表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/66

第五十八話「大家の市場デビューと、商人たちの驚愕」

 バベル・ガーデン『樹洞の聖域』。


 午後のおやつタイム(今日はヴォルグ特製フルーツタルト)を終えた真音は、地上の様子が映るモニターををじっと見つめていた。


「ねえ、くまちゃん」


「ん?どうしたんだい、真音ちゃん」


 メルキオラスが読みかけの報告書から顔を上げる。


「買い物、行きたい」


「…買い物?」


 メルキオラスは目を瞬かせた。


 必要なものは全てルミナたちが手配し、最高級品が部屋に届くシステムになっているはずだ。


「この間、市場で串焼き食べたじゃない?あそこ、もっと奥までいっぱいお店があったのよ」


 真音は頬杖をつき、少し不満げに口を尖らせた。


「あの時はリッカもいたし、ただの味見で終わっちゃったけど…もっとじっくり見たいの。雑貨とか、変な色の果物とか、そういうの」


「ああ、なるほど。『ウィンドウショッピング』ってやつだね」


 メルキオラスは納得したように頷く。


 確かに、彼女は大家である以前に、(見た目も気持ちも)年頃の少女だ。


 カタログ注文ではなく、自分の足で見て回る楽しさを求めるのは当然のことだろう。


「でも、今の君が普通に行ったらパニックになるよ?『大家様ご光臨だー!』って、みんな地面に額を擦り付けちゃうから、買い物どころじゃなくない?」


 以前と違って、真音の顔は意外に知れ渡っていた。特に一部の商人の間では絶大な人気を博すくらいに…


「むぅ…それが嫌なのよ。普通にしたいの、普通に」


 真音はテーブルに突っ伏した。


 絶対的な権力者ゆえの孤独。


 メルキオラスは苦笑し、空間収納から一枚の布を取り出した。


「じゃあ、変装しようか」


「変装?」


「そう。正体を隠して、『お忍び』で市場に潜入するんだ」



◆◇◆◇◆



 バベル・ガーデン地上、『麓市ふもといち』。


 そこは今日も、大陸中から集まった商人と冒険者たちの熱気でごった返していた。


「いらっしゃい!北の雪国から仕入れた氷晶石だよ!」


「ポーションの特売だ!まとめ買いがお得だぞ!」


 その喧騒の中を、一人の小柄な冒険者風の少女が歩いていた。


 目深に被ったフード付きのマント。


 背中には小さなリュック。


 そして腕には、黒いクマのぬいぐるみ(ただの人形のフリをしているメルキオラス)を抱えている。


(…ふふっ。誰も気づいてない)


 フードの下で、真音はニヤリと笑った。


 すれ違う冒険者も、声を張り上げる商人も、彼女を「ただの観光客か初心者の冒険者」としか見ていない。


 視線が、痛くない。


 恐怖も、過剰な敬意もない。ただの「群衆の一人」としての扱い。


「…なんか、変な感じ」


 真音は呟き、果物屋の屋台の前で足を止めた。


 見たこともない、紫色のイボイボした果実が積まれている。


「おっ、お嬢ちゃん!お目が高いねぇ!」


 店主の男が、気安く声をかけてきた。


「それは南方の『雷鳴果サンダー・フルーツ』だ。食べると口の中でパチパチ弾けるんだぜ?刺激的で美味いよ!」


「へえ…。辛いの?」


「いやいや、甘酸っぱいんだよ。ほら、試食してみな!」


 男はナイフで切れ端を切り、真音に差し出した。


 真音は恐る恐る口に入れる。


 ――パチパチパチッ!


「んっ!?」


 口の中で炭酸のような刺激が走り、直後に爽やかな酸味が広がる。


「…面白い!これ、好きかも」


「だろ?一個銀貨一枚だけど、お嬢ちゃん可愛いから二個オマケしとくよ!」


「ほんと?ありがとう!」


 真音は目を輝かせ、財布から銀貨を取り出した。


 ルミナに渡されたお小遣いだ。


 自分の手で、お金を払って、物を得る。


 ただそれだけのことが、新鮮で、たまらなく楽しい。


(あの時は串焼きだけだったけど…これかぁ。これが『買い物』かぁ)


 真音は雷鳴果が入った紙袋を大事そうに抱え、次のお店へと向かった。



◆◇◆◇◆



 次は雑貨屋だ。


 所狭しと並べられたガラス細工や、リボンの髪飾り。


「わあ…キラキラしてる」


 真音は小さなガラスの小鳥を手に取った。


 魔力的な価値は皆無だ。メルキオラスが作る魔道具に比べれば、脆くて役には立たない。


 でも、光に透かすと綺麗だった。


「それは『歌う硝子』だよ。風が吹くと音が鳴るんだ」


 女店主が優しく説明する。


「へえ…。私の部屋の窓辺に置いたら、可愛いかも」


「きっと似合うよ。旅の思い出にどうだい?」


「うん、これにする!」


 真音は次々と店を回った。


 珍しい布、変な形の木彫りの人形、甘い匂いのする香油。


 メルキオラスも、腕の中でピクリとも動かずに気配を消しているが、その瞳は楽しげに真音を見守っている。


(楽しい…!)


