王女様と犬
「どうぞ私を貴女の犬にしてください」
そう言って男は膝をつき、頭を垂れた。
艶やかな金色の長髪が光のようで、思わず目を細める。引きこもりには眩しすぎた。
彼のことは知っている。近年、王都の女性たちを虜にしているともっぱらの噂だ。
もっともそれはあくまで噂を聞いたということであり、もっと言えば、侍女たちのよもやま話をこっそり漏れ聞いたものなのだが。
ナターリエは、王女でありながら王女として扱われていない。
正式な側妃となる前に命を落とした母親は、異国から迷い込んできた難民だったという。第三夫人が近くに置いて庇護していたところ王の手付きとなり、ナターリエが生まれたらしい。そんな出自のため表舞台に立つ機会は少なく、侍女たちの噂話が貴重な情報源であった。
さておき、差し迫った問題は、この男のことである。
剣を持てば、王族を守護する近衛騎士を打ち負かす武力。口を開けば、宰相候補と謳われる文官と渡り合って言い負かす弁舌と知識。
綺羅星のごとく現れた麗しの貴公子、シメオン・パウロ・スロースは、あらゆる意味で近くに置いておきたいと思わせる魅力を持った人物なのだ。間違ってもこんなふうに、日陰の王女に傅く者ではないはず。まして、犬を自称するとは。
犬――つまり、忠実なる僕。
高位貴族のもとで手足となって仕える者をそう呼称することはままあり、腐っても王の血を引くナターリエに取り入ろうとする者がいないとはかぎらない。唯一の味方といえる腹違いの兄・イグノークからは「おまえを護ってくれる従者を探す」と、たしかに言われてはいた。
しかし、だからといってこんな優良物件が出てくるのは想定外。兄の周辺にいる騎士を一人、ナターリエのために派遣してくれるのだろうと思っていたので、これはなにかの間違いではないかと疑いたくもなる。もしくはナターリエの知らない別の隠語が存在する可能性。
「あの、犬、とは?」
おそるおそる訊ねたナターリエの言葉に、男は面をあげる。
美貌の中でも一際目を惹く碧眼。光の加減か、左右で微妙に色味が違って見え、その美しさに心臓が大きく脈打った。
男の薄い唇がゆっくりと開き、美声が耳を打つ。
「靴を舐めろというのであれば喜んで。貴女のすべてを受け止める栄誉をどうかこの私にお与えください、ご主人様」
「チェンジで」
別の意味でも想定外だった。
◇
顔が美しい人物は、美しすぎるがゆえにどこか歪んでいるのではないかと常々疑っていたナターリエであるが、どうやらそれは真実だったようだ。
女性たちに名を囁かれるわりに、浮名を流しているとは言い難いシメオンは、非常に残念な性癖の持ち主であるらしい。
お断りします、いいえどうか何卒。
そんなやり取りをしばらく続けたが、ついに押し負けてしまった。ナターリエ、一生の不覚である。
「あの、シメオン様。どうか座ってください」
「王女殿下を前にそのような失礼はできません」
「貴方はとても背が高いので、なんだか見下ろされているようで居心地が悪いのです」
ナターリエが過ごすこの部屋は、王宮の端に位置している。二部屋あるとはいえ、寝台ひとつを置いて精一杯の寝室と、あとは日常を過ごすための部屋があるだけの簡素な造り。筆頭侍女のほうがもっと広い個室を与えられているのではないだろうかという大きさでは、壁を背に立っているシメオンの姿は監視と同義である。威圧感がすごい。
「それは気がつきませんで、大変失礼をいたしました。では地に伏せて――」
言いながら亀のように床に這う態勢を取り始めたので、あわてて駆け寄った。違う、そうじゃない。
「そうではなくて、普通に、椅子に、座っていただければ、それでよいのです」
「ご命令とあらば」
どうして椅子に座るというごく自然な行為を命令する必要があるのか。
どこまでも控えめ――もはや卑屈ともいえる言動に苛立ちを覚え、ナターリエはつい言ってしまった。
「おすわり!」
「はい」
花のような笑顔とはこのことか。
なんだか本当に臀部にふさふさのしっぽが揺れたように感じ、ナターリエは頭をおさえる。これでは本当に犬ではないか。
