第2章 レヴィ
エルシェが死んだ。
それを知ったのは、朝だった。机に向かって仕事をしていた。誰かが廊下で話しているのが聞こえた。最初は、何を言っているのかわからなかった。もう一度聞こえた時、エルシェという名前が聞き取れた。それから、死んだという言葉が聞き取れた。
立ち上がれなかった。
しばらく、そのまま机に向かっていた。書きかけの書類があった。ペンを持ったまま、何も書けなかった。窓の外で、春の光が石畳に落ちていた。いつもと変わらない朝だった。
おかしいな、と思った。
いつもと変わらない朝のはずなのに、ペンが動かなかった。
♢
エルシェのことを、最初から書く。
私たちは同期だった。同じ年に機関に入り、同じ部署に配属された。それだけの関係だった。最初はそう思っていた。
初めて会った日のことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、翌日のことだ。廊下で顔を合わせた時、エルシェは当たり前のように「おはよう、レヴィ」と言った。名前を呼ばれた。入ってまだ二日目だった。私はどう返せばいいかわからなくて、おはようございます、とだけ言った。
エルシェは笑った。
何がおかしいのかわからなかった。でもエルシェはよく笑う人だったから、きっと何か理由があったのだろう。私にはわからなかった。
その後も、エルシェはよく話しかけてきた。
朝に声をかけてきた。昼に隣に座ってきた。夕方に、今日の仕事はどうだったと聞いてきた。私はいつも短く返した。別に迷惑だとは思っていなかった。ただ、どう返すのが正しいのかがわからなかった。だから短くなった。
エルシェは気にしなかった。
次の日も話しかけてきた。その次の日も。私が短く返しても、どこかへ行ってしまうことはなかった。それが不思議だった。こういう人間もいるのか、と思った。
あの頃の私は、エルシェのことを「よくわからない人間」だと思っていた。
何を考えているのかわからなかった。いつも笑っていた。誰にでも話しかけていた。でも——今思えば、あの笑顔が何を意味していたのか、私にはわからない。ただ笑っていた。それだけしか、見えていなかった。
♢
エルシェは仕事ができた。
それは認める。魔法の扱いが細やかで、正確で、無駄がなかった。研究の筋道が論理的だった。報告書が読みやすかった。上の人間に好かれていた。同僚に好かれていた。
私はエルシェと仕事の話をすることが多かった。
それは苦ではなかった。仕事の話なら、私にもできた。エルシェは私の話をよく聞いた。遮らなかった。最後まで聞いてから、自分の意見を言った。話しやすい人間だった。
ある時、私が行き詰まった研究の話をした。
うまくいかないことが続いていた。方向性が間違っているのかもしれないと思っていた。誰かに話したわけではなかった。ただ、その日は珍しく、エルシェに話してしまった。なぜ話したのか、今でもわからない。
エルシェは黙って聞いていた。
全部話し終わると、少し考えてから言った。
「それ、方向性は間違っていないと思う。ただ——少し、急ぎすぎているだけじゃないかな」
それだけだった。
でもその一言で、何かが解けた気がした。急ぎすぎていた。そうだった。私は何かを証明しようとして、手順を飛ばしていた。エルシェはそれを、私より早く見えていた。
ありがとう、と言った。
エルシェはまた笑った。どういたしまして、と言った。
それで終わりだった。私は自分の机に戻って、仕事を再開した。エルシェも自分の仕事に戻った。
その夜、私はエルシェのことを少し考えた。
よくわからない人間だと思っていた。でも、悪い人間ではないと思った。それだけだった。それ以上ではなかった。
今思えば——それ以上にすることが、できなかった。
♢
エルシェはよく、私の名前を呼んだ。
「レヴィ」と呼んだ。姓ではなく、名で。他の同僚のことは姓で呼ぶことも多かったのに、私のことはいつも「レヴィ」と呼んだ。なぜそうするのか、聞かなかった。聞く理由がなかった。
ただ——エルシェの口から自分の名前が出るたびに、少し、何かが引っかかった。
何が引っかかっているのかわからなかった。だから気にしないようにした。
