第15話 水の女
【前回までのあらすじ】霧矢とセシャトは、ちはるたちを救出するため、水誕祭を利用することになった。地上がお祭りさわぎのあいだに、地下牢へもぐるというプランだった。霧矢はローザたちを地上に引き留め、セシャトが地下牢を担当することになった。ところがそのとき、水路を泳ぐあやしげな影が現れた。
「来るな! 来るな!」
無精髭の男は、一歩また一歩と、うしろにさがる。その歩調に合わせて、水にぬれた黒づくめの人影が、つややかな指を外気にさらし、ゆっくりと距離を詰めていく。肌のきめこまかさは、女のものとしか思えない。
全身からしたたる水のしずくが、男の恐怖をあおりたてた。
「ひッ!」
手がとどくほどに詰めよられた男は、反射的に槍をふりまわした。
水の女は、美しい手でその柄をつかみ、空中に固定した。男がいくら力をこめても、槍はびくともしない。やみくもにひねると、そのまま折れてしまった。
パニックになった男は、柄を襲撃者の胸もとに投げつけた。
濡れ雑巾をたたくような音がしただけで、男の反抗は徒労に終わった。
「た、助けてくれ!」
男のほほを、強烈な平手打ちがおそった。
バランスをうしなった男は、人形のようによろめき、牢のとびらで頭を打つ。
「……ぐッ!」
首がしまる。男の体は、いつの間にか宙に浮いていた。眼球に血が走り、口から唾液がこぼれる。のどにからんだ女の指を、男は必死にかきむしった。
「……ッ! ……ッ!」
男の目から生気がうしわれかけた瞬間、ほとんど同時にふたつの影が、正反対の方向から飛び出してきた。ひとつは、水路の此岸、もうひとつは、彼岸。さきに声をあげたのは、水路の向こうがわに出た検史官、セシャトであった。
「そこまでよ!」
水の女は、セシャトに興味を示さなかった。彼女が反応したのは、もうひとつの人影――オオカモメだった。オオカモメは水の女と同じがわの通路にあらわれて、セシャトよりもすばやく攻撃体勢をととのえた。
敵の出現を察知した水の女は、最後の一撃をくわえる。セシャトたちの目のまえで、男の首が、イヤな音を立ててねじ曲がった。人間業とは思えない怪力に、オオカモメは、たじろいだ。セシャトも端末の操作をわすれて、釘づけになった。
水の女は、男の体をほうり投げ、水路のうえに荒々しく打ちつけた。男が死んでいるのは、セシャトとオオカモメの目にも明らかだった。
「貴様ッ……!」
オオカモメは、剣をにぎりなおす。だが、いくら気丈にふるまっても、手のふるえは隠すことができない。水の女は、一歩一歩、オオカモメのおびえを楽しむように、体を近づけていく。
「止まりなさい! 止まらないと撃つわよ!」
水路の向こうがわから、セシャトは渾身の警告を発した。
水の女は、緩慢な動作を捨てて、オオカモメにおそいかかった。
「!」
通路が、ふいに明るくなる。セシャトの射撃術が、オオカモメの命を救った。けむりのあがる左うでを押さえて、水の女は身をよじらせた。セシャトが第二弾を発射しかけたとき、目のまえに水飛沫があがった。
セシャトは視界を確保しつつ、敵のフェイント攻撃にそなえる。
「……?」
水面におおきな波紋をのこして、静寂があたりを支配した。
セシャトはおそるおそる水路をのぞきこむが、そこに水の女の姿はなかった。
目をこらすと、オオカモメが腰を落とした水ぎわに、側孔が見えた。
彼女は舌打ちしてから、オオカモメのほうへHISTORICAをかまえなおす。
「オオカモメ! そこでじっとしてなさい!」
水路に目をとめたまま、セシャトはオオカモメに注意をうながした。
非友好的な空気を感じとったのか、オオカモメは勝手に腰をあげた。
「……礼を言う」
「お礼はいいから、じっとしてなさい!」