犬は好きだ。
ひっそり引きこもって育った幼少時。庭に迷いこんできた犬と遊んだことがある。いつのまにか姿を見せなくなってしまい、とても寂しかった。
特段、探すことをしなかった理由は、哀しい結果を聞きたくなかったから。
駆除したと、はっきり告げられたら自責の念にかられただろう。
ナターリエが声をかけなければ居付くこともなかったであろう子犬。引き留めたせいで存在を知られ、城内の治安維持のために排除されたのだとしたら、犬を殺したのはナターリエである。
ひさしぶりに子犬のことを思い出し、すこしだけ寂しくなる。
またあしたね。
その約束が叶うことなく別れてしまった、可愛い子犬。
あの日から、ナターリエは『約束』が怖い。
「ああ、その溜息ひとつですら、虚空に放つのが惜しまれます」
そんなことを言って吐息を漏らすシメオンに、今度は別の意味でもって大きく息を吐きたくなった。
ナターリエはひとまず彼に立ち上がってもらい、自身が腰かける椅子の対面に座っていただく。立ち姿もさることながら、座った姿も非常に絵になる男だ。悠然と、泰然とした態度は、上に立つ者の風格さえ感じさせる。
(もう、本当になんなの、このひと)
噂によれば、シメオンは他国の青年。我が国の爵位は持っていないが、とある高位貴族の後見を受けているのだという。ただ背後に誰がいるのかは明確にされていないため、出自をあやしむ者は少なくない。
巧みな話術と身のこなしは短期間で身につけたにしては洗礼されており、じつは隠居した誰かの落とし種ではないのかと囁く声も増えているとか。
目前で微笑む男を見ると、あながち嘘ではないのか。そう思えてしまうぐらい、彼はナターリエよりも遥かに『ひとの上に立つ者』だった。みそっかす王女は非常に肩身が狭い。
国内の令嬢たちが最低でも十六歳までにはデビューを迎えるなか、ナターリエは十八歳になっても表立った公務はおこなっていない状態。異母妹は十四歳でお披露目され、その愛らしさは周辺諸国にも広まっているのとは大違いだと、あからさまに蔑む声は日に日に大きくなっている。
噂に疎いはずのナターリエがそれを知っているのは、噂だけは耳に入ってくるからに他ならない。こと悪い噂というのは、明確な悪意をもって本人に届くものだ。
「それでですね、あなたを雇用するか否かなのですが、わたしには予算がついておらず、個人で動かせるお金がほぼありません。そのため給金が払えないのです」
「聞き及んでおります」
王族には国庫から一定の金額が支払われる。それを使って何をするかは個々の裁量に委ねられており、女性は自身を飾る宝飾品に使うことが多い。王族ともなればそれなりの装いが必要だし、同じものを何度も着まわすというわけにもいかない。お抱えの商会を持ち、年に数回ドレスを作るのだ。御用達の看板を得られる商会にとっても大きな利があり、王女が誕生すれば売り込みに列をなすらしい。
(まあ、わたしにはそういうのはないんですけどね!)
予算がまったく付いていないわけではない。このあたりは兄イグノークが尽力してくれたおかげだ。けれど、体面のために用意されたというか。王女にきちんと支払っていますよ、という実績を書類上で作っておくためのものなので、金額についてはお察し。たぶん、ナターリエの異母姉妹である王女付きの侍女、彼女たちの年俸より低いのではないだろうか。いや、詳しくは知らないが。
「ですが、貴女は裏できちんとお金を稼いでいらっしゃる」
「なぜそれをご存じで」
「イグノーク殿より」
「ああ、お兄様が。なるほど」
ナターリエのお金稼ぎとは刺繍だ。正確には、その刺繍によって生まれる効果。
どういった理由なのかは自分でもわからないが、ナターリエが刺した文様には不思議な効能が付与されるのだ。
たとえば騎士のマント。護りを意味する文様を刺すと、飛んできた矢程度ならば弾いてしまう。刺繍を重ねると効果は倍増し、剣で斬りつけられたところで肌まで到達しないほど強靭さを生む。
ハンカチーフに治癒を刺せば、切り傷なら癒やすし、傷口に巻いておけば、それ以上悪化しない。
