第四十八話「大家の風邪と、総出の看病」
その朝、世界樹の最上層『樹洞の聖域』は、いつもと違う重苦しい空気に包まれていた。
「…んぅ」
こたつの布団が微かに動く。
中から這い出してきたのは、この塔の絶対的支配者、真音だった。
だが、その様子がおかしい。
いつもならピンと立っている頭の上の丸い熊耳が、今日は雨に打たれた子犬のようにペタリと力なく伏せられている。
「…体が、重い」
真音は掠れた声で呟き、テーブルに突っ伏した。
頬が赤い。
呼吸が荒い。
黒曜石のような瞳は、潤んでトロンとしている。
「おや、真音ちゃん?まだ眠いのかい?」
朝のコーヒーを淹れていたメルキオラスが、のんきに声をかける。
しかし、返事がない。
異変を感じた賢者は、トコトコとテーブルによじ登り、真音の額に自身の短い手(肉球)を当てた。
「――ッ!熱い!」
メルキオラスのビーズの瞳が見開かれる。
「高熱だ!これはただ事じゃないぞ!」
「な、なにィ!?」
部屋の隅でうずくまっていたラズリが、弾かれたように飛び上がった。
「病だと!?馬鹿な!神話級の魔獣を素手で殴り倒す我が君が、風邪ごときで!」
「ただの風邪じゃない…多分『魔力酔い』だ」
メルキオラスは素早く診断を下す。
「昨夜、世界樹が急激に成長した影響で、地脈の魔力が乱れたんだ。世界樹とリンクしている真音ちゃんが、その余波をモロに受けたんだよ」
真音はうわ言のように呟く。
「…くまちゃん、寒い。…あと、頭ガンガンする」
「いけない!すぐに保温を!ラズリ、氷枕の用意だ!」
「御意ッ!…あわわ、氷、氷はどこだ!」
最強の蒼天竜がパニックになって部屋を走り回る。
静謐だった聖域が、一瞬にして野戦病院のような緊張感に包まれた。
◆◇◆◇◆
数分後。
バベル・ガーデン幹部用緊急回線に、激震が走った。
『緊急招集!大家様がダウンした!総員、直ちに聖域へ集合せよ!』
その指令から三分と経たず、リビングの空間が歪んだ。
転移ゲートから次々と幹部たちが飛び出してくる。
「大家様ッ!!ご無事ですかッ!!」
先陣を切ったのは、総務部長ルミナだ。
彼女は両手に抱えきれないほどの薬品箱を持っていた。
「状況は!?バイタルは!?直ちに最高級ポーション『聖女の涙』を投与します!点滴の準備も完了しています!」
「待てルミナ!弱った体にポーションの直飲みは負担が大きい!」
メルキオラスが止めるのも聞かず、ルミナは注射器を構えて突進する。
そこへ、
「退けェいッ!病人に必要なのは薬ではない!栄養だ!」
ドォォォン!
ワゴンを押して突っ込んできたのは、総料理長ヴォルグだ。
ワゴンには、グツグツと煮えたぎる大鍋が乗っている。
「見よ!ドラゴンレバーとマンドラゴラを三日三晩煮込んだ『超・滋養強壮スープ』だ!これを飲めば死人も墓から走り出す!」
「臭い!匂いがキツすぎる!大家様が吐き気を催したらどうするんだ!」
さらに、灼熱の熱気が部屋に流れ込む。
「ぬるいッ!室温が低すぎるぞ!」
上半身裸にタオルを巻いた魔王ガルシスが、巨大なストーブを抱えて現れた。
「風邪の諸悪の根源は『冷え』だ!室温を四〇度…いや、サウナと同じ九〇度まで上げ、汗と共に毒素を排出させる!」
「殺す気か!脱水症状で干からびるわ!」
ルミナが絶叫する。
カオスと化す聖域に、最後に現れたのは牧場長アレクセイだった。
「み、皆さん落ち着いて!僕に任せてください!」
彼の手には、プルプルと震える水色の物体が握られていた。
「これは牧場で開発した『ヒヤロン・スライム』です!常に氷点下の体温を維持するこの子をおでこに乗せれば、どんな高熱も一発で…!」
「汚い!大家様の顔にスライムを乗せるな!」
「汚くありません!ちゃんと洗いました!」
阿鼻叫喚。
四人の幹部たちは、それぞれの正義(看病)を主張し、真音の枕元で大論争を始めた。
「まずは点滴よ!腕を出して!」
「スープだ!口を開けろ!」
「室温を上げる!窓を閉めろ!」
「スライムを乗せます!ひんやりしますよ!」
ガチャガチャ!ワーワー!
