プロローグ
悔やんでも悔やみきれないことは多い。
ならそもそも悔やまなければいい。
1
目が醒めたら異世界だった。
いや異世界のようだった、多分異世界であろう。
意識の醒める直前のことを思い出す。
……
…………
空白。
何もない。
その瞬間、己が恐ろしく空虚な存在のように感じられた。
ここはどこだ、ここはどこだ。
空を見上げれば、日本と同じような月。
冷たい玉兎。
厳かな月の神。白い無慈悲な女王。
己の手を見る。ある。
足を見る。ある。
肩もある。目もある。耳もある。舌もある。
何もかもは変わらずあり、しかしなぜか俺は、
そう何故か、ここが異世界だと直感している。
月は変わらないのに、此処には妹も、愛すべき友人も、姉も、両親も居ないことが確かだ。
記憶はないのにそれは確かなのだ。
見渡せど見渡せど満天の星空、深い蒼の天空にはこちらを舐めるように顕在している月。
女王のように厳かな空。寒い。風が、風が寒い。
認識に齟齬はない、五感も、五識も健在だ。
己の生命の鼓動は確かにある。
しかしおかしい、ここはどこだ。
森は深い。闇が深い。
俺の名前は、四木義堯
孤島の名門。四木家の嫡男。
齢は幾つだったか、定かではない。
家族は居る。いや居た? だがここにはいないことは確かだ。
幻想のような心地。
どうみても現実としか思えないこの世界。
しかしやはりここは現実ではないのだ。
うっすらと思い出す。
齢を家族を己を。
しかしわからない。
現実感の喪失が、己自身への認識さえも喪失させたのか。
わからない、
ただやはり、やはりここは現実ではないのだ
俺の心の内の何かがそう叫んでいた。
歩く。
ともかく歩こう。
肉体を使わずに地面が動くことはない。
地動説であれ天動説であれ、それは変わらない。
この世の真理に最も近い論理だ。
歩みがなければ、世界は進まない。
こんなことを考えていると知られたのなら、
また、同志たちに何かを言われるだろうがな。
しかし混乱しているのだ許せ、許せ友よ。
歩いて、この深く、おどろおどろしい原始の森を歩いて進もう。
進もう。
2
泉。
自然の鏡。
白色の光を湛える、地上の月。
森の囲いの内には、泉がある。
泉にあるのは何か?
清麗な泉には、神が住む。
アルテミスが身体を洗うのも湖でのことだ。
いや河だったか?
ともあれ、
ここはどことも知れない森と月の世界。
つまり神の世界なのかもしれない。
歩いて歩いて、幾時も過ぎた。
しかし景色は変わらない。
まるで迷宮のようだ。
それでもこうして泉は現れた。
進めば進めば、なにもかも変わらないということはない。
ダンテが神曲の内で、進むことにより出会い、別れ、喜び、絶望したように。
深い森は、地獄を思わせる。
そして現れたのが、この清浄なる地上の楽園、泉の泉。
水の水。月の月。光の光。
その至高の泉の中心に神が居た。
己の身体を、洗うは神、神秘なる月の具象。
白い肌、なめらかな肌、雪のような白。
瞳に溢れた慈しみは、しかし同時に厳かさを内包する。
俺は思った。
これは神だ、と。
いや、人ならざる何か、であろうか。
「ようこそ、ヨシタカ」
「こんばんは、美しい神」
年齢を人間と比較することが許されるのなら、
およそ年の頃は一〇代の後半という所か、
銀に輝くその神。文字通り神たる顔貌、それに見合った清浄な声。
月と、泉と、森と、神。
そして一本の葦
「ヨツキヨシタカ、貴方は何故ここにいるか分かりますか?」
「分からん」
「貴方は死んだのです」
「ほう」
面白い、と俺は鼻を鳴らした。
一切無表情のまま目前の神は、言葉を続ける。
滔々と語り続ける詩人のように。
「ヨツキヨシタカ、貴方は罪を犯しました」
「人を殺したことか」
「それもあります。
貴方は母を犯しましたね」
「ああ」
「妹を、姉を、弟を犯しましたね」
「ああ」
「全ては私の眼の内にありました。
貴方は秘されるべき魔導を使って、多くの人草を殺めましたね?」
「ああ」
「潔いことです」
「魔導とは使うものでしょう?
そして俺は、俺を抑えきれなかった。
だから……だから?」
「貴方は殺されたのです。
ヨシタカ。惨めな悪として、強者に嬲られこの地へと送られました」
そうか、そうだ!
俺は悪人だったようだ。
そうだ、この神の言うとおりだ。
俺は殺された。そして殺した。
いや、殺したから殺されたのか?
分からない。
ただ俺の故郷、地球は科学の発達した社会だった。
それに反逆するように俺は……
「魔導勢力を指揮し、神の名を騙って、世界へと反逆した?」
「そうです、思い出しましたね、ヨシタカ。
罪あるヨシタカ。腐った草。
貴方は我々神の詮議において、魂の永久追放が判断されました」
「抹消ではないのか?」
「貴方を、我々神は評価しています」
わからない。
目前の神秘なる神。
それを俺は殺せるだろう。
しかし、嘘のように、あの狂気と、あの憤激が俺の中から抜け出ている。
それゆえ俺はこの聖なる存在へと触れようとは思わない。
「ヨシタカ、貴方には力がありました。
しかし貴方の環境と貴方の家の因習、
貴方自身の才が、貴方を深淵へ落とし込み、怪物へと変じさせました。
それでも、貴方が一切、軸を変化させなかったことがあります。
それは神への愛。
純粋なる思念。一念。
悟りとも解脱とも、あるいは放下とも離脱とも、
そういった神秘体験への渇望を貴方はあの狂気。
無数の人間の命を燃やすこととなった地獄の中でも捨てませんでした」
――そこを、我々神は高く評価しているのです。
「ほう、そうだったか、いやそうだったかもしれないな。
……しかし、記憶が無い、違う、いやに薄いのだがこれは?」
「魂を洗ったのですよヨシタカ。
人草。貴方の転生は、不可能です。
そして天にも、地獄にも有害と判断されました。
そのため貴方は我々の世界から永久の追放を受けることとなります」
「わかりやすい、そしてそれは俺の好みだ」
「ヨシタカ、貴方は危うい、それでも圧迫もなく、しがらみもない世界で、
私は貴方が正常に生きることを希望しています」
「神の希望か、重いものだな」
この神は、神だ。
神としか考えられない程に極まって傲慢。
なんともはや
「俺は多くの人間を殺したのだぞ?