女性向けのドレスには魅力の効果が付与されるのか、片想いの殿方に声をかけられたとか、不仲だった婚約者との距離が縮まっただとか、まことしやかに噂が流れる。
もとはイグノークのために刺繍したマントが彼を凶刃から救ったことで発覚し、以来ナターリエは秘密裏に仕事を請け負っているのである。
正体不明、不可思議な効能がある刺繍。
そんなことができる人物に仕事を頼むひとなんているわけがない。
(って、思ったんだけどねえ)
王子であるイグノークが厳選し、彼の周囲の少人数から噂を広げていったおかげか、仕事は途切れることなく続いている。
窓口は基本的にイグノークで、ナターリエの名前が出ていないこともあるのだろう。イグノークは国外の貴人と親交があることも知られているため、おそらく刺繍職人もそちらの伝手だと思われている。
我が国では廃れてしまった『魔法』の力を保ち続けている国、そういったところの人物なのだろうと推測されているらしい。よもや、自国のみそっかす王女の手によるものだとは想像だにしていないことだろう。
「ですが、それもほどなく終わることでしょう。陛下が病床についていることが露見したと聞きました。我が国自体がもうおしまいです」
「それはまた悲観的なことをおっしゃる」
「シメオン様はどこまでご存じか分かりませんが、我が国は周辺諸国からの評判はよろしくなく、王族は蛇蝎の如く嫌われております。例外はイグノークお兄様ぐらいなもの」
血縁上の父である国王は酒池肉林を愛する男で、その子どもたちもわりと享楽的な性格を引き継いでいる。見目だけは良いものだから、言葉巧みに騙される者も多く、国の上層部は王子王女のしでかした失態に対する補填に頭を悩ませる日々。一部の貴族は、そのおこぼれに預かるべく殿下方に擦り寄り甘やかすものだから、負の連鎖は止まらない。
こう言ってはなんだが、シメオンが社交界で名を馳せることができたのも、顔がいいからだ。外見の良い男を連れているだけで、自身の価値も上がると信じている連中ばかり。国の上層は腐りきっていた。
イグノークだけが例外なのは、母である第三夫人が他国の王女で、あまりにも情操教育に悪いということで、幼少期からこっそりと自身の国へ子を派遣していたからだろう。放置された王女のナターリエを案じてくれる、優しい気質の義兄。彼こそが次代の王に相応しいとナターリエは思っているが、現陛下の腐った政権に慣れきっている者にしてみれば、まっとうな為政者なぞ目の上のたんこぶ。上はボンクラであって欲しいのだから、イグノークには敵も多かった。
「爛れたお仲間貴族たちはともかく、お兄様にはお兄様の人脈もありますし、支持してくださる当主もいらっしゃいます。細々と繋いできたすべての縁が身を結ぶ可能性はおおいにあるかと思います」
「それは素晴らしいことですね」
「はい。なので、シメオン様はむしろイグノークお兄様に付いて力添えいただければと」
「私は貴女の犬ですが?」
認めた覚えはありませんが?
間髪入れずに返ってきた言葉に、思わずナターリエも胸中で返す。
本当になんなのだろう、この異様ともいえる忠義は。
イグノークはシメオンになにを伝えたのだろう。これから国が荒れるであろう中、妹を護ってやって欲しいとでも言ったのだろうが、単に『王女の護衛』を任せただけとは思えない扱い。いや、この男の考え方がちょっとおかしいだけ、という説もなくはないが。
「もしかして、恩返しをしようとか、そういう系のお気持ちですか? だとしたらお門違いですよ。わたしのそれはただの手仕事ですし、お兄様がどなたにお渡しするかまで把握していませんので」
シメオンが羽織っているジャケット。その袖口に施されている刺繍は、ナターリエのそれだ。補強のために重ねて縫われた布にある刺繍には見覚えがある。何に使われるのかまでは聞いていなかったけれど、ああいうふうに使うのかと、新しい知見を得た。
それ以外にも、首元を飾るネクタイ。長い髪を結んでいる飾り気のないリボン。
どれもナターリエの刺繍が入っていた。
守護、治癒、魅了――幻惑?
