到着 登城
「位階――全ての悪夢の整備の度合い」
――ロンドンの魔導士、アーサー・ガブリエル
1
カッセンは城門に囲まれた都市であった。
周囲の山と、城壁の二重の壁に守られた、どこか閑静な印象を与える都市。
見れば古い城壁もある。
先ほど騎士殿がチラッと口にしていた古代帝国時代とやらの建築をそのまま流用してるのだろうか。
騎士アレーアは城門の守衛――多分警護隊、あるいは軍兵――の詰め所。
そこに駆け込み、ものの数秒で身分を証明して、速やかに都市の内へと入り込むことを可能にした。
都市の内部は、賑やか、とはいえ地球の都市と比べるべくもなく、
また規模の小ささのせいか、その人の賑わいにはどこか余裕がある。
悪く言えば隙間の目立つ賑わいか。
都市の外を囲む畑を耕している者や、
あるいは山で獲物を追っている者か、
詳しくは分からないが、都市近郊の住民が市を立てているらしいことが窺えた。
その他、行商人の出店もあった。
「騎士殿」
「……なんだ」
ぶすっとした声。
柄にもなく喋り通したことを恥じるかのような声。
というか多分その通りなのだろう。難儀な性格だ。本当に。
「目的地は?」
「とりあえず城に行く前に、メイザー卿の屋敷に」
言って、遠くに見える巨大な館、といっても大貴族のものとは言えないような大きさの屋敷だ。
俺はとりあえず頷いておく。
行くべき所もないのだ、従うまでである。
今のところは、全くの異世界とはいえ上手くやれている。
うむ、気にくわないが、神に感謝だ。
そして数分で到着、
南の大通りらしき道を進み、
そう時間は掛からなかったところを見ると、やはりか、余り大きな都市ではないようだった。
屋敷、辺りを囲むのは石造りの壁。
中には庭園。
大きさは日本の団地住宅を一〇ぐらい合わせたほど。
やはり大きいことは大きいが、そこまででもないようだ。
騎士殿は馬を、馬丁に預けたので、俺もそれに倣った。
まさかこの歳になって、異世界で馬を操ることになるとは思わなかったが。
上手くやれたようで、ほっとした。
そんなことを考えながら、降りた騎士殿に続く、
馬丁がこちらを睨むのは、恐らく彼が騎士殿のファンであるのか、
あるいは俺がいけ好かない貴族の餓鬼で、騎士殿を煩わせていると勝手に推測を立てて腹を立てているのか。
もしくは一四から一五歳の餓鬼の癖に偉そうに、と思っているのか。
うむ、そのどれも当てはまるのかもしれんな。
と、そんなことを考えながら騎士殿の後を付いていくと、館の大扉を開いて、一人の女性が出てきた。
白いドレス、いやワンピースか?
蒼いショール、銀の腕輪、上品な仕立ての皮のコルセットがドレスから透けて見える。
うっすらと透けるコルセットとその下に見える肉体が麗しい。
ふむ、俺がもう幾らか若ければな。
肉体はまあ、若いらしいのだがな!
……
…………
うむ、調子が出てきたか?
分からない。
老いと、若さとあるいはそのどちらとも付かない混在とした意識だ。
もっと昔は何処にでもいる餓鬼だった筈で、
島から出たときは慇懃な、あるいは丁寧な馬鹿で、
そのうち、己を開放して、まあ、なんだ、少しはっちゃけて、
そして狂気に墜ちて、
死んだ。
我ながら阿呆だな。
俺が郷愁に浸っている隣で騎士殿が声を発した。
「メイザー!」
「アレーア!」
メイザー、恐らく先ほどの会話で小メイザーと呼ばれた人物か?
切羽詰まった、鬼気迫った表情でこちらに駆けてくる。
長い黒髪。騎士殿に似ていると感じた。
おそらく彼女も無表情型か、冷静型なのだろうか。
しかしそういった印象を与える筈の彼女の美貌は焦燥で歪んでいた。
「騎士アレーア、遅いのではないですか?」
「色々あったのだ、断れぬ用事がな、それよりもメイザー、こちらで至急話を」
「そんなことよりも、一大事ですアレーア卿、姫が」
そこで、一瞬俺の方を見る。
美貌。というか美人ばかりだなこの世界は!
