第2話 薬屋の人魚
【前回までのあらすじ】待ち合わせをすっぽかされたトトと霧矢は、物語の主要人物のひとりアルマと遭遇した。アルマの手助けにより、トトたちは血のついた指輪を入手した。それは殺人事件の証拠であるように思われた。しかし、被害者がだれかまでは、わからなかった。
翌朝、霧矢たちは公園のかたすみで目をさました。人魚のブロンズ像の真下、多少はきれいに清掃された石畳のうえで、ふたりは一夜を過ごした。異世界に飛ばされて野宿するハメになるとは、霧矢も思っていなかった。
布団も枕もなかったから、体のふしぶしが痛かった。
「どこからさがしましょうか?」
トトは、黄金の髪を櫛でとかしながら、そうたずねた。
「もういちど、ぼくたちのゴールを確認させてくれない?」
「ゴールというのは、なんですか? サッカーですか?」
「どうすればぼくを、もとの世界にもどしてもらえるのか、だよ」
「カンタンです。犯人をつかまえたらいいんです」
それはわかっていると、霧矢は答えた。知りたいのは、そのさきだった。
「犯人っていうのは、なんなの? この小説は、ミステリじゃないんだけど?」
トトは櫛をかたづけて、しばらく首をひねった。
「つまりですね……光がそれぞれ固有のスペクトルを持っているように、物語も独自のスペクトル……波長ですね、そういうものを持っている……らしいです。わたしもよくわかりませんが、研修所では、そう教わりました。それが揺らぐということは、物語が……その……簡単に言うと、おかしくなってるんです」
要領をえない説明を、霧矢はどうにかこうにか解釈した。
「ストーリーが、決められたとおりに進行してないってこと?」
トトは、ポンと手をたたいた。
「さすがはキリヤさん、ご明察です」
「で、その……スペクトルの分析結果が、殺人だって出てるの?」
「課長から出動命令を受けたときは、そう言われました」
「それを詳しく解析すれば、どの登場人物が欠けてるのか、わかるんじゃない?」
霧矢は、てきとうな推測をぶつけてみた。
「いえ、そこまで簡単じゃないんです。スペクトルの波長は四次元ベクトルになっていて、もとの波長との差を、正確には特定できません」
「というふうに、教科書に書いてあったの?」
「はい」
とりあえず霧矢は、ここまでの話をまとめた。
「つまり、物語がおかしくなって、メインキャラクターのだれかが、別のメインキャラクターを殺してしまった。だれが殺されたのかは、今のところわからない。被害者を見つけて犯人を捕まえたら、ぼくはもとの世界に帰してもらえる。この解釈で、あってるんだね?」
トトは、うまいまとめだと褒めてくれた。あまりうれしくはない。
「犯人逮捕のあかつきには、すてきなプレゼントがあるかもしれませんよ」
べつにいらないよ、と霧矢は答えた。
立ち上がって、『海に凪ぐ人魚の恋』に載っていた地図を思い起こす。
「あたまが痛いんですか?」
「人魚の館の位置を思い出してる」
「人魚の館?」
「メインキャラクターの何人かが集まってる場所だよ」
人魚の館は、幹線水路の北側、水の神殿のとなり──ぼんやりとではあるものの、彼は、おおよそのマップを再現することができた。
公園のそとに眼をむける。広場をかこむ壁の一点に、大きな門が見えた。
「ひとまず、あそこから出よう」
アーチ状の門を抜けたところで、ふたりを待ち受けていたのは、この街の幹線水路、幅はおそらく百メートルを超えるであろう、巨大な運河だった。大小の船が水上を行き交い、あるものは野菜や果物を、あるものは大勢の乗客を、あるものはツンとすました貴婦人を乗せていた。彼らは、いくすじもの航跡をのこしながら消えていく。
それはまさに、船舶の祭典ともいえる、壮大な風景だった。
「すごいです! こんなの、はじめて見ました!」
トトは、純朴なおどろきに声をふるわせた。
「この街の高速道路みたいなものだからね」
「高速道路? ……みんな、水のうえを移動するんですか?」
「そうだよ。それに、ほら、あそこをみて」
霧矢は、水のうえを歩く通行人たちをゆびさした。
なにかの比喩ではなく、ほんとうに水のうえを歩いているのだ。
「あれは……ニンジャですか?」