うっかり目を細めて凝視してしまったとき、シメオンが艶やかな笑みを浮かべた。
「ご推察のとおり、私が身にまとっているのは貴女の魔法が込められた品々です。つまり私は今、貴女に包まれているといっても過言ではなく、ああ、なんと尊いのでしょう。ご主人様の手が私の体を撫でさすり、可愛がってくださっていると同義」
「そんなわけないでしょ」
やっぱり駄目だこの男。おかしい。
全力でお断りしようと試みたのだが、弁の立つことで評判のシメオンを言い負かすことが、社交性のない王女にできるわけもなく。ナターリエ付きの護衛という立ち位置に収まることになってしまった。解せぬ。
◇
ナターリエは王城に部屋はあるけれど、もともとは妃付きの使用人たちに与えられた休憩室である。そのため、王族の私室からは離れた場所にあり、ナターリエのためだけにわざわざやってくるメイドはいない。
母は出産後に亡くなったらしく、イグノークの母である第三夫人のもとで、ナターリエは育っているのだが、第三夫人は他国の出。我が国における立場は低いため、我が子を護るのでせいいっぱい。ナターリエはひとりで食事がとれる年齢になったころ、彼女たちから引き離された。子犬に出会ったのもたしかそのころで、ずいぶん依存していたようにも思う。
犬と別れて孤独になったが、ある意味、そこで踏ん切りもついた。
すなわち、『泣いていてもどうにもならない』ということ。
行動範囲を広げ、歩き回ってみた。質素な子ども服を着ていたせいか、王女だとは誰も思わず。使用人の子どもだろうと判断され、ごはんをもらったり、お菓子をもらったりするようになった。
十歳を過ぎるころには、城の使用人たちに混じって食事をしていた。メイド服を手直しして着ていると、『城に上がったばかりの新米』と見分けがつかないらしく、さらに自由度が広がったのだ。
なお、当時イグノークは母の故郷を中心に他国へ留学していた。母親と入れ替わる形でこちらへ戻ってきた彼はナターリエの生活に驚き、謝罪。王女として最低限の立場と生活を確保されるようになったが、ナターリエとしては「以前のほうが楽だったな」と思わなくもなかった。
さらに今は、シメオンが傍に張り付くようになったため目立つ。とにかく目立つ。ナターリエが、というよりは、シメオンが目立つので、その傍にいる地味な娘なぞ埋没しそうなものだが、キラキラした美青年が丁寧に扱うため、「なんだあれ」と目立ってしまうのだ。勘弁してほしい。
「あのー、シメオン様。なにもそんな四六時中張り付いていなくともよいのではないかと思うのですが」
「おかまいなく。あと私のことはどうぞシメオンと呼び捨てください」
「いや、貴方がかまわなくても、わたしがかまうんですが」
「なんとお優しい。私のことをかまってくださるのですね」
「かまうの意味が違う。べつにかまってないですし」
「放置プレイもまた良いものですね」
駄目だこの男。やっぱり変態だった。
甲斐甲斐しく世話を焼きたがるシメオンに辟易するナターリエは、すっかり気疲れしていた。
放置プレイという意味では、ナターリエこそ放置されて生活してきた人間だ。おひとりさまに慣れきっていたので、誰かがずっと近くにいる状況に落ち着かない気分にさせられた。
これまで義理の姉妹である王女殿下らが、見目のよいどこかのご子息を侍らせているのを見てきた。エスコートというには距離の近い、ベタベタとした触れ合いは息が詰まりそうだなあと常々思っていたが、シメオンといる空気感は悪くない。むしろ、これまで飛んできていた嫌な視線や悪意の声が激減している。これはおそらく、シメオンがいるからだろう。
社交界でも名の知れた新進気鋭の異国の美青年を敵にまわそうという者は少ないようで、彼の耳に口汚い罵りの声を聞かせないよう自制しているのだろう。こと女性陣の変わりようは見事なもので、ナターリエの部屋に毎日メイドが訪れるなんて、幼少期以来のことである。
運ばれてきた菓子やお茶。毒でも入っているのかと疑いたくなったが、シメオンは皿を手に取って匂いを嗅ぎ笑顔になる。
「問題ございません」
「毒見じゃないんですね」
「私、鼻がいいんです。犬ですし」
言ってシメオンは、焼き菓子に使われているという調味料を挙げていく。それが本当に合っているのかわからないけれど、食べてみたそれにはたしかにそんな風味も隠れていた。ナターリエの鼻では決して嗅ぎ分けられないわずかなものであり、鼻がいいのは間違いない。料理人にでもなればいいのに。
ナターリエの周囲にひとが集まってきた。
それがナターリエに好意的であるか否かは関係がなく、『第三者の目が常にある』ことこそが大切だった。
きっとイグノークが狙ったのはそれなのだろうと、ナターリエは考えるようになっていた。
つまり、いよいよ陛下の命が危うい。
己の金は己の物。がめつい国王は明確に次代を定めてはおらず、命の灯が消えようというときになっても、いやだからこそなのか、後継者について言及していない。
