第23話 朝焼け
霧矢は煙にむせかえる。入り口を破ろうとするトトの体当たりが、そらぞらしいほどに心ぼそい。霧矢はハンナを抱きしめ、彼女の容態を確認した。
「ハンナさん? 大丈夫?」
「ええ、なんとか……はやく火を消さないと……」
地下水路の水で、ふたりは消火活動につとめた。けれども、火の回りのほうが圧倒的にはやかった。炭と化した棚がたおれ、水路をふさぐ。
このままでは焼け死んでしまう。そう思った霧矢は、HISTORICAの通話ボタンを押し、トトの名前をフリックした。
救急車を呼ぶような焦燥感が、少年のなかで煮えたつ。
《もしもし? キリヤさん? 大丈夫ですか?》
「そのまま家の窓に突っこんで!」
《はい?》
「家の窓に突っこんで!」
《りょ、了解です!》
通話を切り、霧矢はハンナに声をかける。
「床に伏せて!」
ハンナをかばうように身をかがめたとたん、窓がすさまじい音を立ててやぶれた。火の粉をふり払って顔をあげると、巨大なグリフォンが、窓から首をだしていた。
グリフォンは炎におびえたのか、すぐにそれを引っこめた。新鮮な空気が流れこみ、火の手が一瞬にして強まる。
「キリヤさん! はやくはやく!」
「オ、オオカモメさま! いま助けますニャ!」
残ったガラスを割りながら、トトとスフィンクスが顔をのぞかせた。
霧矢はハンナを肩にかかえ、窓に向かって渾身のダッシュを決める。天井の梁が焼け落ち、窓枠を飛び出した霧矢たちの体を、仲間たちが受けとめた。
「キリヤさん、大丈夫ですか?」
焦点のさだまらない霧矢の視界に、トトの心配そうな顔がうつりこむ。
「そ、それよりも……ハンナさんを……」
「キ、キリヤ、生きてる?」
ふたりの目が合った。
どうやら、助かったらしい。霧矢は安堵して、ひざを落とした。
ハンナはふらつきながら立ち上がると、彼の耳もとで、なにかをささやいた。
霧矢は目をみはり、そしてさけんだ。
「そ、そんな無茶な!」
「それしか方法がないわ……橋の場所は、分かってるわね?」
霧矢は、力強くうなずいた。ここから一番近い橋と言えば、幹線水路に架かっている大橋。この物語の序盤でおとずれた、中央公園のそばだ。
「な、なにが始まるんですか?」
混乱するトトの割りこみを許さず、霧矢は駆けだした。
トトがなにかさけんだが、霧矢の耳にはとどかなかった。
時間がない。霧矢は、全力で走った。
人魚がどれだけ速く泳げるのかを、彼は知らない。ただ、橋から逃亡されてしまえばもはや打つ手がないことは、彼にも分かっていた。
霧矢は、めまいがするほどに息をはずませて、幹線水路を疾走する。
世界はまだ眠っていた。薄暗い街並み、夢のような静寂。
朝もやのなかに、ふたつの尖塔と、それをつなぐ大橋が浮かんだ。
日の出まえの水路に、まだ人影はなかった。
霧矢は端末を射撃モードにきりかえる。意味がないとは分かっていても、丸腰で闘うわけにはいかない。気休めをえながら、霧矢は橋のしたにたどりつく。
「人魚は……?」
あたりを見まわしても、アルマの姿はなかった。
逃げられたのか、それとも、まだ泳ぎ着いていないのか。
霧矢は水路を一望するため、尖塔を駆けあがった。螺旋階段をのぼり切ると、木製のゆったりした橋が、向こう岸まで続いている。
だれもいない。
橋の中央へ向かおうとしたとき、ふと首筋に、冷たいものがふれた。
「……雨?」
足もとに、ちいさな水たまりができている。
視線はおのずと、尖塔の屋根に引きよせられていった。
「……」
霧矢は見てしまった――屋根のうえに張りつく、アルマの姿を。
「うわあああ!」
端末をかまえるよりもはやく、人魚は少年に飛びかかった。
体当たりを喰らった霧矢は、人魚とともに転倒する。
体勢は、霧矢に分が悪い。上半身を押さえつけられてしまった。
アルマの濡れた髪から、水のしずくが降りそそぐ。
「ひとりで来るとは、おろかなやつだ」
うなるようなアルマの口調が、霧矢の耳をおびやかす。
「ま、待ちぶせていたのか……」
「なぜわたしの邪魔をする? なぜ平穏な日々をみだす? くだらない女たちが増えたのを、わたしは間引いてやっただけなのだ。それなのに……それなのに……」
人魚は霧矢の襟首をつかみ、欄干へと引きずりよせる。
突き落とす気だ――霧矢は、必死の抵抗をこころみた。
「あがくな。楽に殺してやる」
霧矢は、欄干から上半身を押し出された。あとがない。
「どうだ? おそろしいか?」
アルマは、霧矢の恐怖を味わうように、舌舐めずりをしてみせた。
その舌の動きを目で追いながら、霧矢もくちびるを動かす。
「……とう」
「なに?」
霧矢は、残りわずかな空気で、最後の言葉をつむぐ。
「ありが……とう……これで……時間が……かせ……」
ふいに、あたりが暗くなる。アルマは空を見あげた。孤独な星々が、なごりおしそうに身をふるわせる空。その空から、一羽のカモメが飛び立った。
カモメは、ハンナだった。
水平線の向こうがわに消えるグリフォン。その翼と垂直を描くように、ハンナは人魚の背中へと舞いおりた。
アルマの肋骨に、するどい痛みが走る。彼女は力まかせに、ハンナをふりはらった。その拍子に、指が霧矢の首からはなれた。バランスをうしなった彼は、欄干にしたたか頭を打ちつけた。めまいを覚えながら、柵のひとつにしがみつく。
「邪魔をするな小娘……うッ!」
ぱらぱらという、奇妙な音だった。小雨に似た、まとまりのないリズム。アルマは、ふるえる手を背中へとのばす。べっとりとした感触が、彼女の肌をおそった。白み始めた東の空に手をかざすと、あざやかな血のりの化粧がみえた。
すさまじい勢いで、血の噴水があがる。
人魚は、苦しみに身をもだえる。ハンナが人魚の心臓に突き立てたのは、剣などではなかった。一本の細い鉄パイプ。それが正確に、アルマの心室を射抜いていた。
アルマは、パイプを抜こうと腕をひねる。だが、再生された筋肉がからみつき、血にまみれた金属の表面は、彼女のなめらかな指を、無情にすべらせ続けた。
体を動かせば動かすほど体液が失われる悪循環に、人魚はひざをくずす。
「……!」
水平線のかなたに、朝日がのぼる。街が、光の洪水に流されていく。
その光景を目の当たりにしたとき、霧矢は、人魚が執着していたものの正体を知った。海から昇る太陽と、燃え立つ水平線、風と雲、砂と潮の香り。
「わたしの街……わたしの……」
人魚は右手をのばす。朝日を、この街の風景すべてをつかみ取るように、指をかたく折り曲げる。そして、静かに目を閉じると、彼女はうしろむきにくずれ落ちた。肉体は欄干をこえて落下し、別れの水飛沫だけが、あたりに木霊した。
人魚は、もう帰って来ない──永遠に。




