表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

第2章 レヴィ

エルシェが死んだ。


それを知ったのは、朝だった。机に向かって仕事をしていた。誰かが廊下で話しているのが聞こえた。最初は、何を言っているのかわからなかった。もう一度聞こえた時、エルシェという名前が聞き取れた。それから、死んだという言葉が聞き取れた。


立ち上がれなかった。


しばらく、そのまま机に向かっていた。書きかけの書類があった。ペンを持ったまま、何も書けなかった。窓の外で、春の光が石畳に落ちていた。いつもと変わらない朝だった。


おかしいな、と思った。


いつもと変わらない朝のはずなのに、ペンが動かなかった。



エルシェのことを、最初から書く。


私たちは同期だった。同じ年に機関に入り、同じ部署に配属された。それだけの関係だった。最初はそう思っていた。


初めて会った日のことは、あまり覚えていない。


覚えているのは、翌日のことだ。廊下で顔を合わせた時、エルシェは当たり前のように「おはよう、レヴィ」と言った。名前を呼ばれた。入ってまだ二日目だった。私はどう返せばいいかわからなくて、おはようございます、とだけ言った。


エルシェは笑った。


何がおかしいのかわからなかった。でもエルシェはよく笑う人だったから、きっと何か理由があったのだろう。私にはわからなかった。


その後も、エルシェはよく話しかけてきた。


朝に声をかけてきた。昼に隣に座ってきた。夕方に、今日の仕事はどうだったと聞いてきた。私はいつも短く返した。別に迷惑だとは思っていなかった。ただ、どう返すのが正しいのかがわからなかった。だから短くなった。


エルシェは気にしなかった。


次の日も話しかけてきた。その次の日も。私が短く返しても、どこかへ行ってしまうことはなかった。それが不思議だった。こういう人間もいるのか、と思った。


あの頃の私は、エルシェのことを「よくわからない人間」だと思っていた。


何を考えているのかわからなかった。いつも笑っていた。誰にでも話しかけていた。でも——今思えば、あの笑顔が何を意味していたのか、私にはわからない。ただ笑っていた。それだけしか、見えていなかった。



エルシェは仕事ができた。


それは認める。魔法の扱いが細やかで、正確で、無駄がなかった。研究の筋道が論理的だった。報告書が読みやすかった。上の人間に好かれていた。同僚に好かれていた。


私はエルシェと仕事の話をすることが多かった。


それは苦ではなかった。仕事の話なら、私にもできた。エルシェは私の話をよく聞いた。遮らなかった。最後まで聞いてから、自分の意見を言った。話しやすい人間だった。


ある時、私が行き詰まった研究の話をした。


うまくいかないことが続いていた。方向性が間違っているのかもしれないと思っていた。誰かに話したわけではなかった。ただ、その日は珍しく、エルシェに話してしまった。なぜ話したのか、今でもわからない。


エルシェは黙って聞いていた。


全部話し終わると、少し考えてから言った。


「それ、方向性は間違っていないと思う。ただ——少し、急ぎすぎているだけじゃないかな」


それだけだった。

でもその一言で、何かが解けた気がした。急ぎすぎていた。そうだった。私は何かを証明しようとして、手順を飛ばしていた。エルシェはそれを、私より早く見えていた。


ありがとう、と言った。


エルシェはまた笑った。どういたしまして、と言った。


それで終わりだった。私は自分の机に戻って、仕事を再開した。エルシェも自分の仕事に戻った。


その夜、私はエルシェのことを少し考えた。


よくわからない人間だと思っていた。でも、悪い人間ではないと思った。それだけだった。それ以上ではなかった。


今思えば——それ以上にすることが、できなかった。



エルシェはよく、私の名前を呼んだ。

「レヴィ」と呼んだ。姓ではなく、名で。他の同僚のことは姓で呼ぶことも多かったのに、私のことはいつも「レヴィ」と呼んだ。なぜそうするのか、聞かなかった。聞く理由がなかった。