しかしこちらは騎士殿のような輝く美貌、あるいは透明を思わせる美貌というのではなく。
どことなく神秘的な、あるいは古代の姫を思わせる、悪く言えば陰気な、陰のある美である。
「こいつは構わんメイザー、話を」
「ですが……いえ、貴方が言うのなら信用しましょう。
大変なのですアレーア、……姫の婚姻の儀の日取りが昨日、決まりました」
今度こそ、騎士殿は絶句した。
目が飛び出るかという程に、目を見開き、そして口を開いた。
屋敷の噴水が遠くに見える。
綺麗に揃えられた庭木が美しい、良い庭師を雇っていると脈絡もなく思った。
「ば、馬鹿なことを言うな!? ……っ、冗談ではないのだな」
「そのようなこと、姫に関して私が言うことはありません」
「ふむ、急だな、そして露骨だ、一番の邪魔者を始末したつもりだったか」
言うと、その軽い物言いに怒りが湧いたのか騎士殿が槍を握りしめ、
そして得体の知れない物を見る目でメイザーがこちらを睨む。
どうでも良いが、おそ微妙に透け気味のワンピースドレスは趣味なのか。
「この者は何者ですか? アレーア卿」
「そ、そんなことよりも姫は」
「落ち着け、とりあえず方策を話し合うべきだろう?」
騎士殿は、そんなに落ち着いていられるか!と今にも叫び出しそうだ。
俺は念の為ポケットに入れておいたミニチュアを握りしめる。
が、横合いから、メイザーの声。
「貴方が誰であるのか知りません。
そして私が貴方を信頼も信用もしていないことは百も承知でしょうが、
しかしその言には一理あります。
中に入りましょう。そしてアレーア、落ち着きなさい」
しばしの逡巡の後、苦しげに頷いた騎士殿。
余裕が無い騎士殿だ。
ともかく、
とりあえず俺と騎士殿は、大人しく屋敷内部に案内するメイザーへと付いていくことにした。
この屋敷入り慣れているらしい騎士殿に、負けじと胸を張って俺も中へと入る。
2
屋敷の中は、典型的な洋館の様式。
大広間、ありきたりな絵、花、それらしい典型的な赤い絨毯。
かつて自称「古から続く貴族」やら「華族」やらの屋敷に行ったことがあるが、
どうして貴族という連中は揃いも揃って形から入りたがるのか、
あるいは、内装に自信のない者が、それを取り繕うために定式に頼るのだろうか。
とりあえず、取り立てて言及すべきところはないその屋敷の中を進む。
窓からは光。
歩く。
そして部屋に案内される。
そこには幾つかの椅子と机があった。
その場には紙。あるいはそれは全て国内に関する情報なのか。
それが散乱していた。
「座ってくださいアレーア、そちらの方は」
「ふむ、流れの魔導士、いや秘蹟士というのだったか? それだ」
本当なのですか?と言いたげに、アレーアを見るメイザー。
目のやり場に困るような、困らないような妙に生地の薄いドレスだ。
もっと若かったなら俺も喜んで目の保養などと言っていたかもしれないな。
「……そうだ、協力者、かもしれん」
歯に何か挟まったかのようなものいい。
「なんでまた曖昧な物言いなのですか?」
そして溜息を吐く侍女。
しかしその反応は中々に失礼ではないか?
という俺の思考。傍で見ていて思ったが完全に俺は不審者扱いらしい。
まあ、しょうがないことか。
ん、というかなんだかふわふわしているというか、我ながら思考と調子にぶれがあるな。
その俺の懊悩を尻目に、二人は話を続けていた。
「ともあれ、何があったのか話して頂けますか?」
とりあえず、騎士殿と俺で掻い摘んで事情と推測を話すことにした。
……
…………
「……それが本当だとすれば、露骨に怪しい話ですね」
それが第一声であった。
騎士殿は性格なのか、背筋を伸ばして椅子に座っている。
俺は性格なのか、深く椅子に腰掛け、微妙にくつろぐ。
「妙に態度のデカイ子供ですね」
「子供ではない」
「でなければ何ですか?」
「老人かな」
メイザーは方を竦め、こいつはなんなんだ、と言いたげに騎士殿を見た。
「……自称老人の、何だ?」
「なぜ俺に聞くのだ? というよりも騎士殿、微妙にへっぽこにならないでくれ」
へっぽこではない。と口を開こうとしたアレーアを止めたのはメイザー。
「そんなことはどうでもいいので、早く話を進めてくれませんか?
