第五十九話「聖王国の影と、新たな密偵」
聖王国大聖堂、教皇執務室。
重厚なカーテンが閉ざされた薄暗い部屋で、教皇グレゴリウス四世は、手元の報告書を指で弾いた。
「…廃墟、か」
エリオットの報告書。
そこには『脅威なし』『管理されていない魔窟』と記されている。
だが、教皇の長年の勘が告げていた。
綺麗すぎる、と。
騎士団長ガウェインが語った「魔王」や「勇者」の存在と、エリオットが見た「無人の廃墟」。
この乖離は、あまりにも不自然だ。
「…セリーナ」
影の中から、一人の女性が音もなく現れた。
灰色の髪を短く切り揃え、鋭い知性を宿した瞳を持つ美女だ。
諜報部第二課所属、コードネーム『灰鷹』。
「御前に」
「行ってこい、西の塔へ。…エリオットが見落とした『ナニカ』を見つけてくるのだ」
「御意」
セリーナは短く答えると、風のように姿を消した。
◆◇◆◇◆
数十日後。バベル・ガーデン『麓市』。
そこは、今日も冒険者と商人の熱気に包まれていた。
「いらっしゃい!ダンジョン帰りの一杯はどうだい!」
「魔石の買取りならウチが一番だ!」
その雑踏の中に、一人の女性冒険者が混じっていた。
目立たない革鎧に身を包んだセリーナだ。
彼女は周囲の喧騒に溶け込みながら、鋭い観察眼で情報を収集していた。
(…おかしいわね)
彼女は眉をひそめた。
エリオットの報告書には『無秩序な魔窟』とあった。
だが、現実はどうだ。
入り口には受付嬢が配置され、完璧な入退場管理が行われている。
市場は区画整理され、警備兵が巡回し、スリや喧嘩などのトラブルを未然に防いでいる。
「これのどこが『廃墟』なのよ」
セリーナは、屋台で買った串焼きをかじりながら、内心で舌打ちした。
ここは完全に「機能している街」だ。
それも、聖王国のどの都市よりも治安が良く、民衆が明るいかもしれない。
彼女は市場を抜け、少し奥まった休憩所へと足を向けた。
そこには、非番の兵士たちがたむろしている。
元勇者軍の人間と、元魔王軍のオークが、同じテーブルで酒を酌み交わしている異常な光景。
「なあ、そろそろ田舎の母ちゃんに仕送りしようと思うんだが」
「おっ、親孝行だな。俺も来月の給料で新しい鍋を買う予定だ」
「小遣いがもらえるようになってから貯金が増えたよな。飯は美味いし、サウナはあるし」
「全くだ。…帰りたくねぇなぁ、国には」
盗み聞きしたセリーナは、耳を疑った。
帰りたくない?
正体不明の存在に操られ、強制的に従わされているはずの彼らが、ここを「天国」と呼んでいる?
(洗脳?いいえ、彼らの目は澄んでいる。…どういうことなの)
恐怖による支配ではない。
もっと強固な、利益と幸福による結束。
この塔の支配者は、一体何者なのか。
エリオットは騙されたのだ。
この完璧な「平和」という名のカモフラージュに。
いや、そもそもエリオットが訪れた際には、このような市はなかったはずなのだ。
「…もっと深くまで潜る必要があるわね」
セリーナは決意し、立ち上がった。
だが、その背中に視線を感じた。
振り返るが、誰もいない。ただ、風が吹いているだけだ。
(…気のせい?)
彼女は違和感を覚えながらも、ダンジョンエリアへと足を向けた。
◆◇◆◇◆
その頃。バベル・ガーデン総務室。
メルキオラスは、モニターに映るセリーナの背中を見つめながら、楽しげに笑っていた。
「おや、また新しいお客様だね。今度は女性か」
「…聖王国の諜報員ですね。動きに無駄がありません」
隣でルミナが冷静に分析する。
「前の彼の報告に疑念を抱いた教皇が、セカンドオピニオンを求めて派遣したのでしょう。…どうしますか?彼女は動きは目線から、一筋縄ではいきにそうにないと感じます。あれは…この塔の『機能性』に気づいていますね」
「そうだね。彼女は賢い。…だからこそ、泳がせよう」
メルキオラスは、考えこみながら言った。
「彼女が見ているのは『平和で機能的な街』だ。魔王の軍勢でも、破壊兵器の工場でもない。…その情報を持ち帰らせれば、聖王国はさらに混乱する」
「混乱、ですか?」
「そう。『廃墟だという報告』と『平和な街だという報告』。矛盾する二つの情報が、彼らの意思決定を遅らせる。…疑心暗鬼になればなるほど、手出しできなくなるのさ」
メルキオラスの黒い瞳が、悪戯っぽく光る。
「それに、彼女…少し真面目すぎるね。この塔の『空気』に当てられて、ミイラ取りがミイラになるかもしれないよ?」
「…なるほど。取り込む、ということですね」
ルミナは納得し、監視レベルを『観察』から『接待』へと切り替えた。
◆◇◆◇◆
セリーナは、ダンジョンエリア(第一層)を探索していた。
ここもまた、管理が行き届いている。
危険な魔物は間引かれ、採取ポイントには目印があり、崩れそうな壁には補強が施されている。
「…完璧すぎる」
彼女は呟いた。
これは、個人の力ではない。
高度な組織力と、膨大な資金、そして圧倒的な「管理者」の存在を示唆している。
その時。
前方の通路から、楽しげな声が聞こえてきた。
「きゃはは!見て見て、変なキノコ!」
「こら、触るなよ。毒があるかもしれないだろ」
若い冒険者のカップルだ。
彼らは恐怖など微塵も感じていない様子で、ピクニック気分で歩いている。
「ねえ、帰りに市場でクレープ食べようよ」
「いいな。俺はエナジーバーも買いたい」
幸せそうな会話。
セリーナは、壁の陰で唇を噛んだ。
(私が知っている…いえ、聞かされていた『脅威』とは何だったの?ここは…あまりにも平和すぎる)
彼女の正義感が揺らぐ。
聖王国は、ここを敵と見なしている。
だが、実際にここにあるのは、人々が笑顔で暮らす豊かな社会だ。
これを破壊することが、本当に正義なのか?
「…もっと、知らなければ」
彼女は、さらに奥へと進む。
その先に待ち受けるのが、彼女の価値観を根底から覆す「真実(温泉と美食)」だとは知らずに。
新たな密偵セリーナ。
彼女の潜入はまだ始まったばかり。
そして、この塔の「毒(魅力)」は、彼女のような真面目な人間ほど、深く、甘く蝕んでいくのである。




