今日もここで、君を待ってる
僕は今日もここで、彼女を待っている。
駅前通りのはずれにある、自家焙煎珈琲の店。年季の入ったカウンターと、レトロな雰囲気のテーブル席が数席。薄暗い店内は話し声も少なく、ピアノのBGMがかすかに流れる。
待ち合わせの時間を少し過ぎた。彼女はまだ来ない。
彼女とは、大学のサークルで知り合った。派手な化粧をした女の子たちのなかで、地味で目立たない存在だった。いつもまわりに気を配り、柔らかい笑顔を絶やさない。そんな彼女が気になり、つい目で追っていた。彼女がほかの男と話しているのを見ると、気持ちがざわざわして落ちつかなくなった。
「僕と、付き合ってくれませんか」
彼女は恥ずかしそうに笑って、僕の気持ちを受け入れてくれた。
「この喫茶店、何だか落ち着くよね」
彼女もコーヒーが好きで、いつもモカをブラックで頼んだ。「この、モカの香りが好きなの」いつもブレンドを飲む僕に、そう言って笑いかける。
いまでも鮮明に思い出せる。美味しそうにコーヒーを飲む彼女の、カップを持つ細くて白い指。顔にかかる髪をそっとかき上げる仕草。そんな何気ない場面の、ひとつひとつを。
大学を出て、僕は友人たちと編集プロダクションを立ち上げた。彼女はデザイン関係の会社に就職した。「いっぱい勉強して、少しでも力になりたくて」いつかあなたの会社で一緒に仕事をしたいと、目を輝かせていた。
入社して半年ほどたった頃、彼女は京都の支社に異動になった。そこは研修体制が充実していて、より高度な技術を学びたい社員にとっては憧れの場所だった。まだ入社半年の彼女が選ばれたのは異例ともいえる。
「向こうで頑張って、早く一緒に仕事ができるようになりたいの」
反対する理由などなかった。東京と京都。すぐに会いにいける距離だ。僕は自分の心にあるものを打ち消すように、彼女の背中を押した。
「頑張っておいでよ。ずっと、待ってるから」
2か月に一度、彼女は東京へ帰り、この喫茶店で会った。初めは不安そうだった表情が、次第に変化していくのがわかった。「すごく楽しい。もっともっと勉強したいの」嬉しそうに話す彼女を見て、ほんの少し寂しさを覚えた。仕事に追われ、忙しさに心を削られるような毎日。わかっていても、つい考えてしまう。こんなとき、彼女がそばにいてくれたら。頑張っている姿を応援する気持ちの裏で、どうしようもない感情にさいなまれる。そんな自分に嫌気がさす。
「今日、泊まっていってもいい?」
あるとき、彼女はそう言って目を伏せた。「今日は、もう少し話したいの」気のせいか、いつもより表情が暗い。
部屋に入ると、彼女はためらいながら、話を始めた。
京都の支社に集まる社員たちはみんな優秀だった。彼女は必死についていこうとした。それでも、自分の実力のなさに自信をなくし、何度も落ち込んだ。自分はこんなところにいてもいいんだろうか。そんなときについ、そばにいてほしいと思ってしまう自分がすごく嫌いだと、彼女は唇を嚙んだ。「こんな話して、ごめんね」
体を引き寄せ、そっと抱きしめた。電話でもメールでも愚痴などいっさいこぼさない彼女が、こんなに苦しんでいたなんて。「我慢しなくていいよ。不安になったら、いつでも話を聞かせて」彼女は何度も謝りながら、声を殺して泣いた。「いつか、一緒に仕事ができるのを楽しみにしてる。大丈夫。待ってるから」でも本当は、このままずっと、こうしていたかった。
京都支社で2年あまりを過ごし、彼女は東京へ戻ってくることになった。
帰ってきたら一緒に暮らそうと言った。彼女も同意してくれた。「……嬉しい」慌ただしい日々のなかで、たくさんの準備に忙殺されながら、それでも気持ちはずっと前を向いていた。明るい未来しか見えなかった。もうすぐ、二人の生活が始まる――。
でも、それは実現することはなかった。
信号が青になり横断歩道を歩いていた彼女に、左折してきたダンプカーが突っ込んだ。即死だった。
「ごめんごめん。遅くなっちゃった」
待ち合わせの時間を20分ほど過ぎて、彼女は店に駆け込んできた。
「帰ろうと思ったら、ちょうどお客さんがいっぱい来ちゃって。いま、レジも新人が多いからほっとけなかったんだよね」
近づいてきた店員に「アールグレイください。アイスで」そう注文し、向かいの椅子に座る。だいぶ急いできたのか、少し息が荒い。
「それからね、明日の保育園のお迎え、頼んでいい? ちょっと仕事が遅くなりそうなの」
店に入ってきた勢いのまま、彼女は話し続ける。店内のざわざわした話し声が、急に耳に入ってくる。
「……え?」
「ちょっと、パパ、聞いてる?」
「ああ……ごめん。ちょっと、考えごとしてたんだ」
彼女は肩をすくめた。
「パパもいま仕事、忙しいもんね。締め切り、あさってだっけ?」
アイスティーが運ばれてくる。彼女はすぐに口をつけ、美味しそうに飲む。ふと、自分のコーヒーが空になっていたのに気づき、思わず店員に声をかける。
「すみません。モカ、ください」
「え?」
アイスティーを飲んでいた彼女は、驚いたように顔を上げて僕を見た。
「今日は珍しいね。いつも、ブレンドしか頼まないのに」
モカを飲みながら、あの笑顔が蘇る。口のなかに甘い香りが広がり、胸に何かが強く迫ってくる。
――今日も僕はここで、君を待っている。そう。ずっと待ってると、約束したから。