食器の触れ合う音、怒号、足音。
平和な寝室は、築地市場の競りのような騒音に支配された。
こたつの中で、真音の熊耳がピクリと震えた。
そして。
「……さい」
小さな声が漏れた。
だが、熱狂する幹部たちの耳には届かない。
「ええい、魔王様!ストーブが近すぎます!布団が焦げます!」
「黙れ聖女!これが私の愛だ!」
「…うるさいッ!!」
ドンッ!!
真音が布団を跳ね除け、テーブルをバンと叩いた。
その瞬間、部屋中の空気が凍りついた。
全員の動きが止まる。
真音は肩で息をしながら、潤んだ瞳で幹部たちを睨みつけた。
いつもなら人を射殺せそうな鋭い眼光だが、今は熱のせいで弱々しく、今にも泣き出しそうだ。
「…アンタたち、私を殺す気…?」
かすれ声。
頭の上の熊耳は、怒りよりも疲労でぺたりと倒れている。
「頭痛いのに…ギャーギャー喚いて…。スープは臭いし、部屋は暑いし、スライムは冷たいし…」
真音はよろりと体を揺らし、メルキオラスの方へ倒れ込んだ。
「…寝かせてよ。お願いだから…静かにして」
それは、絶対権力者の命令ではなかった。
ただの、風邪を引いた少女の切実な懇願だった。
シン…。
静寂が戻る。
幹部たちの顔色が、一斉に青ざめた。
「…も、申し訳ございません…!」
「我々は、なんと浅はかな…」
「良かれと思って、逆に負担を…」
ルミナが、ヴォルグが、ガルシスが、アレクセイが、音もなく膝をつく。
彼らは「大家様のため」と張り切るあまり、最も大切な「安眠」を奪っていたのだ。
「…全員、退室」
メルキオラスが静かに、しかし厳格に告げた。
「気持ちは受け取ったよ。でも、今は彼女を休ませることが一番の薬だ。…置いていくものは置いて、静かに帰ってくれ」
幹部たちは無言で頷いた。
ルミナは解熱剤をテーブルに置き、ヴォルグはスープを保温ポットに移し替え、アレクセイはスライムを氷枕代わりのタオルに包んだ。
ガルシスだけは、ストーブを抱えて静かに消えた(室温はすでに適温になっていた)。
バタン。
扉が閉まり、聖域に本来の静寂が戻ってきた。
◆◇◆◇◆
夜。
部屋は薄暗く、加湿器の蒸気だけが白く揺らめいている。
「…ん」
真音が寝返りを打つ。
額には、アレクセイが置いていったスライム(タオル包み)が乗せられている。ひんやりとして心地よい。
枕元には、ルミナが調合した飲みやすいシロップ薬と、ヴォルグのスープ。
「…気分は、どうだい?」
メルキオラスが、濡れたタオルで真音の顔を拭きながら尋ねる。
足元では、ラズリが猫の姿で丸まり、天然の湯たんぽとして足を温めていた。
「…うん。だいぶ、楽になった」
真音は深く息を吸い込んだ。
頭の重さが消え、体の節々の痛みも引いている。
驚異的な回復力だ。やはり、静寂こそが最高の特効薬だったらしい。
「みんな、大騒ぎしてごめんね。心配だったんだよ」
「…わかってる」
真音は少しだけ身を起こし、保温ポットのスープを一口飲んだ。
じんわりと、優しい出汁の味が体に染み渡る。
「…バカばっかり」
口では悪態をつくが、その表情は柔らかかった。
かつては、風邪を引いても一人だった。
世界樹の洞で、ただ熱が引くのを孤独に待つだけだった。
それが今は、あんなに騒がしく、暑苦しい連中が駆けつけてくる。
「でも…まあ、悪くないわね」
真音はクスリと笑った。
頭の上の熊耳が、少しだけピクリと立ち上がる。元気が出てきた証拠だ。
「くまちゃん」
「ん?」
「明日の朝…みんなに伝えて」
真音は布団を頭までかぶり、モゴモゴと言った。
「『うるさかったけど、ありがとう』…って」
「あはは。了解。きっと泣いて喜ぶよ」
メルキオラスは優しく真音の頭(布団の上から)を撫でた。
ラズリも「よかった…」と寝言のように安堵の息を漏らす。
翌朝。
完全に復活した大家・真音は、朝一番で食堂に現れ、「病み上がりだから栄養つけなきゃ」と言って『特盛りモーニングセット』を完食。
その姿を見て、目の下に隈を作った四人の幹部たちが、安堵のあまり抱き合って号泣する姿が目撃されたという。
大家の風邪は、バベル・ガーデンの結束を(物理的な騒音と共に)より一層強固なものにしたのであった。