となれば起こり得るのは醜い争いだ。
どうせ国王は誰も指名しないのだから、我こそが王に相応しいのだと名乗りをあげ、認めさせるしかない。
金で官僚たちを抱き込むか、対抗馬の存在自体を消してしまうか。
というか、もっとも消しやすいのがナターリエだろう。存在感の薄い王女がいなくなったところで誰も気にしないのだから。
だが、ここにきてナターリエは脚光を浴びた。誰の手も取らなかった孤高の美青年が、ナターリエに心酔している図は異様であり、急速に存在感を示し始めている。
あの王女に手を出すということは、シメオンを敵に回すということ。
謎めいた出自の男に、おいそれと手は出せない。
(そう考えると、お兄様の騎士を護衛にお借りするより、シメオン様のほうがいいのかもしれないわよね。死人が出ないという意味で)
そのイグノークはといえは、最近あまり姿を見かけない。兄姉たちが争いの最中に口汚く叫んでいる内容から察するに、国外に出ているようである。
あいつ逃げやがったと笑う第一王子には悪いけれど、それは絶対にないだろう。
この先を思い、周辺国にお伺いを立てているのだろうと思う。もしくはご相談。
さすがに陛下を討ってくれとは言わないだろうけれど、そのための助力ぐらいは乞うているかもしれなかった。
とすれば、ナターリエができることはひとつ。
兄の無事を信じて待つことだけだ。
祈りを込めて針を刺す。
定期的に様子を見にくるイグノークのメイドに刺繍を渡し、代わりの布を受け取る。最近はもっぱら『守護』の意味を持つ文様が多い。治癒ではないあたり、これが国王に渡るものではないと知れた。もっとも名ばかりの父に対して、延命を願う気持ちは薄い。多くの民がそうであるように、早く政権が交代することを祈るばかりである。
◇
その日は唐突に訪れた。
王が崩御したのだ。
もともと残りの日数を数えていたぐらいの病状であり、そのこと自体は驚くようなことではない。
誰が王位に就くのか。
その争いがついに表面化し、王宮内は殺伐とした空気に満ちることとなったというわけだ。
王の候補は四人。正妃の息子である第一王子、第二夫人の産んだ双子の王子、そして第三夫人の息子イグノーク。
王女には継承権がないため、ナターリエの異母姉妹たちは嫁ぎ先を求めた争いを始めているのだとか。
国内の高位貴族男子たちは、対応に苦慮していた。王女を娶れば地位は手に入るが、どの王女を選ぶのかによって今後の扱いが大きく変わってしまうからだ。即位する王子の姉妹でない場合、国内における地位は失墜するといっても過言ではない。
王が実際に亡くなるまで、次代が決定していないというのが一番問題であるが、自分本位な国王である。己が亡くなったあとのことなど、知ったことではなかったのだろう。父王の悪い部分を見事に引き継いだ兄たちもまた、自分以外の兄弟など知ったことではない。
王宮の端にあるナターリエの私室は閑散としていた。後見人となるイグノークの身は未だ他国にある。不在である今のうちに国王の座を確かなものにしてしまおうと、残る王子たちは争っており、ナターリエはすっかり『どうでもいい』王女に成り下がった。
(うーん。どうしたものかしらね。いっそここから逃げようかしら)
使用人のお仕着せ姿になってしまえば、ナターリエだとは気づかれまい。正妃と第二夫人、どちらの陣営に与するかを決めかねて王宮を辞去した者も多いというし、大量退職の波に乗ってしまえば、身元もバレにくいと思われる。
幸い、ナターリエには刺繍という特技がある。そこに込められる不思議な効果を抑え、ただの裁縫上手な娘を装えば、どこかで雇ってくれるだろう。これから新たな国が始まる時期、ドレス需要はかなり高まる。
ナターリエの姿が見えなくなったところで、誰が困るわけでもない。イグノークがいつ戻るかわからないが、頭のいい彼のこと。いっそ亡命をと考えていても不思議ではない。母親である第三夫人は己の祖国へ戻っているし、いつだって息子を歓迎するはずだ。義兄は優しいので、いつかはナターリエも呼んでくれるかもしれない。それまでの辛抱だ。あとは――
(シメオン様、どこに姿をくらましたのかしら……)
うっとうしいほどに傍にいたシメオンは、国王崩御の前後から、姿を見ていない。王族ではない、王宮に勤めているわけでもない彼は、王宮に立ち入ることは難しいだろう。異母兄たちはかなり警戒しているので、見知った者以外の顔を排除している。
今の王宮はある意味では手薄なのだ。味方であるとわかっている馴染みの兵のみを配置し、身を護らせているらしい。
そういった意味でも、逃げるなら今がチャンスという気もした。
どうせここに未練などない。ナターリエにとって王宮は、ただ屋根があって寝泊まりができるというだけであり、執着するような場所ではなかった。
良い思い出もたいしてない。嫌なものばかりが残っている。胸に抱えていける素敵な思い出は、イグノーク。そして、一緒に遊んだあの子犬。