そして盗みもした。犯した。
俺の手で、赤子は心臓を爆発させられた。
数多の家屋は燃え墜ちて、そこで同性がお互いを犯し殺しあう呪いをばらまいた。
無数の女性が永遠に悪夢の生物に犯され続けるようにもした。
妹の四肢を切断して、それを連れ回しさえした。
そんな俺の許すのか?」
「現世、実態において貴方がいかなる罪を犯そうが、それは私たちには関係ありません。
人間よ、愚かで自惚れた人間よ。
この上なく傲慢で矮小な存在よ、聞きなさい。
神から見れば、貴様らは、一匹の蟻と、一本の土筆と、一匹の鼠と、等価です。
貴様らの驕りは、なんの意味も持ちません。
ヨシタカ、お前が、殺そうが、犯そうが、それは我々神には一切どうでもよいことなのです」
「……さすが!」
俺は笑う。
目前の神なる者は、薄く笑った。
「貴方の本質的な罪はただ一つ、人の分際でありながら。
無数の魂を、神々の持ち物にして、あの偉大なるアッラー、ゴッド、ヤハウェともエホバとも呼ばれた。
かのお方の一部を弄んだことに他なりません。
貴方の魂を浄化したいほどの怒りに我々神は駆られたのも、そのためです。
逆に言えば、それだけです。
そしてその罪も、貴様の一心な神への指向により減じましょう」
「俺が言うようなことでもないのかもしれんが、うん。
不平等ではないか?」
「ハッ! 神にとっても貴方は記憶に残る存在だったということですよ。
近年の、あるいは20世紀の無数の魔導士の残念を書から引き出すブックマスター。
ヨツキヨシタカ、貴方は喜びなさい、神の、我々の視界に入り、認識されたことを」
「傲慢だな」
俺は笑った。
月が明るい。
目前、全裸の神は、滔々と語り続けている。
流れる水。河の蠢き、森の鼓動。
それらと同じような速度で、そして俺に語りかけるように。
「傲慢でなく、なにが神でしょうか?
神は傲慢なものですヨシタカ。さてそろそろ時間が近づいてきましたね」
――何か質問でも?
「俺はこれからどこに行くのだ?」
「そうですね、異世界、我々が管轄する世界ではない事なる時空の星、あるいは宇宙でしょうか」
「そこに神はいるのか?」
「います、我々の位階に相当するものが異なるだけなのです。
至天におられる無と有の王たる、我らが一なる神は変わらずあります。
ヨシタカ」
「ならばいい、それで俺は転生するのか?」
「いえ、貴方の存在そのまま、あちらへと送ります。
あちらの世界で、貴方は第二の生を送り、死後、その世界で審判を受けることとなります」
「追放されるのではないのか? 俺は」
「魂は二度とこの世界へと回帰することはありません。
が、察しの通り、罰であるかどうかと問われれば、否定するしかありません」
「罪に罰がない?」
「貴方はやり過ぎたのですよヨシタカ。
今度はやり過ぎないように、彼の地の神々が判断を下せる段階に留まって生きてくださいね」
「違いは?」
「物理法則、社会形態、国、歴史は異なります。
が、地理はかなり似ていますね。
こちらの世界の人類の歴史でいうところの西洋近世、及び中世、古代、そして近代が奇妙に混交した状態で。魔導が世界の主流を担っています」
「法則は? 同じなのか?」
「魔素詠唱、紋章、刻印、修錬、個々人が理論を追求し、世界へと現す一切のプロセスに相違はありません」
「そうか」
一息つきたい気分だったが、泉が輝き、光を放ち始めたのでそれも無理だった。
俺は、神を見て、頷き、そして、最後に言葉を作った。
「有り難う、ツクヨミ。
ついでに言えば股間は隠せよ」
「大きなお世話です。
貴方たちの粗末なモノと比較しないでください。
ともあれ、よい生を」
よい気分だった。
悩みも、しがらみもない世界。
俺の望んだ世界だ。
あの檻のような島。
檻のような俺の部屋。
せめてもの餌。
慰めのつもりらしい、その無数の本。
皮肉めいた笑みを浮かべた己の姉。
この手で殺めた妹と弟。
虚空へと消えた父と母。
俺を覆う狂気も、
俺が失った世界も、
なにもかもが無い。
「新天地か、どうにもな」
罪を負った俺にとって、いくら何でも都合の良すぎる話だろう。
神の寵愛が、敬虔さではなく、過激さに生まれるなどと。
故郷の連中や、教会の連中が知れば、失神を越えて顔を青く染め上げるだろう。
ともあれ、俺は、再び、世界を生きることなった。
今度の目標はただ一つ。
己を狂気に落とさず。
せめて善く生き、そして神への祈りを捧げ続けること。
さあ、生きよう。