第六話「魔王の新たな玉座と、復讐の熱湯風呂」
バベル・ガーデン下層。
そこは、地獄の釜の底よりも熱く、そして孤独な場所だった。
無数に張り巡らされた真鍮とオリハルコンの合金配管。シューシューと噴き出す白濁した蒸気。
視界の全てが錆びた鉄色と白煙に覆われたその空間に、かつて世界を恐怖に陥れた「魔界の盟主」の姿があった。
「ぬぐぐぐ…!なぜだ…なぜこの私が、このような辱めを…!」
魔王ガルシスは、パンツ一丁の姿で膝をついていた。
彼の目の前には、巨大な魔導釜が鎮座している。
そして、彼の首には『隷属の首輪』が嵌められ、契約の強制力によって、この部屋から出ることを禁じられていた。
モフ、モフ、モフ。
蒸気の向こうから、足音らしき柔らかい音が聞こえてくる。
現れたのは、赤いマフラーのクマのぬいぐるみ――メルキオラスだ。
「やあ、魔王くん。新しい職場の居心地はどうだい?」
「貴様ァ…!私を、魔族の王たる私を、釜焚きにするつもりか!?」
ガルシスが吠える。彼の魔力は健在だ。
指を鳴らせば、この生意気なぬいぐるみなど消し炭に――。
「おっと。暴れると首輪が締まるよ?それに、借金のこと、忘れてないよね?」
メルキオラスが契約書をヒラヒラさせる。
その瞬間、ガルシスの身体から力が抜けた。
絶対的な契約魔法。
逆らえば、魂ごと消滅するリスクがある。
「君の仕事は簡単だ。その膨大な魔力を使って、この釜の水を温めること。…上の階に住む真音ちゃんはね、お風呂が大好きなんだ。彼女の安らぎのために、いいお湯を沸かしてね」
「ふ、ふざけるな!私の『黒炎』は神をも焼き尽くす滅びの炎だ!たかが小娘の行水のために使ってたまるか!」
「へえ、威勢がいいね。ま、頑張ってよ」
メルキオラスは興味なさげに手を振り、空間転移で姿を消した。
残されたのは、屈辱に震える魔王のみ。
「おのれ…おのれぇぇぇッ!!」
ガルシスの拳が震える。
プライドはズタズタだ。
だが、今の彼に契約を破る力はない。
ならば。
(…待てよ?)
ガルシスの瞳に、昏い光が宿った。
命令は「お湯を沸かすこと」。
ならば、その解釈を少しばかり「拡大」しても、契約違反にはならないのではないか?
「ククク…そうだ。奴らは知らないのだ。私の黒炎が、一度燃え上がれば全てを無に帰すまで消えないということを」
名案が閃いた。
適温のお湯など沸かしてやるものか。
我が全魔力を注ぎ込み、釜を暴走させ、煮えたぎる熱湯――否、鉄すら溶かす超高圧の魔力熱水を配管に送り込んでやる。
そうすれば、シャワーを浴びようとしたあの生意気な大家は、全身を大火傷して泣き叫ぶに違いない。
「復讐だ…!これこそが、魔王の復讐劇の幕開けよ!!」
ガルシスは立ち上がり、両手に漆黒の炎を纏わせた。
「唸れ、我が魔力!燃え上がれ、破壊の劫火!この塔ごと煮え立たせてくれるわァァァァッ!!」
ドゴォォォォォォォッ!!
ボイラー室が震動する。
禁呪級の黒炎が釜を包み込み、内部の水温計の針が一瞬で限界値を突破した。
パイプが赤熱し、悲鳴のような音を立てる。
魔力によって無理やり液体の形を留めさせられた、数百度を超える超臨界の熱水が、殺意の塊となって最上層のバスルームへと駆け上がっていく。
「ハーッハッハッハ!聞こえるぞ、貴様の断末魔が!熱かろう!痛かろう!ざまあみろ!!」
魔王は勝利を確信し、高笑いした。
これで奴も思い知るだろう。魔王を怒らせた代償を。
――その時だった。
ガンッ!!