「昨日の夜、アルマさんが『この街は呪われています』って言ったの、おぼえてる?」
トトは、おぼえていると答えた。記憶力は悪くないようだ。
「その呪いが、これなんだよ。この街はもともと、人魚が支配していた楽園だったのに、人間たちは彼女を追い出してしまった。人魚は彼らに呪いをかけたのさ」
「どういう呪いですか?」
「生涯、水にふれられなくなる呪いだよ」
水にふれられなければ、飲食をすることも、お風呂に入ることもできない。それにもかかわらず、このベネディクスという街が成り立っているのは、ひとえにエシュバッハ一族のおかげだった。街の住民が人魚を襲撃したとき、絵描きの青年が彼女を救い出した。そのお礼に、彼だけは呪いをかけられなかった。それどころか、解呪という、他人に水をさずける能力を与えられた。その末裔がエシュバッハ一族であり、絵描きの特殊能力を代々承継しているのだった。
霧矢の説明を聞き終えたトトは、にっこりとして、
「それじゃ、わたしも水のうえを歩きます!」
と言い、ぴょんと水面へ跳ねた。
「ちょっと! 話は最後まで……」
引きとめる間もなく、盛大な水しぶきがあがった。
○
。
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それから一時間後、霧矢たちは一件の薬屋、アルマの家の応接間にいた。たまたまそばを通りかかった彼女が、トトを水中から助けてくれたのだ。街の住人は水にもぐることができないし、霧矢は泳ぎが得意ではなかった。彼女が現場にいなかったらと思うと、ゾッとする。
「へっくしょん!」
毛布にくるまったトトは、盛大にくしゃみをして、霧矢をうらめしげに見つめた。
「キリヤさんの、ウソつき」
「あのさ……ぼくの話、ちゃんと聞いてたの?」
「水のうえを歩けるって言ったじゃないですか」
「街の住人は、ね。ぼくらは部外者だから、呪いをかけられていないんだよ」
ふぅとタメ息をつき、霧矢はひたいの汗をぬぐった。この世界に四季があるのかどうか、彼は知らない。小説の舞台は夏であったが、暖房器具があるところを見ると、冬は来るのだろう。
だが今は、どう見積もっても真夏だった。濡れた体をかわかすためとはいえ、霧矢にとっては拷問のような暑さである。そとから流れ込んでくるさわやかな風だけが、彼の無聊をなぐさめてくれた。
「さあ、お茶がはいりましたよ」
台所から、アルマがもどって来た。青空をそのまま縫いつけたような、みすぼらしい木綿のワンピースを着ていた。お盆に乗った真鍮製のポットからは、こまやかな湯気が立ちのぼる。安っぽい紅茶の香りがただよった。
「ありがとうございます」
さし出されたカップを受けとって、トトは頭をさげた。
ズズッとお茶をすすり、「あちち」と舌を出した。
霧矢は胸もとをはだけて、ぱたぱたとあおぎながら、
「アルマさんに助けていただくのは、二度目ですね。ありがとうございます」
と、お礼を述べた。これからの会話を、どう進めたものか──霧矢は迷いつつ、なにげない質問から始めることにした。
「こちらに長くお住まいなんですか?」
霧矢のだらしない態度など気にもかけず、アルマはにこやかにほほえんだ。
「ええ、もう何年も」
「閑静なところですね。おちつきます」
アルマの店は、小さな水路のそばに建っていた。
石造りの壁が、左右の家と共用になっていて、あまり日当たりはよくない。
そのぶん、大通りの喧騒とは無縁であった。
「犠牲の日には、ここも騒々しかったのですよ」
聞きおぼえのない単語に、霧矢は眉をひそめた。
「犠牲の日……?」
「暦から消えてしまった、謎の一日のことです。さいわいなことに、わたしたちの生活はそのままでした……でも、こんなうわさが流れていますの。この一日は人魚の魂にささげられて、わたしたちはもうすぐ罪を赦されるのだ、と。だれもがしあわせになれる、すてきなうわさではありませんか?」
アルマの笑顔とはうらはらに、不穏な空気が流れた──小説のなかには、存在しない言葉だ。すくなくとも霧矢は、それを目にしたことがなった。見落としだろうか。丹念に読んだつもりなのだが。
あれこれ考えた霧矢には、ひとつ思い当たる点があった。
(もしかして、イラストレーターのミスのことか?)