ただ——エルシェの口から自分の名前が出るたびに、少し、何かが引っかかった。


何が引っかかっているのかわからなかった。だから気にしないようにした。


今になって思う。


あの引っかかりは、何だったのだろう。



あの夜のことを書かなければならない。


エルシェが死んだ夜のことを。


その夜、私はまだ機関にいた。遅くまで残って、書類を片付けていた。廊下を歩いていた時、エルシェを見かけた。向こうの廊下の端に、エルシェがいた。


いつもと変わらなかった。


そう思った。いつもと変わらない、エルシェだった。だから私は特に何もしなかった。会釈だけした。エルシェも会釈を返した。それだけだった。


歩き出した時、後ろで何か言いかけた気がした。


振り返らなかった。


聞こえなかったふりをしたわけではない。本当に、よく聞こえなかった。独り言かもしれないと思った。疲れていたから、足を止めるのが面倒だった。そういう夜だった。


そのまま、帰った。


それが最後だった。


翌朝、エルシェの名前と死んだという言葉が廊下から聞こえてきた。ペンを持ったまま、何も書けなかった。


エルシェが何を言いかけたのか。


今でも、わからない。



数日後、エルシェの机を片付けることになった。


私が担当になった。同期だったから、という理由だった。


机の上には何もなかった。整頓された人間だった。引き出しを開けると、几帳面に書類が並んでいた。一つ一つ確認しながら、必要なものと不要なものに分けた。


一番奥の引き出しを開けた時、手紙があった。


折り畳まれた、一枚の紙。


冒頭だけ、目に入った。


「親愛なる友へ」


手が止まった。

しばらく、その紙を持ったまま動けなかった。開けることも、閉じることも、できなかった。胸の中で何かが動いた。何かが、と言うしかない。うまく言葉にできない。ただ——読めなかった。


机の上に置いた。


また明日、と思った。明日なら読めるかもしれない、と思った。


部屋を出た。


翌朝、机に戻った。


手紙は、なかった。


引き出しを確認した。机の周りを確認した。床を見た。どこにもなかった。誰かが持っていったのか。でも、誰に聞いても知らないと言った。


窓が少し、開いていた。


閉めた記憶はあった。でも、開いていた。



エルシェが死んでから、機関が静かになった。


最初はそう感じなかった。いつもと変わらない朝が来て、いつもと変わらない仕事があって、いつもと変わらない夜が来た。変わったことなど何もないはずだった。


でも——静かだった。


廊下が静かだった。食堂が静かだった。自分の机の周りが、やけに静かだった。同僚たちは酷く悲しんでいた。エルシェは顔が広かった。泣いている者もいた。声を詰まらせている者もいた。


私は泣かなかった。


泣けなかったのではない。泣く理由が、自分でもわからなかった。エルシェとは同期だった。話したこともあった。仕事の話をしたこともあった。それだけだと思っていた。


なのになぜ、廊下がこんなに静かなのか。


しばらくして、気づいた。


エルシェがいた頃、私は行き詰まると話しかけていた。意識していなかった。気づいたらそうしていた。エルシェは最後まで聞いて、一言だけ言った。それだけで、何かが解けた。


今は、話しかける相手がいない。


ふと横を見る。いない。


当たり前だ。でも——ふと横を見るたびに、その当たり前が、妙に重かった。


エルシェがいた日々は、今より明るかった。温かかった。どこにいても、今みたいに不安を感じることはなかった。廊下を歩いていれば声をかけてきた。食堂で隣に座ってきた。それがうるさいと思ったことは——なかった。


一度もなかった。


なのに私は、それを大切にしなかった。短く返して、適当に返して、それで十分だと思っていた。


机に向かって、書けないペンを持ったまま、私は初めて気づいた。


これは喪失だ。


形にできない、名前のつけにくい——でも確かに、喪失だ。


エルシェがいない機関は、こんなにも冷たかったのか。私はずっと、この温かさの中にいたのか。気づかないまま、ずっと。


今はもう、行き詰っても話せる相手がいない。


安心感を

温かさを

与えてくれる人がいない


レヴィ(友よ)


あぁ。

これが——これを君は友と呼んだのか。


エルシェ


私はとっくの昔から、君のことをそう思っていた。

そう思っていたのだ。


気づかなかっただけで。


エルシェ(友よ)


もう返事が、できないのだな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