あとアレーア、この自称老人は本当に大丈夫なのですか?」
騎士アレーアを十分に操作しているらしいメイザー卿。中々興味深い関係のようだ。
興味深げな俺の顔を眺めながら、騎士殿は小メイザーを見る。
「分からぬ。
ただ、少なくとも何処ぞの派閥の者ではない、と思う」
「その根拠は」
俺を見る騎士殿。
目を瞑り、そして何かを諦めたのか、それとも覚悟を決めたのか。
「――私の勘だ」
「アレーア……貴方」
「聞け、少なくともこの国の者ではないと、私は思う。
こいつは不審だ、そして怪しい、さらには餓鬼の癖に生意気だ。
そして偉そうだが、少なくとも、少なくとも姫に害を為すことはない、と思う」
二人の近衛は見つめ合い。
やがてメイザーが視線を外し、参ったと言いたげに息を吐いた。
「分かりました、アレーアがそこまで言うのです、一先ず置いておきましょう」
「……我々はそれほど手の込んだ罠を仕掛ける必要があるほどの勢力でもないしな」
「それを言ったらおしまいだろう!?」「それを言ったらおしまいでしょう!?」
声が被る。
というよりも身も蓋もないことを騎士殿は平然と言う。
思いの外、思い切りが良い。
なんというか第一印象が時間と共に化けの皮として剥がれていくタイプというか、
うむ、なんだろうなこのほこっとする気持ちは。
故郷の友人を思い出す。
「で、どうするのです?」
「決まっている、姫に直談判だ」
「言うと思ったが、まあそんなものだな」
情報交換は済んだ。
姫は結婚するらしい。
昨日、騎士殿が襲われて、すぐこれだ。
もし、件の伯爵を犯人とするのなら(十中八九そうだろうが)
畳み掛けてきたのだろうか。
件の伯爵が、騎士殿の主たる姫の信頼を着実に勝ち取ったのは如何なる理由か。
やはり、分からない。
が俺の経験からすれば、多くの人間の行動の原理は欲望の域をでない。
信仰、知識、性、富、地位。
世界が変わっても人は変わらない。と信じれば。
そしてこの世界は前に居た世界と近い部分にあるらしいことを考えるならばなおさら。
「まあ、とりあえずそれで行きましょうか」
取れる選択肢は多くありませんから、と零す小メイザー卿。
「うむ、反応を見て、その後また会議だな」
俺が言い終わるかどうかというところで、騎士殿はついでという調子で小メイザーに質問を浴びせる。
「メイザー、父君は?」
「庁舎の方で執務です。
婚約の儀の手順も、推し進めています、粛々と」
俺は疑問に思ったことを口にした。
「……そのメイザー卿とやらは、……何だ、その、
疑問に思ったりしないのか?」
小メイザーは肩をすくめた、アメリカ人みたいだが、癖なのだろうか?
騎士殿が補足する。
「メイザー卿は子爵だ、騎士位という一代貴族位の、私のような名ばかり貴族でこそはないがな」
自嘲するように言ったが、そこには己への自負も垣間見えた。
騎士位というのは此処でも最低位の貴族なのだろう。
おそらく実力で勝ち取ったのか。
「メイザーの家はな、
そこの小メイザーの祖父と父が勲功多きということでな、その位を授かったばかりの新興の貴族家だ。
メイザー卿はアーバルシュタト様のご母堂レオナシュタト様の近衛騎士長を務め、
遠くの領地、あるいは都市を授かったレーシュ様の代官として各地でその統治にあたった方だ。
シュタトの血筋の守護者とも言われる頼りになる方だが、欠点が一つあってな」
話を聞く限りでは中々大した人物のように思ったが、欠点?
