第10話 オオカモメの逃走
【前回までのあらすじ】ちはるとトトは、監禁場所を脱出することに成功した。時計台をうろうろしていると、謎の神殿に迷い出た。そこで、死体を捨てる犯人を目撃してしまう。ちはるは、これを追跡したが、取り逃がしてしまった。しかも、エシュバッハ家のメラルダに捕まってしまった。一方、神殿に残ったトトは、死体の回収にいどもうとしていた。
泉のそばに残ったトトは、水のなかをのぞきこんだ。
遠くから見ればただの噴水だったそれは、中心部で渦を巻く巨大な遠心分離機のようなものだった。複雑な水流がからみ合い、とても泳げそうにない。深さも目視できず、底知れない闇がぽっかりと、口を開けているだけだった。
すでに肝心の袋は、水流の闇のなかへ、消えかかろうとしていた。あたかも人魚の腕が、それを引き寄せているかのように。
トトは死体が消えるまえに、飛び込もうとした。
すると、うしろから大きな声が聞こえた。
「やめろッ! 死ぬぞッ!」
ふりかえると、オオカモメが立っていた。
「え、あ……」
トトはパニックになりかけた。HISTORICAは、ちはるに渡してしまっていた。
もっとも、エルフの怪力なら、どうとでもなる可能性もあった。が、トトはその点に考えが及ばず、無意識に、うしろに下がろうとした。
その拍子に、泉のふちにころんでしまった。
背中から水へダイブしそうになる。
オオカモメは駆け寄って、トトの制服をひっぱった。
間一髪のところで、トトはオオカモメの胸に抱きとめられた。
「ほかのふたりは?」
「に、人魚を追っかけてます」
「人魚?」
トトは、人殺しです、と言いなおした。
オオカモメは舌打ちをして、ドアのほうを見やった。
「……しかたがない。ひとまず逃げるぞ」
「逃げる? えーと、わたしはもう逃げてるんですが……」
「水上警備隊が来ている。エシュバッハ家の連中に、ここを突きとめられた」
「警備隊? ちはるさんたちは?」
「さがすひまがない」
オオカモメはトトに手をのばした。
トトはそれをふりはらい、サッと身をひるがえす。
「ちはるさんをさがさないとッ!」
「ふたりをさがしている余裕はない」
「つかまって死刑にでもなったら、どうするんですか?」
「わたしの居場所を聞き出すため、生かしておくはずだ。あとで必ず救出する」
トトは耳を貸さずに、部屋を出ようとした。ポケットに手を突っこみ、武器をさぐる。そして、端末をちはるに渡したことに気づいた。
「HISTORICAが……」
端末がなければ、助けられるものも助けられない。
トトはくちびるを噛みしめ、オオカモメのほうへ向きなおった。
「必ず助けにもどるんですね?」
「ああ、約束する」
ふたりは、もと来た道をもどった。さきほどの骨董部屋で、オオカモメは木箱を押し始めた。ちょうど一箱分、横にスライドさせたところで、床に鉄製のマンホールがあらわれた。オオカモメは壁にかけてあったランプを取りはずし、マンホールの把っ手に指をからめた。
「地下水路への抜け道だ……水には入れるな?」
「はい、普通に」
「それなら話が早い。これを持って、さきに降りろ。蓋はわたしが閉める」
ふたりは順番に、縦穴へと身をすべり込ませた。二、三メートルほどしかない手すり階段を、すばやく降りる。オオカモメは器用に、内がわからふたを閉めた。
「閂もかけてある。すこしは時間が稼げるはずだ」
なかは意外に広く、女性ならば楽に通れるほどの通路が、どこまでも続いていた。
「ランプをよこせ」
トトはランプを手渡した。オオカモメが先頭に立って進む。
水滴の音に混じって、頭上では複数の足音が鳴りひびいていた。
「追いつかれますよ」
「大丈夫だ。ここは迷路になっている」
オオカモメの言うとおり、水路は複雑怪奇な迷宮を形成していた。水位もだんだんと高くなり、今やトトのひざにまで達している。水にふれられないベネディクスの人間は、四つん這いになって進むしかないだろう。