オオカモメは、セシャトの警告にしたがった。仕組みは理解できなくとも、セシャトのにぎっているものが凶器だということは、分かるのだろう。水の女を撃退したのは、彼女の手もとにある黒い箱なのだから。
「いい判断よ……さあ、仮面をはずしなさい」
「……」
「聞こえなかった? 仮面をはずしなさい」
バタン!――ふいにとびらがひらいて、セシャトは端末をそらした。
「ちはるちゃん!」
音の主は、鉄のとびらを体当たりでやぶった、ちはるとスフィンクスだった。
このチャンスを、オオカモメが見逃すはずもない。
「痛ッ!」
オオカモメの投げつけた小石が、セシャトの手首に命中した。
端末が音を立てて、地面にすべり落ちる。
「ちはるちゃん! あいつを止めて!」
ちはるは、身をひるがえしたオオカモメに照準を合わせる。
「そうはさせんニャ!」
背後からスフィンクスに飛びかかられたちはるは、よろけて地面に突っ伏した。
セシャトが端末を拾いあげたとき、義賊の姿は、もはや見当たらなかった。
彼女は全身をふるわせながら、スフィンクスをにらみつける。
「このバカ猫! こうなったら、あんたを人質にしてやるわ!」
○
。
.
「キリヤさん、撤収、完了しました」
しずみゆく夕陽が、閑散とした広場を清めている。
霧矢は、赤みが増す西の空を、脱力したようにながめていた。
「もうみんな帰っちゃいましたよ……キリヤさん?」
身じろぎもしない霧矢に愛想をつかせたのか、使用人の少年は肩をすくめて、その場を去った。過度の緊張がとけたばかりの霧矢は、ただ夕焼けをながめ続けた。
彼の端末が震動したのは、演説の終わる数秒まえ。まさにぎりぎりの攻防戦だった。待ちに待ったバイブレーションに心臓をつかまれた霧矢は、観客たちに拍手をうながした。そして、すべての視線をステージへあつめることに成功した。建物のすみから出てくるセシャトたちに拍手をおくっていたのは、おそらく彼ひとりだろう。
夕風が吹きはじめた。達成感と疲労感から、霧矢はその風に身をゆだねた。
「キリヤさん、こんなところにいると、風邪をひきますよ」
霧矢は、女の声に意識をとりもどした。
夕陽に染められた長そでのワンピースとともに、アルマが風に舞ってゆれていた。
彼女は、ゆっくりと霧矢に歩みよって、左がわに肩をならべた。
「夕焼けが奇麗ですね……」
霧矢はひとりごとのように、そうつぶやいた。
「ええ、この街は、ほんとうに奇麗だと思います」
アルマの目は、なにかを懐かしむように、はるか遠くを見つめていた。
「昨日は、すみませんでした……興奮しちゃって……」
アルマに対する怒りは、霧矢のなかから、とっくに消えていた。彼女の言うとおり、ちはるが無事だったからなのか、それとも、キャラクターへの干渉は無意味とさとったからなのか、それは、彼自身にも分からない。
アルマは川辺に足をはこび、身をかがめて水面に右手をつけた。流れをみだされた水が、美しい波をかなでる。夕日はその波のなかへと、溶けていった。
「キリヤさんは、わたしを薄情だと思いますか?」
「……はい」
霧矢は、正直に答えた。
「ちはるさんのことを、なぜそこまで心配なさったのですか?」
「……友だちだから、ですかね」
「友だちでないひとは、心配しないのですか?」
それはもはや、問いではなかった。霧矢は、自分の心のささやきにしたがう。
「そうかもしれないですね……ただ、すべてのひとを救えるほど、ぼくは万能じゃないんです……家族がいて、友だちがいて……それで手いっぱいですよ……大人になったら、仕事仲間も大勢できますし……どうなるのか、見当もつきません……」
アルマは水面から手をひき、そっと立ちあがる。