小メイザーも異論を挾んでいない。周知の欠点ということか。
「忠誠の形なのだろうがな、命令に異論を挾まないのだ、メイザー卿は、
勿論な、遂行の上での困難や非合理な点は問いただす上、
命令を受けるときにはその難点も挙げるが……」
嘆息するメイザー。
「父は、一度受けた命令は、直接撤回されるまでは、必ず遂行します。
愚直なのですよ、まさに」
面白い人物のようだった。
忠誠、絆。
騎士。
世界が違えば人は違う、それは当然のことだ、
しかしやはり文化が違う。
俺の生きた時代は、行き過ぎた個人主義とその反動としての全体主義が横行した時代だった。
再び不死鳥のように蘇った、ファシズムの下、世界各地で先進国への戦争や紛争が始まっていた。
マルチチュードなど夢だった。
人は過ちを繰り返す。
循環しながら進む歴史ではない、波のように浮き沈みしつつ進む歴史なのだ。
こちらも殺伐している。
しかしそれでもどこか輝いて見えるのは、
俺が異世界人で、その上老いたからだろうか。
少なくとも愚直な家臣などという存在が、実際に居る世界なのだ、此処は!
「……分かった、ともかくまずは城に向かわなければな」
話は理解出来た。些事にかかずらっている暇はない。
「二〇分後、この屋敷の大広間で集合しましょう」
今すぐ行かないのか?
という俺の眼差しに答えるように騎士殿は扉に歩きながら言葉を作った。
「私の服装をな、少し汚れていないモノへ」
「そして私も正装に……というよりも着替え途中でしたから」
むう、騎士殿も流石にそこは気にするのか、
というよりもメイザー殿はその服装、別に趣味という訳ではなかったのだな……
「貴方が、どのような不愉快なことを考えているかはその表情で分かりますが」
――やめていただけますか?
すまんねぇ。
3
登城の時間。
城と行っても砦と言った方が正しいだろう。
古代の建築物を流用改装したらしい、古くそれでいてどこか趣深い砦。
四階建てか、敷地は今居た屋敷を数戸以上合わせたよりも巨大だろう。
形は無造作にも見える四角型。ところどころに窓。
砦の周りには堀、操作式の橋があり、門番がその入り口を見張っている。
それはいいのだが、問題は俺の隣を歩いているメイザーの格好だろう。
正装――先ほどのドレスの上に、黑い無地のドレスにも似たしかし地味な格好。
胸元を覆い隠す白いエプロンとネクタイ。
黑いふわりとした生地、下に見えるのは先ほどの淡く透けた蒼いドレスか。
コルセットがウエストを引き立て、胸と背筋も恐ろしく綺麗に見せている。
手には肘まで伸びる黑いグローブ。上質なモノと窺えた。
どこからどうみても、これは、
「メイドか……?」
「侍女?」
侍女と聞こえたのか。
しかしどういった原理でこの言葉は変換されているのだろうか?
どうでもいいことか。
俺は、頷いて、メイザー卿を改めて見る。
やはり、どこからどう見てもこれはメイド。侍女。
「ええ、御察しの通りです」
当たっていたらしい。
いや、まさか着替え途中と聞いていたが、
うむ、メイドとはな。
確かにあの格好で、その後どんな姿に着替えるのか、と言われたら容易には浮かばないが。
「メイザーは姫の侍女にして警護だ、ヨシタカ」
「一応侍女は副職、本職は護衛です。
第七姫アーバルシュタトが近衛騎士メイザー・P・ファン・レオーナシュタト・メイザーです。
今後ともよろしくお願いします」
「う、うむ……よろしく頼む、四木義堯だ」
メイドか、いやさ、何故かメイドを見ると胸がどきどきするな、うむ。
若かりしころの話だが、俺が島に住んでいた頃に居たオタク趣味の友人が、
(秋葉原が独立したのが2046年として、2017年の頃だったか、俺が蟄居する直前の頃だったな)
己の熱い想いを、メイドのすばらしさを語っていたのを思い出すな、うむ。
それ以来、俺の人生が一番順風満帆だった頃に、その時の影響かは分からないが
メイド喫茶に通い詰めていた頃があった。
まあ、別にメイドが特段好きという訳ではないのだがな、単なる昔の郷愁だろう。うむ、それだけだ。
「……アレーア、何故この自称老人の子供は、私の方を見るとき目を細めて、心なし嬉しそうなのですか?」
「ぶ、不気味だな、そう悪い顔でもないのだが、今はまるで犯罪者のようだ」
そう言って、騎士殿と侍女殿は俺を不気味なものを見るような目で見てきた。
……不本意だ。
4
ともあれ登城することとなった。
顔パスで橋を渡る。
俺にだけ、門番がやけにガンを付けてきた。
恐らく両手に花であることを羨んでいるのだろう。
「で、どこに向かっているのだ?」
「謁見の間としても使っている大広間です。