これなら逃げきれる。安心したとたん、彼女は重大な事実を発見した。
オオカモメもまた、水に浸かっているではないか。
「オオカモメさん、この街の人間じゃないんですか?」
トトは、あいてが発する感情の微妙な変化を、肌で感じとった。
「……そうかもしれんな」
オオカモメは、あいまいな答えを返した。
「遠くの国から来たとか?」
「ああ、遠くも遠く、だれも知らない場所からだ」
「じゃあ……世界の果てでしょうか?」
「わたし自身、どこなのかわかっていない。天国、とでも言っておこう」
要領をえないオオカモメの言葉に、トトは首をかしげるばかりだった。
「ところで貴様、死体のない殺人事件を調べていると言ったな?」
急な話題のきりかえに、トトは頭が追いつかなかった。
オオカモメは歩みをゆるめて、肩ごしにふり返った。
「言ったな?」
「は、はい……もしかして、犯人に心当たりがあるとか?」
「……ある」
オオカモメの回答に、トトは足がすくんだ。
「止まるな」
水音がしないことに気づいたのか、オオカモメはそう忠告した。
トトは水のなかを進みながら、おずおずとくちびるを動かした。
「だれなんですか……その……犯人は……?」
返事がない。三〇秒ほど待って、トトはもう一度、同じことをたずねた。
「人魚だ」
「人魚? ……エシュバッハ家のだれかですか?」
「いや、正真正銘の人魚だ」
「人魚さんが殺すところを、目撃したんですか?」
「そうではない……ただ、死体を捨てるところを見た」
「死体を? どこで?」
「水の神殿にある、浄化の間だ。二日前にな」
二日前。本庁によって、物語の異常が確認された日だ。
第一犠牲者だろう。トトは確信を深めつつ、用語の整理にとりかかる。
「『みずのしんでん』ってなんですか? 『じょうかのま』は?」
聞きおぼえのない単語を、トトはぎこちなくリピートした。
「ほんとうに、なにも知らんのだな」
ややあきれたようなオオカモメに、トトは赤くなった。
「すみません……」
「あやまる必要はない。部外者と思ったからこそ、目をつけたのだからな……水の神殿というのは、もともと人魚が祀っていた、宗教施設のことだ。今ではベネディクスの公有物だが、実質的には、エシュバッハ家が管理している」
「それって、どこにあるんですか?」
「さっき、おまえがいた場所だ。あれが浄化の間だ」
「えッ! じゃああれは二回目なんですかッ!?」
「大声を立てるな……水路にひびく」
トトは口もとを押さえて、声を落とした。
犯人が現場に帰ってきた──アカデミーで習った通りだ。
トトは興奮を隠せないまま、
「『じょうかのま』は、どういう場所なんですか? 死体を隠すために作ったわけじゃないですよね?」
とたずねた。
「浄化の間は、水の神殿の中枢部だ。この街の周辺は、砂漠でなにもない、荒涼とした土地だったらしい。千年以上もまえのことだから、本当のところは知らんがな……ともかく、この土地にやって来た人魚は、水脈を掘り当てて、住み着くようになった。そのときの水源が、浄化の間になったというわけだ」
「あれ? この街って、人魚が開拓したんですか?」
「伝説が本当なら、そういうことになる。水でうるおったこの土地には、次第に草や木が生えるようになった。海に近かったこともあって、人間が植民した。欲の皮の張った彼らは人魚を追い出し、こうして水にふれられない生活を送っているというわけだ」
トトは、この伝説がなにか、重要な意味を持っているように思った。
けれども、その意味にまでは、とうとうたどりつけなかった。
「人魚はそのとき、死んじゃったんですよね?」
「それは、数ある言い伝えのひとつに過ぎん。どこかで生きているという伝承のほうが、むしろ多いのだ。今朝も話したとおり、墓の在り処もわからん」
