第五十八話「大家の市場デビューと、商人たちの驚愕」
バベル・ガーデン『樹洞の聖域』。
午後のおやつタイム(今日はヴォルグ特製フルーツタルト)を終えた真音は、地上の様子が映るモニターををじっと見つめていた。
「ねえ、くまちゃん」
「ん?どうしたんだい、真音ちゃん」
メルキオラスが読みかけの報告書から顔を上げる。
「買い物、行きたい」
「…買い物?」
メルキオラスは目を瞬かせた。
必要なものは全てルミナたちが手配し、最高級品が部屋に届くシステムになっているはずだ。
「この間、市場で串焼き食べたじゃない?あそこ、もっと奥までいっぱいお店があったのよ」
真音は頬杖をつき、少し不満げに口を尖らせた。
「あの時はリッカもいたし、ただの味見で終わっちゃったけど…もっとじっくり見たいの。雑貨とか、変な色の果物とか、そういうの」
「ああ、なるほど。『ウィンドウショッピング』ってやつだね」
メルキオラスは納得したように頷く。
確かに、彼女は大家である以前に、(見た目も気持ちも)年頃の少女だ。
カタログ注文ではなく、自分の足で見て回る楽しさを求めるのは当然のことだろう。
「でも、今の君が普通に行ったらパニックになるよ?『大家様ご光臨だー!』って、みんな地面に額を擦り付けちゃうから、買い物どころじゃなくない?」
以前と違って、真音の顔は意外に知れ渡っていた。特に一部の商人の間では絶大な人気を博すくらいに…
「むぅ…それが嫌なのよ。普通にしたいの、普通に」
真音はテーブルに突っ伏した。
絶対的な権力者ゆえの孤独。
メルキオラスは苦笑し、空間収納から一枚の布を取り出した。
「じゃあ、変装しようか」
「変装?」
「そう。正体を隠して、『お忍び』で市場に潜入するんだ」
◆◇◆◇◆
バベル・ガーデン地上、『麓市』。
そこは今日も、大陸中から集まった商人と冒険者たちの熱気でごった返していた。
「いらっしゃい!北の雪国から仕入れた氷晶石だよ!」
「ポーションの特売だ!まとめ買いがお得だぞ!」
その喧騒の中を、一人の小柄な冒険者風の少女が歩いていた。
目深に被ったフード付きのマント。
背中には小さなリュック。
そして腕には、黒いクマのぬいぐるみ(ただの人形のフリをしているメルキオラス)を抱えている。
(…ふふっ。誰も気づいてない)
フードの下で、真音はニヤリと笑った。
すれ違う冒険者も、声を張り上げる商人も、彼女を「ただの観光客か初心者の冒険者」としか見ていない。
視線が、痛くない。
恐怖も、過剰な敬意もない。ただの「群衆の一人」としての扱い。
「…なんか、変な感じ」
真音は呟き、果物屋の屋台の前で足を止めた。
見たこともない、紫色のイボイボした果実が積まれている。
「おっ、お嬢ちゃん!お目が高いねぇ!」
店主の男が、気安く声をかけてきた。
「それは南方の『雷鳴果』だ。食べると口の中でパチパチ弾けるんだぜ?刺激的で美味いよ!」
「へえ…。辛いの?」
「いやいや、甘酸っぱいんだよ。ほら、試食してみな!」
男はナイフで切れ端を切り、真音に差し出した。
真音は恐る恐る口に入れる。
――パチパチパチッ!
「んっ!?」
口の中で炭酸のような刺激が走り、直後に爽やかな酸味が広がる。
「…面白い!これ、好きかも」
「だろ?一個銀貨一枚だけど、お嬢ちゃん可愛いから二個オマケしとくよ!」
「ほんと?ありがとう!」
真音は目を輝かせ、財布から銀貨を取り出した。
ルミナに渡されたお小遣いだ。
自分の手で、お金を払って、物を得る。
ただそれだけのことが、新鮮で、たまらなく楽しい。
(あの時は串焼きだけだったけど…これかぁ。これが『買い物』かぁ)
真音は雷鳴果が入った紙袋を大事そうに抱え、次のお店へと向かった。
◆◇◆◇◆
次は雑貨屋だ。
所狭しと並べられたガラス細工や、リボンの髪飾り。
「わあ…キラキラしてる」
真音は小さなガラスの小鳥を手に取った。
魔力的な価値は皆無だ。メルキオラスが作る魔道具に比べれば、脆くて役には立たない。
でも、光に透かすと綺麗だった。
「それは『歌う硝子』だよ。風が吹くと音が鳴るんだ」
女店主が優しく説明する。
「へえ…。私の部屋の窓辺に置いたら、可愛いかも」
「きっと似合うよ。旅の思い出にどうだい?」
「うん、これにする!」
真音は次々と店を回った。
珍しい布、変な形の木彫りの人形、甘い匂いのする香油。
メルキオラスも、腕の中でピクリとも動かずに気配を消しているが、その瞳は楽しげに真音を見守っている。
(楽しい…!)
