第1章 ルナ
あなたはご存知でしたか、エルシェシアさん。
あの春の朝が、どれほど穏やかだったか。
中庭の白樺がようやく芽吹いて、風もなく、ただ光だけが柔らかく石畳の上に落ちていた。私はいつものように、誰より早く機関に来て、誰にも気づかれないように廊下の端を歩いていた。そういう歩き方を、ずっとしていた。壁に沿って、影の中を、なるべく小さく。
あなたに声をかけられるまでは。
「ねえ、そこの君」
振り返った時、あなたは私ではなく、私の足元を見ていた。視線を追うと、書類が一枚、石畳の上に落ちていた。私のものだった。いつ落としたのか気づかなかった。あなたはそれを拾い上げて、少し小走りで近づいてきた。黒髪が揺れていた。
「落としてたよ」
笑っていた。
あなたはよく笑う人だった。それを最初に思った。こんなに優しく笑う人がいるのかと、少し驚いた。ありがとうございます、と私が言うと、あなたはまたにっこりして、どういたしまして、と返した。それだけだった。あなたはまた歩き出して、私も歩き出した。それだけの朝だった。
なのに、なぜだろう。
その日の夕方になっても、私はまだあの笑顔のことを考えていた。
♢
あなたのことを、最初は怖いと思っていた。
正確には——怖いというより、眩しかった。あなたはいつも、誰かと話していた。誰かを笑わせていた。廊下ですれ違うたびに、あなたの周りだけ空気が違った。温かくて、明るくて、まるでそこだけ春が続いているみたいだった。
私はそういう場所が、苦手だった。
自分がそこに入っていける人間だと思えなかった。机の端に座って、必要なことだけ話して、仕事が終わったら誰より早く帰る。それが私のやり方だった。誰かに話しかけることも、話しかけられることも、できれば避けたかった。うまくやれる気がしなかったから。
だから最初に声をかけてくれたのがあなただったのは、少し不思議だった。
あなたはその後も、時々話しかけてきた。廊下で会えばおはよう、と言った。食堂で隣になれば、今日の昼食は何にした、と聞いた。他愛のないことばかりだった。でも私にとっては、他愛のないことが一番難しかった。うまく返せているかどうか、毎回不安だった。
ある日、私が返答に詰まっていると、あなたは少し首を傾けて言った。
「ゆっくりでいいよ」
それだけだった。急かさなかった。待っていた。その待ち方が、不思議と圧迫感がなかった。あなたはいつもそういう人だった。人を急かさない。人を責めない。ただそこにいて、待っていた。
私はその頃、自分のことがあまり好きではなかった。
いや——正確に言えば、好きになれなかった。何をやっても人より遅かった。気の利いたことが言えなかった。笑うタイミングがわからなかった。誰かと話すたびに、また失敗したと思った。機関に入って最初の一年は、毎晩そのことを考えて眠れない夜があった。
なのにあなたは、私に話しかけ続けた。
なぜだろう、とずっと思っていた。私のどこに話しかける理由があったのか。でも聞けなかった。聞いて、大した理由がなかったら——それはそれで、傷つく気がした。
だから黙って、あなたの隣にいた。
♢
あなたのことが好きだと気づいたのは、いつだったろう。
はっきりした瞬間があったわけではない。気づいたら、そうなっていた。あなたの声が聞こえると少し背筋が伸びた。あなたが笑うと、私も笑いたくなった。あなたが疲れた顔をしている日は、私まで胸が重くなった。
おかしいな、と思った。
人のことをこんなに考えたことが、なかった。人の表情をこんなに気にしたことが、なかった。それが恋というものなのかどうか、私にはよくわからなかった。ただ——あなたのそばにいると、世界が少し違って見えた。それだけは確かだった。
春が来るたびに、あの朝のことを思い出した。
白樺の芽吹き、光の落ち方、あなたの小走り。笑顔。
ゆっくりでいいよ、という言葉。
私はその言葉をずっと、大切に持っていた。お守りみたいに。うまくいかない夜に、その言葉を思い出した。それだけで、少し眠れた。
あなたは知らなかっただろうけれど。
♢
想いを伝えたのは、二度目の春だった。