日本語版のイラストに、おかしなところがある。そういううわさを、SNSで見かけたことがあった。霧矢自身は、そのミスに気づかなかった。ほんとうに些細なミスなのだ。それは、イラストのなかに描かれた、カレンダーにまつわるもので──
そのとき、チリンチリンと、玄関の鈴が鳴った。
アルマは、店舗と住居をつなぐ通路をとおって、部屋を出て行った。
彼女の姿が消えたところで、トトは小さな声をもらす。
「キリヤさん、犠牲の日って、なんですか?」
霧矢は、アルマが視界から消えたかどうか、念入りに確認した。
そして、こう答えた。
「作中には出てこないけど、心当たりならあるよ。この世界にも、カレンダーみたいなものがあって、話の進行は、それにしたがうんだ。でも、日本語版のイラストレーターがまちがって、三〇日分しかない七月のカレンダーを描いちゃった。物語のなかには三一日目の言及があるから、そこで話がバグってるんだと思う」
つまり、じぶんたちがいるのは、『海に凪ぐ人魚の恋』の原典、ティム・アンホルトが書いたデンマーク語版ではなく、翻訳された日本語版だ。霧矢は、そう結論づけた。
それと同時に、物語が暴走しているというトトの話にも、妙な説得力が生じ始めた。その説得力には、霧矢の個人的な気持ちも混ざっていた。彼は、この日本語版が、あまり好きではなかった。版権を押さえるとき、出版社のやりかたが強引だったとか、翻訳がつたなかったとか、いろいろと理由はあった。そのなかでも、一番気にかかったのは、作者の遺志だった。アンホルトは、この作品を机のなかにしまって、だれにも見せていなかったそうだ。それがいきなり世に出たのは、遺族が出版社に原稿を売却してしまったかららしい。この話をSNSで読んだとき、霧矢にはもやもやとした感情が芽生えた。それは今でも、彼の心の中に根づいていた。
霧矢はもういちど、外の風景に目をやった。裏路地とはいえ、陽射しは強い。
「七月三一日がとっくに過ぎたってことは……今は八月かな」
そのとき、店のほうで、ちょっとしたさわぎが起こった。
ふたりは顔を見合わせ、ゆっくりと腰をあげた。応接間と店舗のあいだにある、木枠の出入り口へと歩みよる。こっそりと、店舗のほうをのぞきこんだ。アルマはカウンターを挟んで、ふたり組に取りかこまれていた。ひとりは褐色肌の、知的で涼やかな目を持つ少女だった。彼女のとがった耳から、すぐにトトの同類だと理解できた。そもそも、着ている制服が同じだった。小高い鼻と、そのしたで弓なりにむすばれたピンクのくちびるは、なみはずれた美貌をそなえていた。
もうひとりはボーイッシュな少女で、首からうえを写真にとれば、少年とうたがわれてもおかしくないほどの、中性的な顔立ちだった。瞳をかたちづくるナチュラルな線は、するどい眼光をはなっていた。
褐色肌のエルフは、
「ここに、あたしと同じかっこうをした、あたまの悪そうな女が来たでしょ?」
と、ずいぶんと失礼な言いまわしで、そうたずねた。
「黒い服の女性なら、たしかに……」
「今、どこにいるの?」
アルマは、店の奥をゆびさす。四人の眼が、おたがいに交差した。