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第七話「数千人の胃袋と、聖女の計算」

 バベル・ガーデン第三居住区画。


 かつては魔王軍の兵舎予定地だったその広大な空間は、急ごしらえの「従業員食堂」へと改装されていた。


 時刻は正午。


 午前の過酷な修復作業を終えた数千人の男たちが、雪崩を打って押し寄せてくる時間だ。



「おい魔族!そっちの列は人間用だと言っただろうが!鼻が利くなら自分の餌場に行け!」


「あぁん?人間風情が俺に指図すんじゃねぇ!そのひ弱な腕をへし折って、スープの出汁にしてやろうか!」


 殺伐とした空気が充満していた。


 無理もない。


 つい数日前まで、彼らは互いの喉笛を食いちぎろうとしていた敵同士なのだ。


 武器は取り上げられ、ラズリという絶対的な暴力によって停戦を強制されているが、積年の恨みが消えるわけではない。


 些細な接触、視線の交錯、それだけで火花が散り、今にも暴動が起きそうな気配が漂っている。


 そんな一触即発の喧騒を、食堂の隅から冷ややかに見つめる一人の女性がいた。


 金髪を無造作に束ね、薄汚れた作業着を身に纏っていても尚、隠しきれない気品を漂わせる女性。


 勇者パーティの回復役にして、王都の教会が認定した「聖女」ルミナだ。


(…非効率ね)


 彼女は心の中で毒づいた。


 聖女としての慈愛の微笑みを浮かべながら、その内面では冷徹な計算機が回っている。


(魔族と人間を同じ空間で食事させるなんて、ストレス係数が高すぎるわ。喧嘩が起きれば怪我人が出る。怪我人が出れば労働力が減る。労働力が減れば、私たちの借金返済が遅れる。…これじゃあ、いつまで経っても地上には帰れない)


 ルミナはため息をつき、手元の配給トレイに視線を落とした。


 彼女の現在の担当は、皮肉なことに「配膳係」だった。聖女としての治癒魔法は、緊急時以外は温存しろという賢者メルキオラスの指示だ。


「ほら、並んで。次の方」


 ルミナは機械的にスープをよそいながら、厨房の奥に視線を向けた。


 そこでは、先日トイレ掃除から解放されたばかりの元将軍・ヴォルグが、鬼のような形相で巨大な寸胴鍋と格闘していた。


「火力が弱い!もっと強火だ!肉の表面を一気に焼き固めてから煮込めと言っただろうが!」


「し、しかしヴォルグ料理長!これ以上は焦げます!」


「焦げる寸前が至高なんだよ!大家殿の舌を満足させるには、極限のメイラード反応が必要なんだ!ええい、貸せ!」


 ヴォルグは部下(元魔王軍のコック)からフライパンを奪い取ると、自ら豪快に肉を煽った。


 彼の肩書きは、今や「従業員食堂・総料理長」。


 先日の大家への直訴と試食テストの結果、その腕を見込まれ、メルキオラスから直々に『数千人の胃袋を管理する権限』を与えられたのだ。


 ただし、条件付きで。


『総料理長への昇格、おめでとう。ただし条件付きだよ。給料は半額スタート。そして君には「目標」を設定する。この塔の労働効率を、君の料理で15%向上させること。…兵士たちの魔力回復速度、筋力増強、疲労軽減。すべて君の腕にかかってる。達成できたら正規雇用、給料は倍。失敗したら――まあ、トイレ掃除に逆戻りかな』


 先日の屈辱的な敗北と、与えられた千載一遇のチャンス。


 そして、絶対に避けたいトイレ掃除への逆戻り。


 彼はその鬱憤と情熱、そして恐怖の全てを、この「賄い飯」にぶつけているようだった。


(…元将軍が、必死ね)


 ルミナは鼻で笑いそうになるのを堪え、渡されたシチューを受け取った。


 『アークバッファローのスネ肉とダンジョン野菜のスタミナシチュー・完熟煮込み』。


 見た目は武骨な茶色一色。


 だが、そこから立ち上る香りは、空腹の胃袋を鷲掴みにする暴力的な魅力を放っていた。


 騒いでいた兵士たちも、料理を受け取った瞬間、その香りに鼻をひくつかせ、大人しく席につく。


 そして、一口食べた瞬間――。


「う、うめええええッ!!」


「なんだこれは!?肉が…肉が口の中で解けるぞ!?」


「野菜の甘味が染み渡る…!魔力が、体力が回復していくのが分かる!」


 食堂のあちこちから、驚愕と歓喜の声が上がった。


 ルミナもまた、休憩時間に自分の分を口にして、目を見開いた。


(…これは)