夕暮れの中庭で、あなたは一人でいた。珍しかった。いつもあなたの周りには誰かいたから。石造りのベンチに腰掛けて、空を見ていた。何を考えているのか、わからなかった。
私は少し迷って、隣に座った。
しばらく黙っていた。あなたも何も言わなかった。夕暮れが、白樺の向こうにゆっくり沈んでいった。風がなかった。その日は不思議と、風がなかった。
「エルシェシアさん」
呼ぶと、あなたは空から視線を下ろした。
「あなたは私にとって、太陽なんです」
言ってしまってから、心臓が跳ねた。あなたは少し、目を丸くした。
「あなたが話しかけてくれなかったら、私はきっとずっと、壁の影を歩いていた。あなたが笑うから、私も笑えた。あなたがそこにいるから、私はここにいられた。——太陽みたいな人だと、思っています」
あなたは何も言わなかった。
少しの間、黙っていた。私には、その沈黙がとても長く感じられた。あなたの横顔を見ていた。何かを——何かをずっと遠くに見ているような目だった。
「……ありがとう」
やっと、あなたは口を開いた。
柔らかい声だった。でも、どこか遠かった。
私は続けた。勇気を出して、続けた。
「貴方が好きです。男性として」
あなたはまた、少し黙った。今度の沈黙は、さっきより短かった。
「ごめんね」
あなたは言った。
「恋人をつくる気は、ないんだ」
それだけだった。他の言葉は何もなかった。理由もなかった。ただ、ごめんね、と言った。その声があまりにも静かで、あまりにも優しくて——私は泣きそうになった。けれど、泣かなかった。溢れそうになる涙を堪えて「そうですか」と言った。
「そうですか」しか、言えなかった。
あなたはしばらくそこにいた。帰らなかった。隣に座ったまま、また空を見ていた。私も空を見た。夕暮れはもうほとんど消えて、空の端が藍色になっていた。
どこかで鳥が鳴いた。
それだけの夕暮れだった。
♢
それから、何も変わらなかった。
あなたは翌朝も話しかけてきた。おはよう、と言った。私もおはよう、と返した。食堂で隣になった。廊下ですれ違った。何も変わらなかった。
私はそれが、少し辛かった。
辛かったけれど——でも、嬉しくもあった。あなたが変わらずにいてくれることが。振られた後も、同じ距離でいてくれることが。それがあなたという人だった。
私はあなたのそばにいることをやめなかった。やめられなかった。
太陽のそばを離れられない月のように——ずっと、あなたの周りを回っていた。あなたに届かない距離で、あなたの光を受けながら。それで十分だと、思おうとしていた。
思おうとして、思えない夜もあった。
でも、あなたがいた。
それだけで、私は歩けた。
♢
あの夜のことを、書かなければならない。
夕暮れ時、私はまたあなたを見つけた。中庭ではなく、機関の廊下だった。あなたは少し、疲れた顔をしていた。いつもと違った。笑っていなかった。
「エルシェシアさん」
呼ぶと、あなたは振り返った。
「もう一度だけ、言わせてください」
あなたは静かに、私を見ていた。
「あなたは私の太陽です。——いつもありがとうございます」
あなたは何も言わなかった。
今度は、ありがとうも言わなかった。ただ私を見て、それから少し、目を細めた。笑おうとして、笑えなかったような——そんな顔だった。
それが最後だった。
あなたはそのまま、廊下の奥へ歩いていった。私は見送った。あなたの黒髪が、遠くなっていった。
その夜、あなたは死んだ。
♢
エルシェシアさん。
私はあなたのことを、希望と呼んでいた。
あなたがいるから世界は明るいと、本当に思っていた。あなたの笑顔が、あなたの声が、あなたの「ゆっくりでいいよ」という言葉が——私を生かしていた。大げさではなく、本当に。
でも私は知らなかった。
あなたが何を見ていたか。あなたが何を抱えていたか。あなたの笑顔の奥に、何があったか。
あなたは太陽だと思っていた。
でも太陽にも、夜が来ることを——私は知らなかった。
最後の夜、私はあなたに言葉を渡した。あの言葉が、あなたにとって何だったのか。重かったのか、軽かったのか。嬉しかったのか、苦しかったのか。
聞けなかった。
もう、聞けない。
あなたが最後に見た月は、貴方を照らしてくれましたか。