ボイラー室の鋼鉄の扉が、内側へひしゃげた。
何かが衝突した音ではない。
「蹴り破られた」音だ。
「な…?」
もうもうと立ち込める蒸気の向こうから、一人の人影が現れた。
バスタオルを一枚羽織っただけの、小柄な少女。
濡れた黒髪から雫が滴り、白い肌はほんのりと――いや、真っ赤に紅潮している。
大家、真音だった。
「き、貴様…生きて…!?」
ガルシスは目を見開いた。
今の攻撃は、ドラゴンですら即死する熱量だったはずだ。火傷どころか、骨まで溶けていなければおかしい。
だが、彼女の肌には火傷一つない。ただ、少し「熱そうに」赤いだけだ。
真音は無言で近づいてくる。
その瞳は、深淵よりも深く、凍てつくように冷たい。
彼女の周囲の蒸気が、その殺気だけで凍りつき、キラキラとダイヤモンドダストになって落ちていく。
「…ねえ」
真音が、ガルシスの目の前で立ち止まった。
身長差は倍以上ある。
だが、ガルシスは蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
「あ、あんたは…」
「アンタ、ボイラー係の…えっと、ツノの人よね?」
名前すら覚えられていない。
だが、そんなことに憤る余裕すら、今のガルシスにはなかった。
「ちょっと熱すぎない?シャワー」
真音の声は低かった。地を這うような重低音。
「42度って言ったわよね?今のアレ、魔力加圧されてるとはいえ、鉄が溶ける温度だったわよ?」
「て、鉄が…」
「おかげで目が覚めちゃったじゃない。…私、ぬるめのお湯でリラックスするのが好きなの。熱湯コマーシャルがやりたいわけじゃないのよ」
ドンッ
真音の小さな手が、ガルシスの横にある太い鉄パイプを殴った。
赤熱していたはずのパイプが、一瞬でひん曲がり、そこから漏れ出た蒸気が真音の肌に触れて――ジュッと音を立てて消えた。
「殺す気?」
「ひぃッ!?」
ガルシスは腰を抜かした。
理解した。
この女には、魔法も、呪いも、熱も、物理法則すら通じない。
ただ単純に「生物としての格」が違いすぎるのだ。
溶鉱炉のような熱湯を浴びて、「目が覚めた」で済ませる生物に、勝てる道理があるはずがない。
「も、申し訳ございませんんんッ!!き、機材の調整ミスでありますッ!!魔力の出力調整が、その、暴走しまして!!」
魔王は土下座した。
額を床の鉄板に擦り付け、必死に許しを乞うた。
プライドなど、生存本能の前には無力だった。
「ふーん。調整ミス、ね」
真音は冷ややかな目で見下ろす。
「じゃあ、次は失敗しないわよね?」
「は、はいッ!二度としません!完璧な湯加減を提供いたします!」
「いい?私が好きなのは42度。41度じゃぬるいし、43度じゃ熱いの。その『1度の揺らぎ』も許さないわ」
真音は、ガルシスの角をガシッと掴んだ。
「もし次、私の肌がピリッとするような熱湯を出したら…アンタ自身を燃料にして沸かすから。わかった?」
「わ、わわ、分かりましたぁぁぁッ!!」
真音は手を離すと、興味なさげに背を向けた。
「じゃ、沸かし直して。今すぐ」
バタン。
ひしゃげた扉が閉まる。
ボイラー室に残されたのは、恐怖で失禁寸前の元魔王だけだった。
「…はぁ、はぁ…」
ガルシスは立ち上がった。
復讐心は消え失せた。代わりに、心に刻まれたのは「恐怖」と、そして奇妙な「使命感」だった。
42度。その絶対的な数値を維持しなければ、殺される。
そのためには、神をも焼く黒炎を、0.1度単位で制御する繊細な魔力操作が必要になる。
「やってやる…!42度だ…!それこそが、私が生き残る唯一の道!」
ガルシスは釜に向き直った。
その顔つきは、もはや破壊者ではない。
世界最高の「湯守」としての、職人の顔だった。
「燃えろ、我が小宇宙!安定しろ、我が黒炎!大家殿に、至高のバスタイムを捧げるのだァァァッ!!」
魔王は己の全神経を集中させ、釜の温度を42.0度に固定した。
完璧だ。これ以上ないほどの適温。これならば、あの大家も文句はあるまい。
――その時。
壁に備え付けられた配管伝声管から、鈴のような少女の声が響いた。
『あ、ボイラー室?管理人の真音よ』
ヒィッ、とガルシスの喉が引きつる。
『今からシャワー浴びるから、湯圧上げて。…あと、ちょっと寒いから温度は少し熱め、43度でお願い』
「――は?」
ガルシスの思考が停止した。
さっき、「43度じゃ熱い」「1度の揺らぎも許さない」と言っていなかったか?
命懸けで42度に固定した直後に、それをひっくり返すのか?
『聞こえてる?早くしてね。風邪ひいちゃう』
無慈悲な追加注文。
だが、今の彼に「さっきと言っていることが違う」などと反論する権利はない。
「は、はいぃぃッ!ただちに!!うおおおおっ!43度へ昇温!急げぇぇぇッ!!」
魔王の絶叫がこだまする。
理不尽な大家の気まぐれに振り回される日々。
それが、かつての魔界の盟主に与えられた、新たな「日常」だった。




