エピローグ
「これで、一件落着ね」
砂漠を背景に、セシャトはそうつぶやいた。
霧矢は潮風に吹かれながら、ベネディクスの街を遠望する。神殿から流れ出る河に、空の色が映りこんでいた。ふたつの青に挟まれた世界が、海でひとつになるまで、母のもとへ帰るまで、ゆるやかにひろがっていく。
「キリヤたちには、ほんと迷惑をかけたわね」
仮面を脱いだオオカモメことハンナは、喜びと悲しみのいりまじった表情で、一同にわびを入れた。ふりかえった霧矢は、首を左右にふる。
「きみがいなかったら、この事件は解決できなかったよ……ありがとう」
ハンナはブロンドの髪をなびかせながら、浜辺へと歩みよった。白くくだけた波が、彼女のくるぶしをおおっては、引いていく。砂のうえにのこされた足跡も、いくつかの波にさらわれて消えた。
「被害者のいない殺人事件……これは、研修所のケースブックに載るわよ」
ほこらしげなセシャトをよそに、霧矢もまたハンナのそばにたたずむ。
ハンナは、まるでひとりごとのように、少年に語りかけた。
「被害者は、いたのよ……」
「そうだね……メラルダとローザ……」
「いいえ、ちがうわ」
霧矢はメガネの奥から、少女の横顔を見つめる。
「……人魚だって言いたいのかい?」
水平線を見つめたまま、ハンナは首をたてにふった。
「ねえ、キリヤ……人魚は……アルマは、この都で、静かに暮らしたかったのよ。本当に、ただそれだけだった。人魚は、気の遠くなるほど昔、オアシスから流れ出る小川の美しさにひかれた。それが伝説。だけど、わたしは思うの。彼女はもともと、この海岸に住んでいたんじゃないかって……ここが、彼女の故郷だったのよ」
故郷。ハンナの言葉は、ただならぬ説得力で、少年の心をとりこにした。
「人魚には、人目をさけて、静かに暮らす自由があった……ちがうかしら?」
ハンナの問いかけは、深く、おだやかだった。
ふだんの霧矢なら、その言葉の波にさらわれて、うなずくだけだったかもしれない。アンホルトの遺族が、この物語をそっとしておけば、このような悲劇は起こらなかったのかもしれない。時計はほこりをかぶり、人魚たちは黒檀の書きものづくえのなかで、永遠の忘却にやすらぐ。
だが、彼はこの物語のなかで、ほんのすこしだけ、自我を持ちたいと思った。
「……ちがうんじゃないかな」
霧矢は自分の意見を、すなおに口にした。それは、二度目の薬屋の訪問以来、ずっと心にわだかまっていた、彼なりの解釈だった。セシャトやトト、ちはるにすら話しても理解されないであろう考えを、霧矢はハンナに伝えたくなった。
「だれにでも、静かに暮らす自由はあるさ……でもね、他者から逃げる自由は、どこにもないんだよ。いや、あるのかもしれないけど……それを守るには、なにか特別な……犠牲が必要なんじゃないかな。彼女はその犠牲を払わないまま、現状を維持するという手段に出てしまった。それが……ごめん、うまく言えないや」
霧矢は視線を落とし、波の音に耳をすませた。
「そのせりふ、おぼえておくわ……わたしも、犠牲をはらうときが来たから」
ハッとなる霧矢の背後で、足音がした。
ふりかえると、セシャトが立っていた。
彼女はけわしいまなざしで、ハンナへと視線をうつす。
「本庁から連絡があったわ……ハンナさん、あなたには、この世界を出て行ってもらうことに決まったの」
「それは、どういう……」
口をはさもうとした霧矢を、セシャトは左手で制した。
一方、ハンナは、これを予期していたかのように、そっとほほえんだ。
「追放刑ってことね……」
「刑罰ではないけど、ひとつの物語に、おなじ登場人物は、ふたりいられないの。あとから生まれたと思われるあなたを、除外することになったわ……安心して。殺したりはしないから。ほかの世界に移住してもらうだけ」
それは結局のところ、追放にほかならない。霧矢は、そう思った。
ハンナはふかく息をつき、さみしげな笑みをもらす。
「とうとう、この街ともお別れね」
彼女は、なつかしむようなまなざしで、ベネディクスを見つめた。
その瞳はどこか、うるんでいるように思われた。
「ねえ、ほかに解決策は……」
「キリヤくん、これは本庁の決定よ。あたしたちじゃ、どうしようもないわ」
「そこを考えるのが、きみの仕事……」
「いいのよ、キリヤ」
ハンナは、どこか吹っ切れたような顔で、霧矢にむきなおる。
「さっきも言ったでしょ。犠牲は、いつか払わないといけないの。アルマは閉じこもる自由を追った。わたしは飛び出す自由を追うわ。そして、その代償を……ベネディクスにもどれないという代償を、きちんと払うわ。自由なフリをするのは、もうおしまい。これからは、本当に自由な生き方をしたいの」
ハンナの覚悟に、霧矢は胸をうたれた。ただ同時に、なぜ自由の代償が、この街ではなく、ハンナ個人に課せられるのか、それを不思議に感じた。ベネディクスはすべての呪いに耐えて、人魚の命をうばった。それと似たことが、ハンナの身に起きようとしている。共同体の罪は不問となり、彼女の罪だけがさばかれる。なぜそのような理不尽が許されるのか、年端のいかぬ少年は、答えるすべを持たなかった。
「担当の職員が来るから、こっちで待機してちょうだい」
セシャトはそう言って、ハンナを先導した。
最初の一歩を踏み出したところで、セシャトは肩ごしにふりかえる。
「キリヤくん、例の件については、あやまっておくわ」
「例の……? なんのこと?」
「待ち合わせ場所にあらわれなかったこと」
「あれはこっちのミスだよ。べつに……」
「トトには七時と伝えてあったのよ」
ふたりは、おたがいに見つめ合った。
気丈だが、どこか罪悪感をおぼえたようなセシャトと、あっけにとられる霧矢。
霧矢はほほ笑み、首を振って目を閉じた。
まぶたのうらに、あの夜のアルマがよみがえった。
そらぞらしく、それでいて、やさしげなまなざし。
「……いや、いいんだ。あの夜、ぼくがみた人魚は、もういないから」
霧矢はそれだけ言って、セシャトに背をむけた。
足音が遠ざかる。さようならは、どちらからも言い出さなかった。
しばらく海をみつめていると、トトが話しかけてきた。
「キリヤさん、ほんとうにありがとうございました」
トトは深々とおじぎをした。
そのしぐさには、どこかもうしわけなさそうなところがあった。
「ううん、トトさんこそ、最後は助けてくれてありがとう」
トトは照れるように笑った。白い頬を染める。
彼女は無邪気だ。霧矢には、そのことが救いだった。
霧矢はそっと、まぶたを閉じた。どこまでも続く砂丘。流れ去る鉱石の粒子。蟻地獄のようなくぼみと、そのうえに広がる空。ふとその空に、一羽のカモメが舞った。どこから来て、どこへ行くのか。答えの見つからぬ少年の意識は、そのカモメをはなれて、砂丘へと舞いもどる。今にも崩れそうな砂礫のふちに立ち、彼は穴底に目をこらす。そこには、一心不乱に砂をかきだす、美しい女の姿があった。
少年の気配に気づいたのか、それとも、カモメの影がさしたのか、女は顔をあげた。その視線は少年を通りすぎ、カモメの羽へとそそがれる。
身寄りのないカモメと、それを砂底から見つめる女。
どちらの生が幸福なのかを、少年は知らない。
【完】