そうだ。自由になったら犬を飼おう。
ナターリエは思った。
そのあと、自分を犬と呼べと強要する男のことが頭をよぎり、複雑な気持ちが湧いてくる。
あれもまた思い出といえばそうかもしれない。家族以外で初めて長時間接した異性。今後、あんなひとには出会わないだろうと断言できる。
良し悪しはともかくとして、振り返れば不快ではない生活だったかもしれない。ナターリエを王女として尊重してくれたのは、イグノーク以外ではシメオンだけだった。
ドン――と、どこかで大きな音が響いた。わずかな振動もあり、怒号のような声が近づいてくる。
ナターリエは窓の外を見た。陽光に光る鈍色の鎧をまとった集団が雪崩こんでいて息を呑む。
(クーデターだ。ま、そうなってもおかしくないわよね)
圧政を敷いた王が亡くなったかと思えば、民を案ずる声明もないまま、今度は次の王になるため兄弟が争っているときた。こんな王族に任せていては生活が立ち行かないと、憤って当然である。
困った。こうなっては逃げられない。国民にとって王族は全員『自分たちを蔑ろにしている高慢ちきな一族』だろう。名ばかりの王女であるナターリエだって、その一員だ。我儘放題だった異母姉妹たちの評判もよろしくないので、『王女憎し』の感情もあるはずで。
(うーん、詰んだ。わたしの人生、ここで終わったかなあ……)
鎧がこすれるような音が近づいてきた。
礼儀正しいことに扉がノックされる。
「どうぞ。鍵なんて掛かっていないわ」
ナターリエは椅子に腰かけたまま、達観したような声で入室を促した。扉が開いてまず見えたのは、美しい金色の髪。
「ご無事でしたか、我が姫」
「……シメオン様? その御姿は、まさか貴方がこの進軍の長なのですか?」
そういえばシメオンは国外の人間だったと思い出す。
正体不明の美貌の青年は、他国の間者。この国を斃す機会を狙い、王宮に入り込んでいたのだとしたら、まあ納得もいく話である。ナターリエの傍はたしかに仕事がやりやすかったことだろう。
彼もまた自分を利用していたのだとわかり、ほんのすこしだけ胸が痛くなった。
自分は案外、このシメオンのことが嫌いではなかったらしいと、こんなときに思い知ったのが残念だ。ナターリエの心をへし折るという意味では、これ以上ないタイミングであろう。悔しい。
「なにか勘違いなさっているようですが、私はこの内乱の指揮者ではございません。長はイグノーク殿下です」
「お、お兄様!?」
「まずは貴女の安全を優先させてください。制圧が完了するまでこの部屋から出ないようにとの仰せです」
まあ、これほど強力な守護の陣が張り巡らされていれば、易々と突破はされないでしょうが。
シメオンが壁や天井を見ながら小さく付け加える。
ナターリエもまた周囲を見回したが、いつもとたいして変わらない風景でしかない。
「守護の陣、ですか?」
「そこかしこに施してあるでしょう。貴女の手によって」
心当たりがあるとすれば、壁の補修だろうか。誰もやってくれないので、剥げた壁紙をペタペタ補修していた。自分の手で。壁の滲みをごまかすために、模様を描いたりもしていた。
ナターリエの能力は、刺繍を介して効果が発揮される、というわけではなかったらしい。
思わず己の手のひらを眺めるナターリエ。そんな彼女の前に跪き、その手を包み込んでシメオンが告げる。
「貴女の手は魔法の手です。大事になさってください」
「にわかには信じられませんが。それより、お兄様はどこに」
「お母上の祖国から借り受けた兵を率いて、最奥へ向かっております。王子らが籠城するのであれば、もっとも堅牢な王の間だろうと踏んで、まっすぐそこへ向かわれました」
「さすがお兄様。よくわかっておいでです」
自分以外を信用していなかった父は、自分の身を護るために、かなり頑丈な部屋を作っている。易々と侵入されないよう、王宮のもっとも奥に『王の間』を配置した。そこへ至る廊下には窓もなく、一本道。
外敵の侵入は防げるだろう。しかし、敵が身の内にいた場合はまったくもって意味がないことに、気づいていなかったのだろうか。裏切られるだなんて想像していなかったのかもしれない。王はそういった意味で、非常に愚鈍であった。
◇
ナターリエが私室で待っている間に、いろいろなことが片付いた。
兄達は疑心暗鬼に駆られ、自身の周囲にいる兵たちを他の兄弟へ差し向けたため、彼らは兄弟間で潰し合いをすることになったのだ。イグノークが辿り着いたときに残っていたのは、もっとも父王に似た気質の第一王子のみ。重たい鎧に身を包み、隠し部屋に逃げ込んでいたところをイグノークが見つけ、彼の首を刎ねた。
息子の死を目の前で見ることになった正妃は気を失い、目を覚ましたあとは呆けてしまって話にならない状態にある。精神をやられてしまったようだ。療養という名目で、どこかでひっそり暮らしてもらうことになるのだろう。
