第五十一話「開国準備と、受付嬢の誕生」
バベル・ガーデン七五六層、修復作業現場。
ここは、かつての栄光も身分も関係なく、ただ汗と泥にまみれる平等なる労働の場である。
「そこの瓦礫、もっと右ですわ!重心を低く!腰を痛めますわよ!」
凛とした、しかしどこか優雅さを隠しきれない声が響く。
声の主は、一人の女性兵士だ。
金髪をきっちりとシニヨンにまとめ、作業着を着ていても滲み出る気品。
元・勇者軍騎士、フィオーレである。
「はっ!すいません、フィオーレ班長!」
「謝罪は不要です。作業効率を上げなさい。…我々の働きが、この塔の礎となるのですから!」
フィオーレは、自身の体重ほどもある石材を軽々と担ぎ上げながら、汗を拭った。
彼女は元貴族の令嬢だ。
だが、この塔に来て「労働」の尊さを知った。
泥にまみれ、肉体を酷使し、その対価として得られる一杯のスープの美味さ。それは舞踏会のシャンパンよりも格別だった。
(ああ…今日もいい汗をかきましたわ。この筋肉の痛みこそ、生きている証…!)
彼女が労働の喜びに打ち震えていると、懐の通信用魔石が震えた。
現場監督からの呼び出しだ。
『フィオーレ班長。直ちに総務室へ出頭せよ。ルミナ部長がお呼びだ』
フィオーレの動きが止まる。
総務室への呼び出し。それは通常、重大な規律違反への処罰か、あるいは――。
「…まさか、クビ(廃棄処分)…ですの?」
彼女の顔から血の気が引いた。
◆◇◆◇◆
総務室、特別応接室。
重厚な扉の前で、フィオーレは深呼吸を三回繰り返した。
覚悟を決める。
たとえどのような処分が下ろうとも、騎士としての誇りを持って受け入れよう。
「失礼いたします!」
フィオーレは軍人のようにキビキビとした動作で入室し、最敬礼を行った。
部屋には、二人の人物が待っていた。
総務部長ルミナ。
そして、バベル・ガーデンの頭脳である賢者メルキオラスだ。
「およびでしょうか。…どのような罰でも、甘んじて受け入れる所存ですわ」
悲壮な決意を込めてフィオーレが告げると、ルミナが目を丸くし、そしてクスクスと笑った。
「罰?違いますよ、フィオーレさん。貴女を呼んだのは、新しい任務についてもらうためです」
「新しい…任務?」
「ええ。貴女には、今日から作業着を脱ぎ、制服に着替えてもらいます」
ルミナは、一枚の辞令書と、見たこともない洗練されたデザインの制服をテーブルに置いた。
「任命。『バベル・ガーデン総合受付・責任者』」
フィオーレは瞬きをした。
言葉の意味が、脳内で処理しきれない。
「う、受付…ですの?私が?」
「そうだよ」
メルキオラスが、短い手を組んで穏やかに語りかける。
「知っての通り、僕たちはこの塔の一部を外部に開放することにした。これから、たくさんの冒険者や商人がやってくる。…その時、最初に彼らを出迎える『塔の顔』が必要なんだ」
メルキオラスはフィオーレを真っ直ぐに見つめた。
「君の経歴を見せてもらったよ。元貴族で、礼儀作法は完璧。事務処理能力も高く、語学も堪能。そして何より…現場での勤勉な態度は、誰もが認めている」
「そ、そんな…過大評価ですわ!」
「謙遜はいりません」
ルミナが眼鏡をキラリと光らせた。
「あの荒くれ者たちを統率するカリスマと、貴族としての品格。両方を併せ持つのは貴女しかいないのです」
フィオーレの胸が高鳴った。
必要とされている。
ただの労働力としてではなく、一人の人間としての能力を評価されたのだ。
「そして、もう一つ」
メルキオラスが指を鳴らす。
カチリ。
フィオーレの首に巻かれた黒い革のチョーカー――『隷属の首輪』が、青白く発光した。
「えっ…?」
「おめでとう。君は、先日制定された『首輪緩和制度』の第一号適用者だ」
首輪から、締め付けるような圧迫感が消えた。
完全に外れたわけではない。だが、これまで感じていた「見えない鎖」が、ふっと軽くなったのが分かった。
「これにより、君の行動範囲制限を解除する。…今日から君は、これまでのエリアに加えて、下層エリア全域、そして第一層の『外』へ出ることも許可される」
「そ、外へ…!?」
フィオーレはその場に崩れ落ちそうになった。
外。
二度と見られないと思っていた、壁の向こうの世界。
「本当…なのですか?私ごときが、そのような自由を…」
「自由じゃないよ。信頼だ」
ルミナが優しく、しかし力強く言った。
「私たちは貴女を信じて、入り口の鍵を預けるのです。…やってくれますね?」
フィオーレの瞳に、涙が滲んだ。
だが、彼女はそれを拭い、凛と顔を上げた。
「…はいッ!この命に代えても!バベル・ガーデンの『顔』としての務め、全うしてみせますわ!」
◆◇◆◇◆
翌日。バベル・ガーデン第一層。
世界樹の根元にある巨大な開口部は、劇的な変貌を遂げていた。