「で、その生き残った人魚が、犯人なんですか?」
「そうとしか考えられん」
なぜ断定できるのか、トトは不思議に感じた。
「顔を見たんですか? 牙が生えてたとか? 脚が魚だったとか?」
「いや……姿はわからなかった。全身黒づくめで、フードをかぶっていた。だが、袖口からのぞく指は、明らかに女のものだった。それに、死体をあそこまで軽々と……相当な怪力の持ち主だな。人間業とは思えない」
「でも、なんで人魚が人殺しを?」
「復讐だろう、なぜ人魚が今まで復讐に来なかったのか、そのほうが不思議なくらいだ。民謡にも歌われているのにな」
「民謡?」
トトがたずねると、オオカモメは歌詞を口ずさむ。
「すぐにもどると、人魚は言った。すぐにもどるわ、復讐に」
物騒な歌だ。トトはそんなことを思いつつ、さきを続けた。
「と、とにかく、死体は浄化の間にあるんですね?」
「あった、だな……今となっては、見つけるのは不可能だ」
「不可能? なぜですか?」
「死体は、浄化の間の噴水に投げこまれた。あそこに落ちたら最後、髪の毛一本浮かび上がらん……あきらめろ」
「あきらめろと言われても……じゃあ、被害者がだれか、ご存知ですか?」
オオカモメは、トトの質問を無視した。
「すみません、被害者を知ってるんですか? それとも、知らないんですか?」
「こちらから質問をしてもいいか?」
「え……あ、はい」
トトは、じぶんの質問がさえぎられたにもかかわらず、譲歩した。
その理由は、オオカモメのことばの重さのせいだった。
あまりにも真摯だったのだ。
「おまえはなぜ、今回の事件を追っている?」
「それは……仕事だからです」
「異国の殺人事件をわざわざ捜査することが、仕事なのか?」
「……はい」
オオカモメは沈黙した。
トトはその沈黙に耐えられなくなった。
「質問は、それだけですか?」
「その仕事についたのは、おまえの意志か?」
トトは迷った。そして、正直に答えた。
「ちがいます」
「世襲か?」
「いえ……わたしが生まれた一族のなかから、どうしてもひとり出さないといけなくなって……わたしが指名されました」
「ほんとうは、なにになりたかった?」
「……お洋服を作ってみたかったです」
「なぜそうしない? 辞めるとペナルティがあるのか?」
「……そうかもしれません」
トトは自信なく答えた。彼女が所属するイビミナーブル族は、エルフの女王の命令で、検史官をひとり出すことになった。イブミナーブル族は、森に住むか弱い種族であり、このような仕事にはむいていなかった。トトですら、この種族のなかでは屈強かつ明晰なほうだった。
じぶんがアファーマティブアクションで合格したことを、トトは知っていた。試験で問題がほとんど解けなかったし、体力テストでも並み以下だったのだから。とはいえ、じぶんで受けたくて受けたわけではないのだから、最初の頃は、そこまでうしろめたく思っていなかった。うしろめたく思うようになったのは、ふつうにテストを受けて不合格になったエルフから、棘のあることを言われたからだった。
オオカモメは天井をあおいだ。なにもない湿った壁面に、視線をとめた。
「そうか……おまえは能天気に生きているものとばかり思っていたが、ちがうのだな。ふしぎだ。逃げてしまえば終わることに、ひとはいつまでもこだわる。へたをすれば死ぬまで。わたしたちは、自由が怖いのだろうか、それとも一度始まってしまったなにかは、もう止めることができないのだろうか」
「あの……質問は、以上ですか? こんどはわたしの質問に……」
「もうすぐ出口だ。気をつけろ」
ふたりに、光の雨がふりそそぐ。
トトは右手をひたいにかざした。ひさしぶりの太陽に、目をほそめた。
その瞬間、巨大な影が、頭上をとおりすぎた。トトは悲鳴をあげた。二枚の羽をもつ鳥のようにみえたが、四肢があり、下半身はライオンのようであった。その獣は、尾を風になびかせながら、遠くの空へと消えて行った。背中には人間が乗っていた。