異母姉妹たちはといえば、それまでバカにして見下していたイグノークへ媚びへつらい、あろうことか婚姻を持ちかける始末。呆れた愚行だが、イグノークは淡々と対応。修道院へ送ったところで、逆に先方へ迷惑をかけるだけだと判断し、周辺諸国へ嫁がせる方向へ切り替えた。
あまり評判のよろしくない国を選び、『友好の証』として送る。
彼女たちがイグノークを恨み、嫁いだ先で夫を丸め込んで報復を企んだとしても、それはそれ。攻め入られたら正当な理由をもって相手の国を叩き潰すことができるのだから、むしろ好都合だろう。
いい整理になるよと嗤う兄は、なかなかに怖かったとナターリエは己の腕をさすったものである。
「イグノーク殿は優秀な将です。あの方が立つのであれば従う者は元から大勢いらっしゃいましたよ」
「そうですか」
「我が部族もまた、そのひとつです」
昼下がり、穏やかな陽光が降り注ぐ王宮の庭。厚手の敷布を引いたそこに座り、ナターリエはシメオンと簡素なお茶会をしている。
シメオンは優美な微笑みを浮かべ、カップを手に取った。
そんな彼の傍には一匹の犬が鎮座している。黒い毛並みのキリリとした犬は、シメオンの従者らしい。ナターリエの犬を自称する彼にも、犬がいたのは驚きだが、もっと驚いたのはこの犬が人間であることだろう。
シメオンが言う部族は、魔法のちからを残している国の一端に暮らす、獣人族。シメオンは、部族の長の息子。つまり彼もまた獣人の血を引く青年であり、従者と同じく犬なのだ。
(……まさか、文字通りの意味で『犬』だとは思わないじゃない)
嘆息しながら紅茶をすする。まったく世の中には不思議なことがたくさんあるものだ。こんなお伽噺じみたことを信じてしまうのもどうかと思うが、ナターリエ自身にもよくわからない能力があるのだから、シメオンのことも受け入れるしかない。
ふと、従者の犬が耳をピンと立て、顔を動かした。ナターリエもそちらに視線を向けると、イグノークの姿がある。
「お兄様っ」
「いいよ、用があるのはそっちの彼だから」
「承知しました」
低い声色で黒い犬が応と返したかと思えば、するりと姿を変化させ、気づけばそこに立っているのは人間の男だった。黒い服を着た黒髪の青年は、主人であるシメオンに一礼。
「御前、失礼します」
まるで足音を立てずに義兄の下へ向かう従者に、ナターリエは感嘆の息を漏らしてしまう。本当に不思議だった。
獣から人間への変化、それに対応している衣服。
あれがナターリエの刺す文様がもたらす効果であると聞いてはいたが、目の前で見てもよくわからない。
(ま、裸にならないで済むんだから、役に立ってよかったって素直に思っておこう、うん)
獣人たちにとって切実な問題だったそれを解消したナターリエは、彼らにとっては女神にも等しい存在らしい。
ふと、シメオンに手を取られ、わずかに引き寄せられた。いったいなんだと彼の顔を見ると、すこし不機嫌そう表情を浮かべている。
「アレがそんなに気になりますか」
「まあ、なりますよね。あの方の服が黒いのは毛皮が黒いからなのか、黒い服を着ているから毛皮の黒い犬になるのか。どちらなんですか?」
「――気になるのは、そういう方向で?」
「え、他になにがあるんですか」
ナターリエが首を傾げると、シメオンの機嫌はなぜか直った。満面の笑みを浮かべ、説明をくれる。
従者はもともと黒い犬であり、毛皮の色は髪に準じている。衣服は獣化との関連はない。ただ動きやすさであったり、仕事の内容を加味して、あの従者は目立たない黒い服を着用することが多いというだけのこと。
「なるほど。ではシメオン様は?」
「獣の姿を取る必要がある場合は、飾り気の少ない服をあらかじめ着るでしょう。ちなみに今は普通の服です。獣になることはできますが、そこから戻る場合、私は衣服を着ていない状態となるでしょう。ご覧になりますか?」
「なりませんよ!」
なんてことを言いだすのかこの男は。やはり変態である。
顔を赤くするナターリエを見て、シメオンは穏やかに笑う。ゆるやかな風が吹き、彼の髪を揺らした。金色の髪がなびき、陽光に煌めくさまが美しい。
懐かしいことを思い出した。この庭で出会った子犬は長毛種で、さらさらの長い毛並みが美しかった。たくさん撫でて、ぎゅっと抱きしめて、幸せな気持ちになったのだ。
そういえばシメオンも獣化できるという。どんな犬の姿を取るのだろう。いや、裸体が見たいわけではないので獣になってもよい状態でに限るけれど。いつか見てみたいものだ。
「おや。御覧になったこと、ございますでしょうに」
「え、いつですか。わたし、滅多に部屋から出ないので、犬を見かけていたら記憶していると思うんですが」
ナターリエにとって犬といえば、あの子犬くらいしかなくて。子どものころ、過去の話である。
シメオンは微笑んでいる。妙に嬉しそうな顔をして、まるで臀部にしっぽがあれば、振っているかのような雰囲気である。ふっさふさのしっぽを揺らし、ナターリエの頬をぺろぺろ舐めてくれたあの子犬みたいに。
――ん?