今になって思う。
あの引っかかりは、何だったのだろう。
♢
あの夜のことを書かなければならない。
エルシェが死んだ夜のことを。
その夜、私はまだ機関にいた。遅くまで残って、書類を片付けていた。廊下を歩いていた時、エルシェを見かけた。向こうの廊下の端に、エルシェがいた。
いつもと変わらなかった。
そう思った。いつもと変わらない、エルシェだった。だから私は特に何もしなかった。会釈だけした。エルシェも会釈を返した。それだけだった。
歩き出した時、後ろで何か言いかけた気がした。
振り返らなかった。
聞こえなかったふりをしたわけではない。本当に、よく聞こえなかった。独り言かもしれないと思った。疲れていたから、足を止めるのが面倒だった。そういう夜だった。
そのまま、帰った。
それが最後だった。
翌朝、エルシェの名前と死んだという言葉が廊下から聞こえてきた。ペンを持ったまま、何も書けなかった。
エルシェが何を言いかけたのか。
今でも、わからない。
♢
数日後、エルシェの机を片付けることになった。
私が担当になった。同期だったから、という理由だった。
机の上には何もなかった。整頓された人間だった。引き出しを開けると、几帳面に書類が並んでいた。一つ一つ確認しながら、必要なものと不要なものに分けた。
一番奥の引き出しを開けた時、手紙があった。
折り畳まれた、一枚の紙。
冒頭だけ、目に入った。
「親愛なる友へ」
手が止まった。
しばらく、その紙を持ったまま動けなかった。開けることも、閉じることも、できなかった。胸の中で何かが動いた。何かが、と言うしかない。うまく言葉にできない。ただ——読めなかった。
机の上に置いた。
また明日、と思った。明日なら読めるかもしれない、と思った。
部屋を出た。
翌朝、机に戻った。
手紙は、なかった。
引き出しを確認した。机の周りを確認した。床を見た。どこにもなかった。誰かが持っていったのか。でも、誰に聞いても知らないと言った。
窓が少し、開いていた。
閉めた記憶はあった。でも、開いていた。
♢
エルシェが死んでから、機関が静かになった。
最初はそう感じなかった。いつもと変わらない朝が来て、いつもと変わらない仕事があって、いつもと変わらない夜が来た。変わったことなど何もないはずだった。
でも——静かだった。
廊下が静かだった。食堂が静かだった。自分の机の周りが、やけに静かだった。同僚たちは酷く悲しんでいた。エルシェは顔が広かった。泣いている者もいた。声を詰まらせている者もいた。
私は泣かなかった。
泣けなかったのではない。泣く理由が、自分でもわからなかった。エルシェとは同期だった。話したこともあった。仕事の話をしたこともあった。それだけだと思っていた。
なのになぜ、廊下がこんなに静かなのか。
しばらくして、気づいた。
エルシェがいた頃、私は行き詰まると話しかけていた。意識していなかった。気づいたらそうしていた。エルシェは最後まで聞いて、一言だけ言った。それだけで、何かが解けた。
今は、話しかける相手がいない。
ふと横を見る。いない。
当たり前だ。でも——ふと横を見るたびに、その当たり前が、妙に重かった。
エルシェがいた日々は、今より明るかった。温かかった。どこにいても、今みたいに不安を感じることはなかった。廊下を歩いていれば声をかけてきた。食堂で隣に座ってきた。それがうるさいと思ったことは——なかった。
一度もなかった。
なのに私は、それを大切にしなかった。短く返して、適当に返して、それで十分だと思っていた。
机に向かって、書けないペンを持ったまま、私は初めて気づいた。
これは喪失だ。
形にできない、名前のつけにくい——でも確かに、喪失だ。
エルシェがいない機関は、こんなにも冷たかったのか。私はずっと、この温かさの中にいたのか。気づかないまま、ずっと。
今はもう、行き詰っても話せる相手がいない。
安心感を
温かさを
与えてくれる人がいない
『レヴィ』
あぁ。
これが——これを君は友と呼んだのか。
エルシェ
私はとっくの昔から、君のことをそう思っていた。
そう思っていたのだ。
気づかなかっただけで。
エルシェ
もう返事が、できないのだな。




