ちはるはそれに目もくれず、階段をかけおりた。一階へおりて、夜の貧民街へととびだす。まっくらだ。一定間隔で灯るランタンだけが、歩行可能な範囲を、かろうじて教えてくれた。
全力疾走するちはるの後方で、トトが大声をあげた。
「ホテルのほうが安全ですッ!」
「仲間がいたら終わりだよッ! 遠くに逃げないとッ!」
天井裏から、いきなり窓ガラスを割ってきたとは、思えなかった。
だとすれば、天井裏の物音は、仲間の足音だったのかもしれない。
そう考えると、逃げる以外に選択肢がなかった。
しばらくして、分水路が、ふたりのまえに立ちはだかった。
あわてふためくトトに、ちはるは質問をとばす。
「幅跳び、できる?」
「はい?」
「は・ば・と・び!」
「ご、五メートルくらいなら!」
「上出来!」
ちはるは、これまでの逃げ足を助走に変えて、リズム良く踏み切った。体が宙に舞い、ゆるやかな放物線をえがきながら、向かいの岸にダイブする。わずかな滞空時間のあとで、ちはるは足の裏に、重たい反動を感じた。
そこからさらに数メートル駆けぬけたところで、肩ごしにふり返ると、おなじ要領でこちら岸に渡るトトの姿が見えた。のほほんとした言動からは想像もつかない身体能力に、ちはるはおどろきを隠せない。エルフはエルフ、ということだろうか。
「ちはるさん! これからどうするんですか?」
闇雲に逃げても、仕方がない。ちはるは、そう判断する。適当な隠れ場所を求めて、左右を見回した。すると、うっかり見落としてしまいそうな脇道に気づいた。彼女は、そこへ駆けこむ。ランタンの光もとどかない、ゴミ捨て場だった。
あちこちで、ネズミが顔をのぞかせている。
「ち、ちはるさん……はやく逃げないと……追いつかれ……」
「ここでむかえ撃つよ」
ちはるは、ポケットに手をのばす。こちらには、催眠弾という、お手軽な飛び道具があるのだ。彼女は自信満々に、ポケットをまさぐった。
「……あれ?」
ちはるのあたまに、さきほどまでの行動がフラッシュバックした。
「……薬局において来ちゃった」
「ええ! あれを紛失したら、めちゃくちゃ怒られるんですよ!」
ちはるは、静かにしろと合図した。
「トトさんは、持ってるの?」
「ええ、ちゃんと」
優越感に満ちた表情で、トトはポケットから端末をとりだした。
上端にあるランプが、黄緑色に点滅している。
「あれれ、いつの間にか新着メールが……」
「そんなのは、あとまわしだよ」
ちはるは呼吸をととのえつつ、こっそりと水路をのぞきこむ。スフィンクスの姿は、どこにも見当たらなかった。ふたりの行動力に舌を巻いて、追跡をあきらめたのだろうか。それとも――ちはるは、べつの可能性に思いあたった。
「もしかして、あいつ……水のうえを歩けないとか?」
呪いをかけられているのは、人魚を迫害した者の子孫に限られている。スフィンクスと名乗った猫耳少女は、該当しないのかもしれない。ちはるは、そう読んだ。
「あの猫ちゃん、どうしてわたしたちを襲ったんでしょうか?」
「わかんない。でも、あれはスフィンクスっていうキャラクターだよ」
この物語には、ひとりだけ、人外が登場する。それが、スフィンクスだった。長い息した猫が、なにかの拍子で人間になれたという設定で、義賊を称していた。衣装の描写も、さきほどの長靴をはいた猫にそっくりだった。
しかし、スフィンクスは好戦的なキャラではないと、そういう説明があった。ちはるには、そこが不可解だった。暴走したキャラクターというのは、スフィンクスのことなのだろうか。だとすれば、殺人犯に追われていることになる。冷静に分析してみると、事態はかなり深刻に思われた。
そのとき、遠くのほうで、指笛の鳴る音が聞こえた。
観客席を陣どっていたネズミたちは、サッとゴミの山に身をひそめる。
「ち、ちはるさん……お、奥に……」
「え?」
ちはるは、トトのゆびさした方向に目をこらした。一番星よりもずっと大きな光が、暗闇のなかで、倍々ゲームのように増えていく。野生動物特有の眼光だった。
「猫ちゃんです!」
大量の猫が、三方の壁をのりこえて、ちはるたちへとせまって来た。
