第四十九話「新たな来訪者と、商人の仲間」
ざわめく大森林。
木々のざわめきすらも、ここ数日の恐怖体験のフラッシュバックに聞こえる。
「し、師匠ぉぉぉ!待ってくださいよぉぉ!もう足が棒です!いや、棒通り越してコンニャクですぅ!」
情けない悲鳴を上げながら、苔むした根っこに躓きそうになる青年がいた。
彼の名はルド。
金色の髪に、少し垂れ下がった眉。見るからに気弱そうな風貌の駆け出し商人だ。
背中には、自分の体躯ほどあるリュックを背負っているが、その足取りは生まれたての小鹿のように震えている。
「情けないわね、ルド。それでも私の『一番弟子』?」
前方を涼しい顔で歩くのは、その倍以上の巨大リュックを背負った赤髪の少女――リッカだ。
「だってぇ!ここ、危ない大森林じゃないですか!さっきから見たこともない色のカエルとか、牙の生えた花とかがこっち見てるんですよ!?死ぬ!僕、絶対ここで養分になって死ぬんです!」
「大丈夫よ。私の後ろにいれば、魔物は寄ってこないわ」
「その根拠のない自信が怖いんですぅッ!」
ギャーギャーと騒ぐルドを無視し、リッカは足を止めた。
目の前に、天を突く巨木――世界樹の根元がそびえ立っていた。
そして、その根に抱かれるようにして存在する、巨大な石造りの回廊。
バベル・ガーデン第一層。
「着いたわよ」
「ひぃッ…!な、なんですかこの威圧感!?ここが例の『お得意様』の家ですか!?魔王の城の間違いじゃなくて!?」
ルドがガタガタと震えていると、回廊の奥からヒール音が響いた。
カツ、カツ、カツ…。
現れたのは、知的な眼鏡をかけた美女。
総務部長ルミナである。
「お疲れ様、リッカ。今月も早かったわね」
「はい!今回は頼もしい(?)助手がいたので、荷物を増やせましたから!」
ルミナは眼鏡の奥で鋭い光を走らせ、リッカの背後で縮こまっている青年を見やった。
「…そちらの方は?」
「ひいぃッ!み、見られた!値踏みするような目で見られたぁ!」
ルドはリッカの背中に隠れようとするが、ルミナの放つ「できる女」オーラに圧倒され、直立不動になった。
「は、初めまして!リッカ師匠の弟弟子、ル、ルドと申しますぅ!趣味は貯金と逃走です!命だけは助けてください!」
「…命?」
ルミナは訝しげに眉を寄せたが、すぐに事務的な笑みを浮かべた。
「歓迎するわ、ルドさん。私はここの総務を預かるルミナ。…取って食ったりしないから、安心して入って」
ルミナが手招きする。その背後の闇が、魔物の口に見えて仕方がないルドであった。
◆◇◆◇◆
総務室の奥、応接スペース。
通されたルドは、出されたお茶にも手を付けず、借りてきた猫のようにソファの端で震えていた。
「なるほど。販路拡大に伴い、物流の人手が足りなくなってきた、ということだね」
対面のソファには、黒いクマのぬいぐるみ――賢者メルキオラスが座っている。
「は、はい!ルドは臆病ですが、計算は早いですし、何より口が堅いんです。私の『商売敵』に情報を売るような度胸もありませんから」
リッカが笑いながらルドの背中をバンと叩く。
「ぶべっ!し、師匠、褒めてるんですかそれ!?」
「褒めてるわよ。商人に必要なのは『信用』だもの」
メルキオラスは、小さな瞳でじっとルドを観察した。
その視線には、数千年の時を生きた賢者の眼力が宿っている。
(…ふむ。確かに気弱そうだが、邪気はないね。恐怖を感じながらも、ここまでついてきた忠誠心は本物か)
「わかった。彼も『取引相手』として承認しよう」
「ありがとうございます、賢者様!」
「よ、よかったぁ…殺されるかと思った…」
ルドが安堵のため息をつき、ようやくお茶に手を伸ばそうとした、その時。
ヒュンッ!