グリフォン。トトは、アカデミーで習った魔獣の名前をおもいだした。もう一羽が頭上を滑空し、トトは大声をあげかけた。オオカモメの手が、彼女の口をふさぐ。
「大声を出すな……警備兵がうろついている……」
トトはだまって、了解のあいづちを打つ。
ふたりが足を踏み入れたのは、空港の人工河川だった。グリフォンたちの下降ルートの真下にあたる。周囲の堤防には、大小の箱がところ狭しと並べられ、ここが野ざらしの荷物置き場であることを、トトに教えてくれた。
「これから、どうするんですか?」
オオカモメは、あたりを警戒しつつ、大胆な計画を提案した。
「一匹ちょうだいするか」
「こ、この鳥をですか?」
「一番速いやつがいい。アイツなら、ふたり乗りでも大丈夫だ」
あいつ、と言いながらも、近くにグリフォンの姿はなかった。
どうやらオオカモメは、特定の個体を念頭においているようだった。
「ジェット機みたいなやつですか?」
未知の単語をささやかれたオオカモメは、トトの顔を見つめ返した。
「おまえの国には、さぞかし面白いものがあるのだな。今度、聞かせろ」
そのとき、人の気配がした。
ふたりは急いで、手近な荷物の影に避難した。注意深く顔をのぞかせると、武装したふたり組の男が、目にとまった。身なりこそ警備兵のものだったが、話に夢中で、荷物の隙間すらチェックしていなかった。
「神殿から出てる水路を全部調べろっつったって、無理があるだろ」
「そうグチるなって。オオカモメの野郎を見つけようが見つけまいが、給料は変わらねえんだ。のんびり散歩と洒落込んでりゃいいのさ」
バカ笑いをしながら、男たちはふたりのまえを通り過ぎていった。
「……よし、ついて来い。厩舎へ向かうぞ」
ふたりは、荷物のうしろに隠れたり、建物の背後にひそんだりしながら、グリフォンのいる厩舎へと移動した。警備兵のせいで、長い待ち時間を強いられた。が、目的地の近くまでは、無事たどり着くことができた。
ただし、そこからまだ百メートルほど、遮蔽物のない直線コースが残っていた。
「足は速いか?」
「まあ、そこそこ」
「遅れるなよ……三、二、一、ダッシュ!」
しげみから飛び出すふたり。
三秒と経たないうちに、厩舎の入り口を見張っていた男が、声をあげた。
「何者だ! 止まれ!」
男の制止をふりきって、オオカモメは腰の剣に手をかけた。男のほうも自分の鞘に手を伸ばしたが、オオカモメの踏みこみのほうが速かった。剣のつかで男の腹を思いきり打ちすえると、そのまま厩舎のとびらを蹴破り、建物へ突入した。
トトもそれに続く。さいわいにも、内部に人影はなかった。
オオカモメは、右列にある手前から五番目のボックスに駆けよった。そこには、一目で優秀と分かる、巨大な個体が飼われていた。そのグリフォンは、ほかの仲間たちとは異なって、静かにオオカモメの作業を見守っていた。
「通路奥の門を開けろ!」
トトは、左右に居並ぶグリフォンたちのあいだを抜けて、門へと向かう。
身長の二倍近い高さだ。トトは気おくれしながらも、閂に手をかけた。
せーので体重をかけてひっぱると、閂がずれた。
一〇〇キロ以上はあろうかという金属棒を、トトは一生懸命にひっぱった。
「トト! 準備はいいか!」
「も、もうちょっとですッ!」
入り口へ大勢の兵士が、なだれ込んで来た。
オオカモメは、
「もういい! 乗れ!」
とさけんだ。
トトは大慌てで、グリフォンの背中にしがみついた。
「ぶち破れ! おまえならできる!」
兵士たちが耳をふさぐほどの狂声をあげ、グリフォンは助走を開始した。あっという間にスピードが乗り、木製のとびらへと突っこんでいく。
「頭をさげろ!」
耳もとで破砕音が鳴りひびき、胃のせり上がるような浮遊感が続いた。
風の心地よさに顔をあげると、地上は遥か彼方となっていた。