「この街のひとからすれば、だれが支配者かなど、どうでもいいことなのです。わたしだろうが、お継母様だろうが……人間というのはおもしろいもので、不便な生活にも、いつかは慣れてしまうものなのですね。こうして水が使えなくなっても、以前とおなじような生活が続いている……わたしはそれを、不思議に感じます……」
「アルマさんも、そうですか? 今の生活に、満足しているんですか?」
禁忌にふれた質問だが、霧矢はそれを後悔しなかった。
おそらくは、かなしげな笑顔が返ってくるだろう、と、そう思っていた。
ところが、それはうらぎられた。
アルマの笑顔は、もっと意味深な──とらえどころのない笑みだった。
「キリヤさん、この世には、時代の流れというものがあります。そこでは水の代わりに、時間がわたしたちを押し流していく……そして、立ち止まることも、より速く歩むこともゆるさないのです。この流れに逆らう者には、ただひとつの結末しかない……破滅*です」
霧矢は、答えるすべを知らなかった。
同時に、夕暮れどきのわびしさとはべつの、ある感情が芽ばえ始めた。
恐怖という名の、うすぐらい感情が。
「キリヤ、こんなところにいたのね」
第三者の声が、霧矢を幻想的な会話からつれもどした。
セシャトだった。
「キリヤ、お屋敷にもどりましょう。門限が近いわ」
セシャトは、無言でたたずむアルマのほうへと視線をうつす。アルマは夕陽を背にして、セシャトと対峙するように向かい合った。かたやアカデミーを首席で卒業し、犯罪捜査のエリートになった女。かたや名家に生まれながら、継母にその地位をうばわれた女。ふたつの対照的な人生が、平凡な少年のまえに並んでいた。
「もうおそいので、キリヤをつれて行きますね」
そう言ってセシャトは、霧矢のそでをひいた。
ところが、すぐさま指をはなし、アルマの服装に目をとめる。
夕風の音をのぞいて、しばしの静謐がおとずれた。
「……アルマさん、夏なのに、長そででいらっしゃるのね」
アルマは右腕をあげ、自分の服をものめずらしそうにながめた。
「ええ……この時間は、冷えますので」
ウソではなかった。砂漠にかこまれたベネディクスは、昼夜の寒暖差が激しく、夕方になると急速に冷えこむのだ。わずか数日で、霧矢もそのことに気づいていた。
「そうですか。わたしはてっきり、ケガでもなされたのかと……」
「ケガですか……? どこかで、傷でもつけましたかしら……?」
アルマは、右腕のそでをまくりあげる。水にぬれた肌が、残照にきらめいた。
「それとも、こちらかしら……」
今度は、左腕のそでをまくりあげる。目のまえにあらわれたのは、右腕と同じくらいに美しく、あかぎれひとつない、乙女の肌だった。
「……なにもありませんわね」
霧矢は、わけが分からぬと言った表情で、ふたりを交互に見くらべた。
セシャトの敗北が、彼の目にも明らかになっていく。
「……失礼しました。わたしの勘ちがいだったようです」
「いいえ、水仕事などしていると、知らずに傷つけてしまうものですわ」
アルマはおだやかに、セシャトをゆるした。
「さようなら、キリヤさん、セシャトさん」
夕焼けを背に、ふたりを見送るアルマ。セシャトと霧矢は、だまって広場の出口へと向かう。途中からセシャトが、地下牢での出来事を語り始めていた。
あたりを、闇がつつむ。霧矢は、むき出しになった両腕をさすった。本当に冷える。非現実的な女の描写に入ったところで、彼はふと、くちびるを動かした。
「砂の女……か……」
なぞめいた比喩に、セシャトは歩をとめた。
「砂の女……? それを言うなら、水の女でしょ」
「いや、安部公房の小説だよ」
そのひとことに、セシャトは片方の眉毛をつりあげた。
「それが、どうかしたの?」
「だれも故郷は捨てられない……ただ、そう思っただけさ」
*デンマーク語で「破滅」の意。ødelægge