真音の心は弾んでいた。
誰も私を「大家様」と呼ばない。
ただの客として、商品を勧め、値切り交渉をし、笑い合う。
この雑多で、生々しい空気こそが、ずっと欲しかった「世界」の手触りだったのだ。
「よーし、次はあっちの服屋さんを見て…」
真音は上機嫌で振り返り――その拍子に、背後の冒険者とぶつかった。
ドンッ!
「あっと!すまねえ!」
「きゃっ!?」
よろめいた真音を、冒険者が親切心で支えようと手を伸ばす。
その手が、運悪くフードの端に引っかかった。
バサッ。
布がめくれる音。
午後の日差しの中に、艶やかな黒髪と――頭頂部の、丸くて愛らしい二つの「熊耳」が露わになった。
一瞬の静寂。
市場の喧騒が、まるでスイッチを切ったようにピタリと止まる。
支えようとした冒険者が、石化したように固まった。
果物を売っていた男が、口を開けたまま硬直した。
通りすがりのリッカが、「あ」と顔を覆った。
その耳を知らない者は、このバベル・ガーデンにはいない。
絶対権力者の証。
逆らえばデコピンでお空の星にされるという、生ける伝説の象徴。
「…あ」
真音が気まずそうに声を漏らす。
次の瞬間。
「お、お、お、大家様だァァァァァァァッ!!??」
市場が爆発したようなパニックに陥った。
「ひぃぃぃッ!本物だ!あのお耳は本物だ!」
「俺、さっき『お嬢ちゃん』って呼んじまった!死ぬ!不敬罪で消し炭にされる!」
「土下座しろ!全員地面に埋まれぇぇッ!」
ザッ、ザッ、ザッ…!
波が引くように、真音の周囲に半径十メートルの空白地帯ができあがる。
商人たちも冒険者たちも、一斉にその場に平伏した。
「大家様ッ!よ、ようこそお越しくださいました!」
「当店の品物は全て無料でございます!ど、どうぞお納めください!」
「靴をお舐めいたしましょうか!?」
先ほどまでのフレンドリーな空気は消え失せ、過剰なまでのへりくだりと、恐怖と好奇と好気に満ちた絶叫がこだまする。
真音はフードを被り直し、ため息をついた。
「…はぁ。バレちゃった」
彼女は腕の中のメルキオラス(人形のフリを解除して動き出した)を見た。
「つまんないの。…普通の方が楽しかったのに」
真音は少し寂しそうに唇を尖らせた。
特別扱いされるのは慣れている。でも、さっきまでの「ただの客」としての時間は、かけがえのないものだった。
「まあまあ。それだけ君の威光が轟いている証拠だよ」
メルキオラスが苦笑しながらフォローする。
真音は気を取り直し、平伏する商人たちを見回した。
「…顔を上げなさいよ。買い物に来ただけなんだから」
真音の声に、恐る恐る顔を上げる人々。
「さっきの果物屋のおじさん」
「ひ、ひぃッ!命だけは!」
「あの果物、美味しかったわ。…あとでヴォルグに言って、食堂のメニューに加えさせるから、定期的に納品しなさい」
「え…?は、はいッ!喜んでぇぇッ!」
男が感涙にむせぶ。
真音はツンと顔を背けた。
「タダでは貰わないわよ。…ちゃんと、お金は払うから」
彼女はリュックを背負い直し、スタスタと歩き出した。
モーゼの十戒のように割れる人波の中を、堂々と、しかし少しだけ残念そうに。
「帰るわよ、くまちゃん。…人混みに酔っちゃった」
「了解。でも、いい買い物はできたかい?」
「…うん。楽しかった」
真音は、胸に抱いたガラスの小鳥と、果物の入った袋をギュッと抱きしめた。
お忍び作戦は失敗したけれど、手に入れた「普通の思い出」は、どんな宝物よりもキラキラと輝いていた。
その日の夜。
樹洞の聖域の窓辺には、風を受けてチロチロと涼やかな音色を奏でる、安っぽいガラスの小鳥が飾られた。
それは、世界樹の主が初めて自分の足で手に入れた、小さくて大切な戦利品であった。