このまま中に入って通路を進んで三階にあります」
「階段と通路を幾らか進む。
よく陽の入る部屋だ、今の時間はとくにな。
謁見の間と言うには、まあ少し広い広間といった程度の部屋で、少々不相応だがな」
言った騎士殿を見れば
鎧は先ほどのままだったが、槍を剣に変え、また下履きやその他の衣装を変えたことが窺える。
俺の隣には侍女メイザー、
歩く度にエプロンとシックな印象の茶色の混じった黒色のドレスが揺れるのが目に眩しく麗しい。
俺は変わらず、懐かしい量販店のジーンズとシャツ、そして組織のローブ。
ペンと迷宮のミニチュアは一番取り出しやすいポケットに。
歩いて数分。
眼の前に少し大きな扉。
「それでは入りますよ」
と言う前から騎士殿は扉を開けていた。
怒鳴り込むように、まるでクレームをつけに行く客のような剣幕だ。
おそらく扉を前にして、件の伯爵と婚約への疑念と怒りと不満が思い出され、そして抑えきれなかったのだろう。
猪みたいだ。
「猪みたいですね」
「……うむ」
中に入ると、石畳に燭台、そして広い窓が四つ、殆ど部屋の一面が透けており、
人々の生活が見通せた。
部屋は事前に言われていた通り、さして大きくはなかった。
奧には豪奢な椅子。
長い金の髪、白い清楚なドレス、そして黑いネックレスが特徴的な美しい女が、脚を揃えて座っているのが見えた。
その顔は喜色満面、まさに結婚を喜ぶ新婦の顔で、
疲れを感じさせるはずの隈も、幸せの欠片のように見えてくる。
その顔にあるのは慈悲と聡明さ、なるほど、
「優秀そうだ」
呟きは聞こえていないのだろう。
騎士アレーアは突進というのがふさわしい勢いでその姫の下に突き進む。
その主――確かアーバルシュタト――アーシュと言ったか、
彼女は己の騎士と俺の隣にいる侍女を見て、満面の笑みを浮かべたようだ。
親友が己を祝いにきたと信じているのだろう。
「あらアレーア、聞いたのかしら?」
そう言って彼女は、俺の隣を見てウインクをした。
声には落ち着き、態度から滲み出るのは天性のカリスマか、
なるほど、確かに美しく、賢そうだ。
「姫、婚約の話、真のことですか!?」
が、その柔らかな雰囲気をはじき飛ばすほどの猛烈さで、騎士殿はまくし立てた。
「ええ、本当のことよ」
「っ、あ、相手は!」
「貴方も知っている方よ、アレーア?
とても優しくて、賢くて、強いお方」
悔しげな、あるいは愕然とした様子が、騎士殿の背中から窺えた。
「……伯爵ですかっ」
大きくゆったりと、王族らしく鷹揚に頷く姫。
噛み付くように、躾のなっていない犬のように騎士殿が食い下がった。
「……ハフカース伯爵と姫の婚約の話。
いくら何でも急すぎではありませんか?」
「王政府も了解してくれたのよ?」
――既にそこまで話が進んでいたとは。
隣、小さな声で、侍女が漏らした。
堪えるように、大きく息を吸って、姫の瞳を見る騎士殿。
後ろからだと、彼女がどんな表情をしているのかは分からない。
それでも姫が息を飲み、そして顔の喜色を一寸緩める顔つきだ。
相当に覚悟しているらしいことは、容易にうかがい知れた。
騎士殿は、真っ直ぐで、素直なのだ。
そして真に主のことを案じてもいるらしい。
「その結婚、考え直しては貰えませんか!?」
だからこそ言葉も真っ直ぐになる。
隣、額を抑える侍女。
俺は軽く笑う。
面白い。
そして場は氷る。
険しく顔を変えたのは姫。
見るからに怒りに満ちている。
幸せに水を差されたこと、そして親友に裏切られた心地が彼女を襲っていることは想像に難くない。
「……一体どんな了見なのかしらアレーア」
「姫、私には未だにあの男が信用できないのです」
言い切った正直者
だがそれほどに心配なのだろう。
私も、かつてはあのような忠誠を一人の小さな女に捧げていたのだ。
愉悦が蘇る。
大人しい心地が、あるいは狂乱の色に染まる。
ああ、色々と感情が思い出される。しかしどうにも精神状態がぶれる。
精神年齢と肉体年齢のずれ。
多くの経験と感情。そしてそれを無理矢理に浄化したこと。
狂熱が、そして島でのことが、あるいは平穏だったことが、
どれも昨日のように感じられる。全てが等しく迫っている。
だからこそ、俺の心は不安定にならざるをえないのだ。
「アレーア、不愉快だわ」
姫はよく通る声で、不思議とはっきりと言った。
「ですが、姫、幾つかの考えや推測が……」
「推測も証拠もないの。
あの方のお陰で、国軍――旅団の連中とも上手くやれて。
この街の経済も上向きで、あの人の部下や従士のお陰で、行政も楽になった。
王弟派であったことが気になるの?