「……あの、まさかとは思うんですが。わたしがシメオン様の獣姿を見たのって、結構前の話だったりしますか? たとえば子どものころだとか」
「やはり憶えていてくださったのですね、あの逢瀬の日々を」
「えええええ、嘘ですよね、いや、いつのまにかいなくなって、生きててくださったのはとても嬉しいんですが」
でも、だからといって、まさか、そんな。
目を泳がせるナターリエに、シメオンは語る。
シメオンの母親が、イグノークの母――第三夫人と縁があり、滞在していた時期があった。しかし余所者を嫌う国王によって出国を余儀なくされ、半ば追い出されるように王宮を去ってしまった。シメオンとしては、滞在中に正体を明かすつもりだったのに、それができないまま帰国してしまい、ずっと心残りだったそうだ。
他にも王女はいるのに、ナターリエはいつもひとりぼっち。使用人も近くにおらず、ただ庭でぼーっとしているだけ。
イグノークから名前だけは聞いたものの、難しい立場にいるため、他国の客人と表立って会うことはできそうもない。
シメオンは犬の姿になって、ナターリエに会ってみることにした。
あたたかい手のひらを持つ王女様は、不思議な能力を宿す女の子。摘み取った花を編んでつくった花飾りには、守護の陣が組み込まれていて、第三夫人の食事に盛られた毒の解呪に役立ったのだ。
あの子の母親はきっと、シメオンたちが暮らす国の出身だ。廃れつつある魔法を操る血筋の者で、それを受け継いでいるに違いない。
とても危うい存在で、あのちからは簡単に知られていいものではない。
「イグノーク殿はいずれ貴女を我らの国へ逃がすつもりだったのだろう。しかし、予想以上にこちらの国は腐敗していて、自分が逃げるのではなく、一度壊して作り直すことを選択なされた」
「お兄様らしいですね。それでお手伝いをしてくださったのですね」
「我らだけではございませんが」
「ありがとうございます。これからも兄をよろしくお願いいたします」
「それだけではございません。私にはお役目がございますので」
「役目?」
「言ったでしょう? 私はイグノーク殿より遣わされた貴女を護る者であると」
ナターリエ。おまえを護ってくれる従者を探すよ。
たしかに義兄はそう言って、そうしてやって来たのがシメオンだった。
「どうぞ私を貴女の犬にしてください」
言って男はナターリエの両手を押し戴き、そっとくちづける。
最初に対面した日も、同じことを言っていた。
まさか本当に『犬』で、ましてやナターリエが友としていたあの『犬』だとは思わなかった。
おかしなひとだ。とんでもなく変わっている、おかしなひと。
だけど彼のまっすぐな好意は心地よいと思ってしまったナターリエもまた、おかしなひとだろう。
もういいや。
逆にすっきりした感覚になり、ナターリエはシメオンに返事をする。
「急にいなくならないでくださいね。またあしたも会えないのは駄目です」
「勿論です。明日も、明後日も、未来永劫お傍にいると誓いましょう。舐めろというのであればいつでもどこでも」
「靴は舐めなくていいです」
「承知しました。では」
その昔、子犬時代のシメオンは頬を舐めたけれど。
成長した人間のシメオンは、頬からもうすこしずれた場所を舐めて、そっと食んだ。
犬シメオンはボルゾイです。
従者ワンは、グレート・デン。
ポメ隊とかいたら可愛いよね。




