表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第1章 ルナ

あなたはご存知でしたか、エルシェシアさん。


あの春の朝が、どれほど穏やかだったか。


中庭の白樺がようやく芽吹いて、風もなく、ただ光だけが柔らかく石畳の上に落ちていた。私はいつものように、誰より早く機関に来て、誰にも気づかれないように廊下の端を歩いていた。そういう歩き方を、ずっとしていた。壁に沿って、影の中を、なるべく小さく。


あなたに声をかけられるまでは。


「ねえ、そこの君」


振り返った時、あなたは私ではなく、私の足元を見ていた。視線を追うと、書類が一枚、石畳の上に落ちていた。私のものだった。いつ落としたのか気づかなかった。あなたはそれを拾い上げて、少し小走りで近づいてきた。黒髪が揺れていた。


「落としてたよ」


笑っていた。

あなたはよく笑う人だった。それを最初に思った。こんなに優しく笑う人がいるのかと、少し驚いた。ありがとうございます、と私が言うと、あなたはまたにっこりして、どういたしまして、と返した。それだけだった。あなたはまた歩き出して、私も歩き出した。それだけの朝だった。


なのに、なぜだろう。


その日の夕方になっても、私はまだあの笑顔のことを考えていた。



あなたのことを、最初は怖いと思っていた。


正確には——怖いというより、眩しかった。あなたはいつも、誰かと話していた。誰かを笑わせていた。廊下ですれ違うたびに、あなたの周りだけ空気が違った。温かくて、明るくて、まるでそこだけ春が続いているみたいだった。


私はそういう場所が、苦手だった。


自分がそこに入っていける人間だと思えなかった。机の端に座って、必要なことだけ話して、仕事が終わったら誰より早く帰る。それが私のやり方だった。誰かに話しかけることも、話しかけられることも、できれば避けたかった。うまくやれる気がしなかったから。


だから最初に声をかけてくれたのがあなただったのは、少し不思議だった。


あなたはその後も、時々話しかけてきた。廊下で会えばおはよう、と言った。食堂で隣になれば、今日の昼食は何にした、と聞いた。他愛のないことばかりだった。でも私にとっては、他愛のないことが一番難しかった。うまく返せているかどうか、毎回不安だった。


ある日、私が返答に詰まっていると、あなたは少し首を傾けて言った。


「ゆっくりでいいよ」


それだけだった。急かさなかった。待っていた。その待ち方が、不思議と圧迫感がなかった。あなたはいつもそういう人だった。人を急かさない。人を責めない。ただそこにいて、待っていた。


私はその頃、自分のことがあまり好きではなかった。


いや——正確に言えば、好きになれなかった。何をやっても人より遅かった。気の利いたことが言えなかった。笑うタイミングがわからなかった。誰かと話すたびに、また失敗したと思った。機関に入って最初の一年は、毎晩そのことを考えて眠れない夜があった。


なのにあなたは、私に話しかけ続けた。


なぜだろう、とずっと思っていた。私のどこに話しかける理由があったのか。でも聞けなかった。聞いて、大した理由がなかったら——それはそれで、傷つく気がした。


だから黙って、あなたの隣にいた。



あなたのことが好きだと気づいたのは、いつだったろう。


はっきりした瞬間があったわけではない。気づいたら、そうなっていた。あなたの声が聞こえると少し背筋が伸びた。あなたが笑うと、私も笑いたくなった。あなたが疲れた顔をしている日は、私まで胸が重くなった。


おかしいな、と思った。


人のことをこんなに考えたことが、なかった。人の表情をこんなに気にしたことが、なかった。それが恋というものなのかどうか、私にはよくわからなかった。ただ——あなたのそばにいると、世界が少し違って見えた。それだけは確かだった。