それでもあの人が居たからこそ、件の事件も解決に向かっているのではない?
証拠も痕跡も、そして被害も、なにもかもあの人のお陰で助かったのではないの?
貴方が一人では、何もできなかったのよ?
力が無かった私を助けてくれたあの人を、私は疑うことをしたくない。
これらの事が、私には証拠に思える、あの人の好意と高潔さの、何よりのね
おかしいことかしら?」
言い切った姫の意志は固いようだ。
俺よりも背の高いらしい姫は、背筋を伸ばし、やや下にあるアレーアの頭を睥睨する。
「し、しかし、姫様!」
騎士殿が拳を握りしめたのが見えた。
「メイザーも同意見なの?」
「……はい」
「貴方の父は同意してくれたのよ?」
「……それでも、です」
恋は盲目か、こうなっては……
人間の最も厄介な感情は恋、あるいは愛と呼ばれる本能の夢だ。
肉欲という本能的欲求と信頼という理性的行動が、運命的に出会った時に起こる、
男女を問わない盲目性を生むその結合は、人類社会に多くの混乱を生んできた。
この賢く、優しく、人間的に高くあっただろう姫も、
その範疇からは逃れられないのだ。
それが人である限り。
沈黙。複雑な感情が場に渦巻いている。
そして、その時だった。
後ろの扉が開いた音がする。
俺は思わず振り向いた。
合わせるように隣の侍女も。
そして「貴様!」という声から騎士殿も振り向いたのだろう。
「ああ、ハフカース」という声から、姫の眼差しがその彼に向けられていることが分かった。
その白い貴公子然とした男に。
5
白い外套、金糸による獅子の紋様。
内側には白と赤のショーズ。
それをベルトで巻き付けているらしい。
恐らく絹製らしいマフラーに似た装飾具。
ズボンは実戦に赴く騎士が使うような堅実な灰色のブレ。
まさに貴公子、物語――アーサー王物語、シャルルマーニュ伝説、狂乱のオルランド。
数多の騎士が現れる諸処の物語の内から出てきたような、いけすかない男だ。
落ち着いた足取りで、両手を広げながら穏やかな笑みを浮かべている。
顔には無精髭、
あれは俺の元居た世界で、若い頃に一部の若者の間で流行った計算し尽くされた無精髭に似ている。
個人的に気にくわないのはその瞳だ。
深い靑の光彩の奧にちろちろと見え隠れするのは隠しきれない野心の織火。
俺の年齢故に気づけたのか、相当巧妙に隠しているが、まあ、気づく。
警戒すべき対象。
彼は俺たちの隣を通り過ぎ、いきり立った騎士殿の隣を過ぎる。
終始、部屋に入ってから、姫の前に至るまで、
俺たちに一切の目をくれなかった。
あえてそうしているのが見え見えだ。挑発的でもある。
「ハフカースッ!!」
と吐き捨てるのは騎士殿、というか騎士殿、腐っても目上だろうに……。
しかし貴公子は雑音など耳に入っていないという態度である。
「何か話していたようだね、アーシュ」
「……え、ええ、でも別にどうってないことよ?」
恋する少女そのものの、柔らかなのぼせ上がった笑い。
それを見て辛そうに、あるいは痛みを堪えるような表情の騎士。
「っ、姫様!!」
煩わしそうな顔をした姫アーシュ。
それを遮るように、長身の男が、にこやかな顔で騎士アレーアの顔を見る。
「……ああ、こんにちは、アレーア卿」
「そんなことはどうでもいい、それより……」
「ご苦労様、任務はどうだったかな?
