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第九話「退屈な聖域と、危ない秘め事」

 バベル・ガーデン最上層、『樹洞の聖域』。


 そこは、数千人がうごめく下層の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 部屋の中央に鎮座する「こたつ」。


 その魔性の温もりに浸かりながら、真音はテーブルに突っ伏して、亡霊のような声を漏らした。


「…まだなの?」


 向かい側で、分厚い本を読んでいた黒いクマのぬいぐるみ――メルキオラスが、パタンと本を閉じる。


「ん?何がだい、真音ちゃん」


 真音は顔だけを僅かに上げ、恨めしげなジト目を向けた。


「『スライム・ドロップ』よ。勇者がクイーンを捕まえてきてから、もう二週間も経つのよ?生産ラインはどうなってるの?」


 そう。彼女の機嫌が地を這っている最大の理由は、未だ愛しのグミが口に入っていないことだ。


 かつて味わった至高の食感。


 その記憶が鮮明すぎるがゆえに、枯渇した現状は彼女にとって拷問に等しい。


「ああ、それね。さっき牧場のアレクセイくんから報告があったよ」


 メルキオラスは懐から羊皮紙を取り出し、読み上げる。


「『クイーン個体の環境適応に想定以上の時間を要しています。地下深層からここへの急激な移動で、クイーン様が繊細になっているようです。極上の粘液を分泌させるには、ストレスフリーな環境でのマッサージと、最高級の魔鉱石の投与が必要です。現在、不眠不休でケアに当たっていますので、今しばらくお待ちください』…だってさ」


「…ちっ」


 真音は舌打ちをした。


 勇者がサボっているわけではないことは分かる。


 むしろ、死ぬ気でご機嫌取りをしているのだろう。


 だからこそ、怒りの持って行き場がない。


「暇ね…。本当に、暇」


 真音は再びテーブルに突っ伏した。


 ここ最近、バベル・ガーデンはあまりにも平和すぎた。


 塔の修復工事も、食料調達も、人員配置も、すべてがルミナとヴォルグによって自動化された歯車のように回っている。


「いいことじゃないか。不労所得だよ、真音ちゃん。これぞ君が求めていた『理想の大家生活』だろう?君に害をなすような不届き者もいないしね」


 メルキオラスは穏やかに微笑む。


 もちろん、広大なバベル・ガーデンには、勇者たち以外にも無数の侵入者や魔獣が迷い込んでいる。


 だが、真音の生活に干渉しない限り、メルキオラスは黙認している。


 事実、地上にほど近い階層の外周部などには、ひっきりなしに冒険者と呼ばれる類の人々などが魔物狩りなどを勤しんだり、貴重な宝物などを発見して喜んだりしているのだ。


 中には、不遜な考えをおこす者もいるが、そういう存在はメルキオラスが静かに「処理」していることなど、あえて言う必要もないだろう。


「そうなんだけど…なんかこう、違うのよ」


 真音は、自身の膝の上で丸くなっている猫サイズの蒼竜――ラズリの背中を、手持ち無沙汰に撫で回した。


「私、ただ『グミ食べて寝てたい』とは言ったけど、一日中誰とも喋らずに、ルミナが持ってくる『業務完了報告書』にハンコ押すだけの生活がしたいわけじゃないのよ」


 聖女ルミナの手腕は完璧すぎた。


 以前なら「騒音がうるさい!」「振動でプリンが揺れた!」と文句を言いに行き、ついでに暴れるという「ガス抜き」ができた。


 しかし今は、騒音が起きる前にルミナが解決し、振動が出る工事は真音が寝ている間に終わらせてしまう。


 完璧な管理体制が、皮肉にも真音から「大家としての仕事(=理不尽な介入)」を奪っていたのだ。


「ラズリもそう思うでしょ?最近、運動不足でお腹周りがたるんできたんじゃない?」


 ぷにっ、と脇腹をつつかれたラズリが、ピクリと耳を動かし、不機嫌そうに片目を開けた。


『失敬な。これは脂肪ではない、高密度に圧縮された魔力だ。…それに、我が君の膝の上が心地よすぎて動きたくないだけだ』


 ラズリは大きなあくびをして、鼻を鳴らした。


『だが、退屈であることは同意する。…外に出れば、あの聖女ごときが飛んできて、「ラズリ様、本日の威嚇飛行のルートはこちらです」「ブレスの出力は環境保全のためレベル2程度に抑えてください」などと管理しようとしてくる。興醒めもいいところだ』