 美味しい。


 悔しいけれど、王都の高級レストランよりも遥かに。


 だが、聖女である彼女が注目したのは味ではない。


 食べた直後に体の芯から湧き上がる、熱い活力だ。


(魔力回復効率、推定200%以上。筋力増強と疲労回復のバフ効果付き…。ただの食事じゃないわ。これは、上級ポーションに匹敵する『魔法料理』よ)


 理由は明白だ。


 賢者メルキオラスがダンジョン内で品種改良した野菜。


 魔力濃度の高い世界樹の水。


 そして何より、ヴォルグという一流の使い手が、大家(真音)を満足させるために極限まで高めた調理技術。


 それらが組み合わさり、この賄い飯は、兵士たちを酷使するための「最強の燃料」となっていたのだ。


「…なるほどね」


 ルミナの瞳に、野心の光が灯った。


 この塔は狂っている。


 大家は横暴で、労働環境はブラックで、借金は天文学的数字だ。


 だが――「資源」はある。


 最高級の食材、無尽蔵の魔力、そして(元)世界最強クラスの人材たち。


(嘆いていても借金は減らない。勇者アレクセイは脳筋だし、魔王はボイラー室に引きこもって出てこない。…なら、誰がこの組織を回すの?)


 彼女はスプーンを置き、立ち上がった。


 作業着の汚れを払い、乱れた髪を指で整える。


 その背筋はピンと伸び、聖女としてのカリスマを取り戻していた。


「おい、そこの二人!いい加減にしなさい!」


 ルミナは、また掴み合いを始めようとしていた騎士と魔族の間に割って入った。


 凛とした声が、食堂の喧騒を切り裂く。


「聖女様…?で、でも、こいつが先に!」


「黙りなさい。あなたたち、状況を理解しているのですか?」


 ルミナは冷徹に見下ろした。


「ここで騒ぎを起こせばどうなるか。あの大家が、騒音に対してどれほど厳しいか…もう忘れたのですか?それとも、今度はラズリ様のオヤツになりたいと?」


 「大家」「ラズリ」という単語が出た瞬間、二人の顔から血の気が引いた。


 契約書の恐怖は、種族の壁を超えて共有されている。


「食事は力の源です。せっかくヴォルグ料理長が素晴らしい『燃料』を提供してくれているのに、それを無駄にするつもりですか?さっさと食べて、午後の作業に戻りなさい。それが、ここから抜け出す最短の道です」


 正論と恐怖、そしてわずかな希望(食事への評価)。


 アメとムチを使い分けた彼女の言葉に、兵士たちは毒気を抜かれたように大人しくなり、黙々とシチューを口に運び始めた。


 食堂に、咀嚼音だけの静寂が戻る。


 それを見て、厨房のヴォルグが感心したように唸った。


「ほう…。あの暴れ馬どもを、声だけで制圧するとは。流石は勇者パーティの聖女だな」


 ルミナはヴォルグに向かって、ニッコリと――しかし目は笑っていない営業スマイルを向けた。


「料理長。後で少し、お話があります」


「む?」


「食材の配給ロスと、メニューのローテーションについてです。今の無計画な大盛り提供では、月末に在庫が尽きます。…私が、効率的な管理プラン(計算)を提供しましょう」


 それは提案ではない。


 この塔の実権を握るための、聖女の最初の一手だった。


(大家という絶対王者がいて、賢者メルキオラスという技術顧問がいる。…足りないのは、実務を取り仕切る『中間管理職』よ)


 ルミナは確信していた。


 自分がそのポジションに座れば、この地獄のような環境を、自分にとって快適な「王国」に作り変えることができる、と。


 勇者が泥にまみれてスライムを追いかけ、魔王が熱湯と格闘している間に、聖女は静かに、しかし着実に、塔の支配構造に食い込もうとしていた。


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