怪我もなく、帰還してくれたようでなによりだよ」
報告書は後で、執務室に持ってきてくれないか?と微笑み。歯牙にもかけていない態度を取る。
「それでは……」
言って、姫へと顔を戻そうとした男に俺は声をかけることにした。
というよりも、視界に映っている騎士殿の肩の震え方が半端無いのだ。
このまま背後から切りつけそうな気配すらある。
フォローを。
「部下からのご報告は既に終わったのかね」
男は立ち止まり、こちらへと振り向く。
「君は誰かね」
露骨に、この得体の知れない餓鬼への警戒心を目に出していた。
但し、その顔は相も変わらず笑顔だ。
「何、流れの秘蹟士だ、と言いたいところですがね、
メイザーの血筋に連なる者ですよ」
とりあえず、無位でこんな口を利いたと知れたら、ただじゃ済まないだろう。
咄嗟だったが隣の侍女殿の家名を借りることとする。
ついでにこれで、俺がこちら側だとあちらに示すことが出来る。
隣、メイザーがそれを補足する。
「従弟です、父が養子に取りたいと言っています。本日は挨拶を」
如何にも己が上位に居ることを疑ってもいない、鷹揚な頷きを見せたハフカース。
しかし警戒は隠していない。まあ、明らかに嘘であるからな。俺の話は。
「……メイザー卿、事情は分かった。
ついでに言っておくがね、今度会うときまでに、
義兄君に、口の利き方を教えたほうがいいのではないかね?」
どうせ、後で怪しまれるのだ、こちらから攻めの姿勢を崩す意味もない。
と考えてのことだが、これで正解だったのだろうか?
いや、行動してから考えてもしょうがないことか、むしろ必要なのは度胸なのだろう。
「ええ、了解しました」と侍女殿
「それで君、面白いことを言ったね」
目を細める男。
やはり、気になったのか?
俺を侮っているのか、それとも部下から俺のことについて報告を受けているのか。
「いえ、こちらの勘違いでした。 別人と勘違いしていたようです。気にしないでください。
ただ今度、貴方の家を訪ねて見たいと思いまして、地下に多くの宝をコレクションしていると聞いて」
如何にも窘められたから丁寧語を使い出した餓鬼を装って、
言い訳にもなっていない舐めた言い訳で相手の誰何を逸らす。
この見た目で有り難いのは、こちらの切り札を格好自体で隠し通せることだと思える。
ともあれ、当てずっぽうだが、探りを入れてみた。
そして一瞬この美丈夫の顔が鋭く歪んだのが見えた。
これだけで成果は上々。
後ろ暗い物を隠すのは地下。
騎士殿の襲撃について知っている素振りを見せて、
後ろ暗いところを突く、いやまあそうやって言えばカッコイイが、
やってることは、猿でも出来るような簡単な挑発だ。
そんなものにも反応するとは、この男、相当に後ろ暗いと見える。
まあ、これで……今、出来ることは最低限行えただろうか。
幸い、傍から聞いて今の会話は普通の会話に聞こえた筈だ、表面上は。うん多分。
……いや、露骨に怪しい気もするが、気にしないでおこう。
俺は頭を伏せて、膝を地に付けて、姫とその結婚相手に挨拶をする動作を取る。
文化が違う可能性もあるが、これだけやればとりあえず礼儀は伝わるだろう。
隣でそれに会わせるように侍女メイザーも似たような動作。
ふむ、とりあえずこの西洋式の身振りで大丈夫だったようだ。
騎士殿も、このまま食い下がっても姫の心証が悪くなるだけだと悟ったか。
苦い顔をしながら姫へと頭を垂れた。
……
…………
数秒の後、隣のメイザーが顔を上げたので俺も同じように上げる。
まあこういうのは見よう見まねでどうにかなるのだ。
見ると、先ほど一瞬だけ崩れに崩れた仮面を見事に被り直した男と、
最も祝って欲しいと考えている者に祝ってもらえなかったことへの、
複雑な感情を隠していない姫がそこにいた。
「では、諸君、我が愛しの姫君の友人諸君。
婚姻の儀は一週間後。
是非来てくれるかい?
場所はカッセン中央託宣所を予定しているよ」
笑う男の目は笑っておらず。
そして少し先で床に膝を立てている騎士殿の、喰い殺さんばかりの形相が印象深かった。
主人公蟹病
主人公が蟹化していく。
まあどうにか違いを出そうとしているので、似ていないところも多いのです(と思いたい)