 最強の蒼天竜である彼にとって、人間に管理されることなど屈辱以外の何物でもない。


 だが、その「管理」によって美味しいご飯(ヴォルグ特製)と快適な寝床が保証されているため、無下に暴れることもできない。それが余計にストレスとなっていた。


 バベル・ガーデンは完璧に運営されている。


 しかし、そこには真音たちが求めている「予想外の刺激」や「デタラメな熱量」が欠けていた。


「ねえ、くまちゃん」


 真音がむくりと身を起こした。


 その黒曜石のような瞳に、悪戯な子供のような、危険な光が宿る。


「刺激、欲しくない?」


「…嫌な予感がするなあ。僕、このあとの決算処理があるんだけど」


「地下深層のさらに奥。…『封印区画アビス・エリア』の鍵、くまちゃんが持ってるわよね?」


 メルキオラスの動きがピタリと止まった。


 同時に、ラズリがガバッと顔を上げ、縦に割れた瞳孔をギラリと輝かせて真音を見た。


「真音ちゃん、あそこはこの塔の『ゴミ捨て場』だよ?超古代の魔法文明が遺した『廃棄処分された失敗作キメラ』たちがウヨウヨしてる場所だ」


「だからよ」


 真音はニッコリと笑った。


 純粋な捕食者の笑み。


「ルミナたちじゃ絶対に手が出せない領域。管理された平和を壊しかねない、とびきりの不衛生エリア。…私たち三人で『大掃除』してあげるのが、大家の務めだと思わない?」


『ふっ…。なるほど、害獣駆除か』


 ラズリが立ち上がり、体をブルルッと震わせて本来の大きさに戻る予兆を見せる。


 その口元は、獰猛に歪んでいた。


『よかろう。管理された空を飛ぶのにも飽いていたところだ。…我がブレスも錆びついていないか、試してやりたいと思っていた』


「ええー…」


 なおも渋るメルキオラスを無視して、真音は立ち上がった。


 エプロンドレスを脱ぎ捨て、クローゼットから身軽な服(神話級素材のパーカーとショートパンツ)を取り出す。


「ルミナたちには内緒よ。見つかったら『大家様、勝手な行動はシフトに乱れが生じます』って説教されるからね」


「…はぁ。仕方ないなぁ。引率係が必要だもんね」


 メルキオラスも諦めて肩をすくめ、空間ジッパーを開けて古びた鍵を取り出した。


「さあ、『禁断の害獣駆除(ガス抜き)』に行くわよ!」


 主役たちが動き出した。


 それは、バベル・ガーデンの秩序を守るためではない。


 単に、退屈で死にそうな自分たちが、久々に「誰にも邪魔されずに大暴れするため」に。



◆◇◆◇◆



 一方その頃、第七一二層にある総務室。


 そこは、戦場のような忙しさに包まれていた。


「部長!北側の修復工事、資材が足りません!」


「西側の農園でマンドラゴラが暴れています!鎮圧部隊の派遣許可を!」


「アレクセイ牧場長から、『クイーン様が寂しがっているので、至急ハープ奏者を派遣してくれ』と要請が来ています!」


 ひっきりなしに飛び込む報告と、羊皮紙の山。


 その中心で、聖女ルミナは数人の文官(元魔王軍の参謀たち)を指揮し、千手観音のような手つきで書類を処理していた。


「資材は南側の予備を回して!マンドラゴラは収穫時期よ、ヴォルグ料理長に『食材確保のチャンスです』と伝えて回収させなさい!牧場長の請求は…許可するわ。グミの生産が最優先事項よ」


 的確かつ冷徹な指示。


 彼女の脳内では、全体の動きがチェス盤のように完璧に把握されていた。


 今のバベル・ガーデンは、彼女の指揮なしでは一秒たりとも回らない。


 そういう自負と充実感が、彼女を突き動かしていた。


 だが、その時。


 ルミナの背筋に、ゾクリと冷たい悪寒が走った。


「ッ…!?」


「どうしました、ルミナ部長?顔色が…」


「…なにかしら、この胸騒ぎは」


 ルミナは手を止め、天井を見上げた。


 視線の先にあるのは、この塔の絶対支配者が住む最上層だ。


「わからない…でも、魔王軍との決戦前夜よりも、もっと質の悪い嫌な予感がするわ。…まさか、あの人たち、また何か余計なことを…」


 有能な部下の勘は、残酷なまでに的中していた。


 彼女はまだ知らない。


 この数時間後、地下最深部で発生する『古代兵器暴走事故』によって、彼女が心血を注いで構築した完璧なシフト管理が、物理的に崩壊することになろうとは。


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