以前は東西南北すべてにあった開口部が、現在は西側一つだけとなっていおり、周辺や内部に散乱していた瓦礫は撤去され、磨き上げられた石畳が敷かれていた。
入り口には重厚なマホガニー製のカウンターと、その後ろには小部屋が設置され、巨大な『バベル・ガーデン利用規約』の看板が掲げられていた。
「素晴らしい…。ここが、私の新しい戦場…!」
フィオーレは、真新しい制服に身を包み、カウンターの中に立っていた。
タイトなスカートに、清潔感のあるブラウスとベスト。
貴族令嬢時代のドレスよりも動きやすく、作業着よりも背筋が伸びる。
「準備はいいかしら、フィオーレ」
ルミナが、大量のマニュアルを抱えてやってきた。
「はい、ルミナ部長!清掃、備品確認、すべて完了しております!」
「よろしい。では、リハーサルを行いましょう。…お客様役、入って」
ルミナの合図で、入り口から数名のオーク兵士たちが入ってきた。
彼らは冒険者に扮装しているが、どう見てもガラが悪い。
「へへっ、姉ちゃん。ここが新しいダンジョンか?俺らを通してくれよぉ」
「入場料?そんなもん払うかよ。俺らは強いんだぜ?」
オークたちがニヤニヤしながらカウンターに詰め寄る。
フィオーレの眉がピクリと動いた。
(…なるほど。こういう『手合い』への対応も業務のうち、ということですのね)
彼女はスッと目を細めた。
その瞬間、貴族令嬢の優雅な微笑みが、歴戦の騎士の『殺気』を含んだ冷笑へと変わる。
「――お客様?」
ドサッ。
フィオーレは、受付名簿(分厚いハードカバー)をカウンターに叩きつけた。
その音だけで、オークたちがビクリと震える。
「当施設は、品位ある冒険者のための場所ですわ。…そのような薄汚れた態度で、神聖なる世界樹の庭に入ろうなどと…」
彼女はカウンターから身を乗り出し、オークの鼻先に顔を近づけた。
「万死に値しますわよ?…出直していらっしゃい」
「ヒィッ!?」
オークたちが後ずさる。
フィオーレの背後には、幻影の炎が見えるようだった。
ルミナがパンパンと手を叩く。
「カット!…フィオーレさん、迫力は十分ですが、少し怖すぎます」
「あ…!も、申し訳ありません!つい、戦場の癖が…!」
「笑顔です。お客様を歓迎する、慈愛に満ちた笑顔を忘れないでください。…ただし、毅然とした態度はそのままで」
ルミナは苦笑しながらアドバイスを送る。
フィオーレは赤面しつつ、鏡を取り出して「笑顔」の練習を始めた。
「こ、こうですの?いらっしゃいませ…(引きつった笑み)」
「もっと自然に。…そう、貴女ならできます」
◆◇◆◇◆
リハーサルが続く中、不意に上空から気配が降りてきた。
「――なんか、面白そうなことしてるじゃない」
ヒュンッ。
エプロンドレスの少女――大家、真音が出現した。
手にはスライム・ドロップの入った袋を持ち、頭の上の熊耳が興味深そうにピコピコと動いている。
「お、大家様ッ!?」
フィオーレとオークたちが一斉に最敬礼の姿勢を取る。
真音はカウンターの上にひょいと座り、フィオーレをじろじろと眺めた。
「ふーん。アンタが新しい受付?」
「は、はいッ!フィオーレと申します!」
「元貴族なんだって?」
「はッ!…今はただの、バベル・ガーデンの犬でございます!」
「犬って…」
真音は呆れたように笑い、スライム・ドロップを一粒フィオーレの口に押し込んだ。
「んむっ!?」
「あげる。…働きすぎないようにね。アンタが倒れたら、代わりを探すのが面倒くさいから」
乱暴な物言い。
だが、そのドロップの甘さは、フィオーレの緊張を解くには十分すぎた。
「あの…大家様」
「なに?」
「ここの『顔』として…恥じぬよう、精一杯務めさせていただきますわ!」
フィオーレが満面の笑み(今度は自然な)を向けると、真音は少し照れたように視線を逸らした。
「…ま、期待しとくね。変な客が来たら、デコピンで追い返していいから」
「ふふっ、心得ましたわ」
真音が去った後、フィオーレは改めてカウンターの中に立った。
窓の外には、広大な森が広がっている。
かつては閉じ込められていた場所。
だが今は、ここが世界への入り口だ。
「さあ…いつでもいらして!」
フィオーレは羽ペンを取り、インク壺に浸した。
その背中は、どんな重装備の騎士よりも頼もしく、そして美しかった。
数か月後。
バベル・ガーデンを訪れた冒険者たちの間で、こんな噂が広まることになる。
『あの塔の受付嬢、めちゃくちゃ美人だけど、マナー違反するとオークより怖いらしいぞ』
『笑顔で「出直してくださる?」って言われた時、俺、ちびりそうになったわ』
鉄壁の受付嬢フィオーレ。
彼女の「笑顔の検問」を突破できるのは、真に礼儀正しき冒険者のみである。