春が来るたびに、あの朝のことを思い出した。


白樺の芽吹き、光の落ち方、あなたの小走り。笑顔。


ゆっくりでいいよ、という言葉。


私はその言葉をずっと、大切に持っていた。お守りみたいに。うまくいかない夜に、その言葉を思い出した。それだけで、少し眠れた。


あなたは知らなかっただろうけれど。



想いを伝えたのは、二度目の春だった。


夕暮れの中庭で、あなたは一人でいた。珍しかった。いつもあなたの周りには誰かいたから。石造りのベンチに腰掛けて、空を見ていた。何を考えているのか、わからなかった。


私は少し迷って、隣に座った。


しばらく黙っていた。あなたも何も言わなかった。夕暮れが、白樺の向こうにゆっくり沈んでいった。風がなかった。その日は不思議と、風がなかった。


「エルシェシアさん」


呼ぶと、あなたは空から視線を下ろした。


「あなたは私にとって、太陽なんです」


言ってしまってから、心臓が跳ねた。あなたは少し、目を丸くした。


「あなたが話しかけてくれなかったら、私はきっとずっと、壁の影を歩いていた。あなたが笑うから、私も笑えた。あなたがそこにいるから、私はここにいられた。——太陽みたいな人だと、思っています」


あなたは何も言わなかった。


少しの間、黙っていた。私には、その沈黙がとても長く感じられた。あなたの横顔を見ていた。何かを——何かをずっと遠くに見ているような目だった。


「……ありがとう」


やっと、あなたは口を開いた。


柔らかい声だった。でも、どこか遠かった。


私は続けた。勇気を出して、続けた。


「貴方が好きです。男性として」


あなたはまた、少し黙った。今度の沈黙は、さっきより短かった。


「ごめんね」


あなたは言った。


「恋人をつくる気は、ないんだ」


それだけだった。他の言葉は何もなかった。理由もなかった。ただ、ごめんね、と言った。その声があまりにも静かで、あまりにも優しくて——私は泣きそうになった。けれど、泣かなかった。溢れそうになる涙を堪えて「そうですか」と言った。


「そうですか」しか、言えなかった。


あなたはしばらくそこにいた。帰らなかった。隣に座ったまま、また空を見ていた。私も空を見た。夕暮れはもうほとんど消えて、空の端が藍色になっていた。


どこかで鳥が鳴いた。


それだけの夕暮れだった。



それから、何も変わらなかった。


あなたは翌朝も話しかけてきた。おはよう、と言った。私もおはよう、と返した。食堂で隣になった。廊下ですれ違った。何も変わらなかった。


私はそれが、少し辛かった。


辛かったけれど——でも、嬉しくもあった。あなたが変わらずにいてくれることが。振られた後も、同じ距離でいてくれることが。それがあなたという人だった。


私はあなたのそばにいることをやめなかった。やめられなかった。


太陽のそばを離れられない月のように——ずっと、あなたの周りを回っていた。あなたに届かない距離で、あなたの光を受けながら。それで十分だと、思おうとしていた。


思おうとして、思えない夜もあった。


でも、あなたがいた。


それだけで、私は歩けた。



あの夜のことを、書かなければならない。

夕暮れ時、私はまたあなたを見つけた。中庭ではなく、機関の廊下だった。あなたは少し、疲れた顔をしていた。いつもと違った。笑っていなかった。


「エルシェシアさん」


呼ぶと、あなたは振り返った。


「もう一度だけ、言わせてください」


あなたは静かに、私を見ていた。


「あなたは私の太陽です。——いつもありがとうございます」


あなたは何も言わなかった。


今度は、ありがとうも言わなかった。ただ私を見て、それから少し、目を細めた。笑おうとして、笑えなかったような——そんな顔だった。


それが最後だった。


あなたはそのまま、廊下の奥へ歩いていった。私は見送った。あなたの黒髪が、遠くなっていった。


その夜、あなたは死んだ。



エルシェシアさん。


私はあなたのことを、希望と呼んでいた。


あなたがいるから世界は明るいと、本当に思っていた。あなたの笑顔が、あなたの声が、あなたの「ゆっくりでいいよ」という言葉が——私を生かしていた。大げさではなく、本当に。


でも私は知らなかった。


あなたが何を見ていたか。あなたが何を抱えていたか。あなたの笑顔の奥に、何があったか。


あなたは太陽だと思っていた。


でも太陽にも、夜が来ることを——私は知らなかった。


最後の夜、私はあなたに言葉を渡した。あの言葉が、あなたにとって何だったのか。重かったのか、軽かったのか。嬉しかったのか、苦しかったのか。


聞けなかった。


もう、聞けない。


あなたが最後に見た月は、貴方を照らしてくれましたか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