トトは、端末をスタンバイモードに切り替える。ちはるは、それを制した。
「この数じゃムリだよ……刺激しないように、うしろへさがって……」
「そこまでニャ」
スフィンクスが、出口をさえぎっていた。さきほどの指笛も、彼女の仕業にちがいない。同類を呼ぶ能力があったとは、ちはるも考えがおよんでいなかった。
「さあて、死ぬ覚悟はできたかニャ?」
スフィンクスはサーベルをかまえて、ちはるたちをおどした。
ちはるは思った。棒切れひとつでも、自分の手のうちにあれば、と。立ち合いで負ける気がしなかった。スフィンクスの構え方には、かなりのスキがある。剣客にはほど遠い。
ふたりのあいだに横たわっているのは、凶器の有無、それだけだった。
「トトさん……」
「はい?」
「三、二、一で射って、水路に飛びこむ……いいね?」
「は、はい」
水中まで追って来ないことに賭けるしかない。
ちはるは息をのむ。
「三、二……」
「そこまでだ、スフィンクス」
スフィンクスの後方、垂直の光を投げかける月明かりのしたに、人影があらわれた。純白のローブを身にまとい、鳥の仮面をかぶった、奇怪な人物だ。
「オ、オオカモメさま!」
「スフィンクス、だれがふたりを殺せと言った?」
オオカモメと呼ばれた人物は、中性的な、異様に不自然な声で、そうたずねた。
わざと声を変えている――ちはるは直感的に、そう判断した。
「だれが言った?」
「も、もうしわけございませんニャ……」
スフィンクスはうなだれて、サーベルをおろした。
ちはるは、大きく息をつく。猫の群れからも、殺気が消えた。主人が降参して、戦意を喪失したたのだろう。一匹、また一匹と、この場をはなれ始めた。
「ケガはないか?」
オオカモメはふたりに向きなおり、安否を気づかってきた。好意的に受けとっていいのだろうか。ちはるは自問し、首をたてにふるかどうか迷った。
「……どこにも」
「とんだ手ちがいがあったようで、面目ない」
鳥仮面はそう言って、頭をさげた。そのあいだも、視線だけははずさない。
「わたしの名は、オオカモメ。旅の者だ」
「旅人? ……どうして、ボクたちをおそったの?」
「さきほども言ったように、単なる手ちがいだ。わたしがスフィンクスに頼んだのは、きみたちの実力を確かめることだけ……危害をくわえるつもりはなかった」
本当だろうか。ちはるは、心のなかでいぶかる。
「実力? ……なんのことか分からないけど、たしかめて、どうするつもり?」
「おまえたちに、手伝ってもらいたいことがある」
「どろぼう?」
「どろぼうじゃニャい。義賊……」
割りこもうとしたスフィンクスを、オオカモメは軽く注意した。
上下関係があるらしい。ちはるは、オオカモメのほうに集中する。
「で、どろぼうを頼みたいわけ? それとも、ほかのこと?」
「わたし自身はどろぼうだが……手伝ってもらいたいことは、またべつだ」
「人殺しなら、ごめんこうむるよ」
ちはるは気勢をはいた。ここでひるんでは、女がすたる。そう思ったのだ。
「そのようなことではない……人助けだ」
「人助け? うまいこと言って、犯罪の片棒をかつがせる気なんでしょ?」
ちはるは、カマをかけてみた。
「くわしいことは、アジトで話す。さきほどのさわぎで、人が来るかもしれない」
「おことわりするよ」
ちはるの拒絶に合わせて、闇夜に閃光がはしった。
オオカモメの抜刀テクニックに、ちはるは絶句する。卓抜としていたからだ。
剣道に心得があるからこそ、ちはるは命の危険を感じた。
オオカモメも、ちはるがひるんだことを察知したようだった。
「話だけは、聞いてもらおう。よいな?」
「……わかった。話だけなら、聞いてあげる」
この鳥仮面、命の恩人にはちがいない。だが、自由までは与えてくれなかった。それでもちはるには、わずかな希望があった。自分たちがさがしているもの――殺害されたメインキャラのゆくえを、彼らは知っているのかもしれない。その可能性が、ちはるの行動を大胆にさせた。
オオカモメは一分のスキも見せずに、スフィンクスへと声をかけた。
「ふたりをアジトまでご案内しろ……丁重にな」