空間が歪み、天井から「ナニカ」が降ってきた。
「――ねえ、おやつ」
ドサッ。
ソファの真ん中、ルドとリッカの間に着地したのは、エプロンドレスの少女――大家、真音だった。
頭の上の丸い熊耳が、獲物を探すようにピクリと動く。
「ぎゃああああああああああッ!!??」
ルドは悲鳴を上げ、ソファから転がり落ちて床を這いずった。
「で、出たぁぁぁ!なんですかこの子!?気配がなかった!いきなり空から!しかも耳!?クマの耳!?」
「…うるさい」
真音はジト目でルドを見下ろした。
その瞳は、深淵のように黒く、底知れない。
ルドの本能が警鐘を鳴らす。
目の前にいるのは、可愛い少女ではない。
食物連鎖の頂点に立つ『捕食者』だと。
「リッカ。…この騒がしい小動物、なに?非常食?」
「ち、違いますぅぅ!食べないでぇぇ!僕は筋張ってて美味しくないですぅぅ!」
ルドが床に額を擦り付けて懇願する。
リッカは苦笑しながら、真音に新しい木箱を差し出した。
「大家様、こちらは新人のルドです。…そして、今月のお土産はこれです」
「…箱?」
真音はルドへの興味を失い(ルドは「助かった…」と脱力した)、箱を開けた。
中には、焼き色のついた薄い円盤状の菓子が詰まっている。
「ビスケットです。バターをたっぷり使って、サクサクに焼き上げました」
「ふーん」
真音は一枚手に取り、サクッと齧った。
小気味よい音。
バターの芳醇な香りと、小麦の甘みが口いっぱいに広がる。
「…ん!美味しい」
真音の熊耳がパタパタと揺れた。機嫌が直った証拠だ。
「合格。…そこの小動物も、まあ、荷物持ちくらいには認めてあげる」
「あ、ありがとうございますぅ…!命拾いしたぁ…」
ルドは涙目でへたり込んだ。
◆◇◆◇◆
商談成立後。
リッカとルドは、従業員食堂へと案内された。
「さあ、ルド。ここのご飯は世界一よ。食べていきなさい」
「む、無理です師匠…。僕もう胃が痛くて…一刻も早く帰りたい…」
ルドが青い顔をしていると、厨房の奥から地響きのような足音が近づいてきた。
「ガハハハ!リッカ殿!待っていたぞ!今月の香辛料はまだか!」
現れたのは、身長二メートルを超える巨躯のオーク・ロード――総料理長ヴォルグだ。
その手には巨大な包丁が握られている。
「ひぃぃぃッ!!オ、オーク・ロード!?なんでここに魔物の将軍がいるんですかァァァ!?」
ルドはリッカの背中にしがみつき、絶叫した。
「包丁!あの包丁で僕を捌くつもりだ!カツレツにする気だ!」
「失礼な奴だな。…今日のメインディッシュは貴様ではない」
ヴォルグは心外そうに鼻を鳴らし、ドンッとテーブルに皿を置いた。
「リッカ殿への感謝の印だ。『特製・厚切りローストポークのハニーマスタードソース』。…そっちの泣き虫も、食うなら食え」
「た、食べるわけないじゃないですか!魔物の料理なんて…毒が入って…」
しかし。
ルドの鼻腔を、暴力的なまでに芳醇な香りが襲撃した。
ジューシーな肉の脂の香り。焦がし蜂蜜の甘い誘惑。スパイスの刺激。
グゥゥゥゥ…。
ルドの腹が、正直に鳴った。
「…」
「冷めないうちに食え」
ヴォルグに凄まれ、ルドは震える手でフォークを握った。
一口サイズに切られた肉を、恐る恐る口に運ぶ。
パクッ。
――カッ!!
ルドの脳裏に、稲妻が走った。
「う…」
「う?」
「う、美味ァァァァァァァいッ!!!」
ルドが叫んだ。
さっきまでの怯えなどどこへやら、彼は皿に顔を突っ込む勢いで肉を頬張った。
「なんですかこれ!?肉が!肉が溶ける!脂が甘い!このソース、天才ですか!?聖王都のレストランでもこんなの食べたことないですぅぅ!」
「フン、当然だ。大家様の舌を満足させるために研鑽した至高の味だ」
ヴォルグが腕を組み、満足げに頷く。
「すごい…!ここは地獄かと思ってたけど…天国だったんだ…!」
ルドは涙を流しながら完食し、ヴォルグの手を両手で握りしめた。
「料理長さん!貴方は神です!いや、オークの神様です!」
「褒めてるのか?それ?」
「ごちそうさまでした!一生ついていきます!」
◆◇◆◇◆
帰り道。
バベル・ガーデンを出て、再び森の中を歩く二人。
ルドのリュックは軽くなっていたが、その足取りは来る時とは別人のように力強かった。
「…師匠」
「なによ、ルド」
「ここ、すごい場所ですね」
ルドは振り返り、夕日に染まる巨塔を見上げた。
「最初は怖かったですけど…。あの小さな大家さんも、クマの人形も、オークの料理長も…みんな、なんか楽しそうでした」
「でしょ?変な人たちだけど、悪い人たちじゃないの」
「はい。…僕、わかりました。師匠がここに来る理由」
ルドは拳を握りしめ、キリッとした顔(まだ鼻水は垂れているが)で言った。
「ここは、商売人にとっての『宝の山』です。珍しい素材、未知の技術、そして最高の顧客…。こんな場所、他にはありません!」
「随分と前向きになったね」
「はい!僕、頑張ります!もっと役に立って、あの料理長のご飯をまた食べるんです!」
不純な動機だが、その目は本気だった。
リッカは弟子の成長に目を細め、その頭をポンと撫でた。
「期待してるよ、相棒」
森のざわめきは、もう恐ろしい音には聞こえなかった。
それは、新たな「仲間」を祝福するファンファーレのように、二人の背中を押していた。
こうして、バベル・ガーデンの物流網に、新たな(そして騒がしい)パイプラインが一つ、加わったのであった。