 真音の心は弾んでいた。


 誰も私を「大家様」と呼ばない。


 ただの客として、商品を勧め、値切り交渉をし、笑い合う。


 この雑多で、生々しい空気こそが、ずっと欲しかった「世界」の手触りだったのだ。


「よーし、次はあっちの服屋さんを見て…」


 真音は上機嫌で振り返り――その拍子に、背後の冒険者とぶつかった。


 ドンッ!


「あっと!すまねえ!」


「きゃっ!?」


 よろめいた真音を、冒険者が親切心で支えようと手を伸ばす。


 その手が、運悪くフードの端に引っかかった。


 バサッ。


 布がめくれる音。


 午後の日差しの中に、艶やかな黒髪と――頭頂部の、丸くて愛らしい二つの「熊耳」が露わになった。


 一瞬の静寂。


 市場の喧騒が、まるでスイッチを切ったようにピタリと止まる。


 支えようとした冒険者が、石化したように固まった。


 果物を売っていた男が、口を開けたまま硬直した。


 通りすがりのリッカが、「あ」と顔を覆った。


 その耳を知らない者は、このバベル・ガーデンにはいない。


 絶対権力者の証。


 逆らえばデコピンでお空の星にされるという、生ける伝説の象徴。


「…あ」


 真音が気まずそうに声を漏らす。


 次の瞬間。


「お、お、お、大家様だァァァァァァァッ!!??」


 市場が爆発したようなパニックに陥った。


「ひぃぃぃッ!本物だ!あのお耳は本物だ!」


「俺、さっき『お嬢ちゃん』って呼んじまった!死ぬ!不敬罪で消し炭にされる!」


「土下座しろ!全員地面に埋まれぇぇッ!」


 ザッ、ザッ、ザッ…!


 波が引くように、真音の周囲に半径十メートルの空白地帯ができあがる。


 商人たちも冒険者たちも、一斉にその場に平伏した。


「大家様ッ!よ、ようこそお越しくださいました!」


「当店の品物は全て無料タダでございます!ど、どうぞお納めください!」


「靴をお舐めいたしましょうか!?」


 先ほどまでのフレンドリーな空気は消え失せ、過剰なまでのへりくだりと、恐怖と好奇と好気に満ちた絶叫がこだまする。


 真音はフードを被り直し、ため息をついた。


「…はぁ。バレちゃった」


 彼女は腕の中のメルキオラス(人形のフリを解除して動き出した)を見た。


「つまんないの。…普通の方が楽しかったのに」


 真音は少し寂しそうに唇を尖らせた。


 特別扱いされるのは慣れている。でも、さっきまでの「ただの客」としての時間は、かけがえのないものだった。


「まあまあ。それだけ君の威光が轟いている証拠だよ」


 メルキオラスが苦笑しながらフォローする。


 真音は気を取り直し、平伏する商人たちを見回した。


「…顔を上げなさいよ。買い物に来ただけなんだから」


 真音の声に、恐る恐る顔を上げる人々。


「さっきの果物屋のおじさん」


「ひ、ひぃッ!命だけは!」


「あの果物、美味しかったわ。…あとでヴォルグに言って、食堂のメニューに加えさせるから、定期的に納品しなさい」


「え…?は、はいッ!喜んでぇぇッ!」


 男が感涙にむせぶ。


 真音はツンと顔を背けた。


「タダでは貰わないわよ。…ちゃんと、お金は払うから」


 彼女はリュックを背負い直し、スタスタと歩き出した。


 モーゼの十戒のように割れる人波の中を、堂々と、しかし少しだけ残念そうに。


「帰るわよ、くまちゃん。…人混みに酔っちゃった」


「了解。でも、いい買い物はできたかい?」


「…うん。楽しかった」


 真音は、胸に抱いたガラスの小鳥と、果物の入った袋をギュッと抱きしめた。


 お忍び作戦は失敗したけれど、手に入れた「普通の思い出」は、どんな宝物よりもキラキラと輝いていた。


 その日の夜。


 樹洞の聖域の窓辺には、風を受けてチロチロと涼やかな音色を奏でる、安っぽいガラスの小鳥が飾られた。


 それは、世界樹の主が初めて自分の足で手に入れた、小さくて大切な戦利品であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