第四十七話「密偵の帰還と、偽りの報告」
聖王国、王都グランドリア。
大陸全土にその権威を轟かせる大聖堂の最奥、「真理の間」。
重厚な扉が重々しい音を立てて開かれると、一人の男が静かに歩み入った。
聖王国諜報部所属、コードネーム『銀狐』ことエリオットである。
彼は祭壇の前に跪き、深々と頭を垂れた。
「…只今、戻りました」
祭壇の奥、豪奢な玉座に座るのは、聖王国教皇グレゴリウス四世。
白金の法衣を纏い、彫像のように整った顔立ちをした老齢の男だ。
その瞳は、信仰心よりも遥かに冷徹な、計算と策略の色を宿している。
「面を上げよ」
教皇の声が、大理石の床に反響する。
エリオットは顔を上げ、直立不動の姿勢を取った。
「報告せよ。かの地、世界樹にまとわりつく『塔』の実態を」
教皇の指が、肘掛けをトントンと叩く。
騎士団長ガウェインの醜態により、王国の威信は傷ついた。魔王復活の噂に民衆は怯えている。
真実が必要だった。徹底的で、冷酷な真実が。
「はッ。…結論から申し上げます」
エリオットは、懐から一冊の分厚い報告書を取り出し、捧げ持った。
その声には、プロフェッショナル特有の揺るぎない自信が満ちていた。
「あの塔は――ただの『廃墟』であります」
◆◇◆◇◆
「廃墟、だと?」
教皇の片眉がピクリと動いた。
「左様であります。私は塔の第一層から第三層までを探索いたしました」
「結界は?警備兵は?」
「皆無です。入り口は開放されており、内部は崩落した瓦礫の山。徘徊しているのは知性のない下級魔物と、それを狩るために住み着いた野良のオークたちが数名」
エリオットは、自身が記録した(ルミナによって捏造された)地図を広げた。
「魔力反応も微弱。古代の防衛機構と思われるゴーレムも発見しましたが、完全に機能不全を起こしており、壁に頭を打ち付けるだけの鉄屑と化しておりました」
「…ふむ」
教皇は地図を手に取り、目を細めた。
そこには、迷路のように入り組んだ通路と、行き止まりの崩落箇所が詳細に記されている。
「では、ガウェインが報告した『魔王』や『謎の少女』については?」
「恐らくは、未知の環境による集団幻覚、あるいは…」
エリオットは言葉を選び、冷静に断言した。
「森の瘴気による精神汚染かと。あの場所は世界樹の魔力が滞留しており、長居した者の感覚を狂わせる作用があるようです」
「…なるほど。騎士団が不埒な格好で帰還したのも、錯乱した結果か」
教皇は鼻で笑った。
合理的な説明だ。
魔王が復活してサウナを作っているなどという戯言より、よほど現実味がある。
「つまり、かの塔に組織的な支配者は存在しない。戦略的脅威度は『低』であると?」
「はい。あのような廃墟に軍を差し向けるのは、国費の無駄遣いかと愚行します」
沈黙が場を支配する。
教皇は報告書をパラパラとめくり、やがてパタンと閉じた。
「…よかろう」
教皇は立ち上がり、背を向けた。
「あの塔への干渉は凍結する。我々には、東方の異端者討伐という優先事項がある。これ以上、亡霊の影に怯えて兵を割くわけにはいかぬ」
「賢明なご判断かと」
「ご苦労だった、エリオット。…下がってよい」
エリオットは一礼し、踵を返した。
重い扉が閉まる瞬間、彼の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
(完璧だ。私の調査に死角はない)
彼は確信していた。
自分は王国を救ったのだと。
無駄な戦争を回避し、真実を持ち帰った英雄なのだと。
その「真実」こそが、敵の手によって描かれた精巧な贋作であることになど、露ほども気づかずに。
◆◇◆◇◆
一方、バベル・ガーデン、総務室。
無数のモニターが並ぶ管制卓の前で、メルキオラスが短い足をブラブラさせながら耳をすませていた。
「うんうん。上出来だね」
彼の目の前のモニターには、聖王国の玉座の間――の音声だけが、ノイズ混じりに再生されていた。
エリオットの荷物に紛れ込ませた極小の『盗聴蟲』が、鮮明な戦果を届けている。
「『あのような廃墟に軍を差し向けるのは無駄』…か。あはは、最高の褒め言葉だね」
メルキオラスはクスクスと笑った。
その隣で、総務部長ルミナは複雑そうな顔で書類を整理していた。
「…賢者様。本当にこれでよかったのでしょうか?」
「ん?何がだい?」
「我々の拠点を『価値のないゴミ溜め』と認識させること…それは、対外的な抑止力としては有効ですが、同時に『無法地帯』としてならず者たちを呼び寄せることになりませんか?」
ルミナの懸念はもっともだ。
国が管理しない場所となれば、盗賊や違法な商売人が集まってくる。
「いいんだよ、それで」
メルキオラスはカップを置いた。
そのビーズの瞳が、黒く深く光る。
「国という『巨大な敵』が動かなくなる。それだけで、僕たちは数年分の時間を稼げたんだ。…ならず者?小悪党?そんなの、下層の警備隊のいい訓練相手じゃないか」
「…なるほど。雑魚を間引く手間は増えますが、総力戦のリスクは回避できたと」
「そう。それにね…」
メルキオラスはモニターの向こう、聖王国の方向を見つめた。
「彼らが油断している間に、僕たちはもっと根を張り、枝を伸ばす。…彼らが次に気づいた時には、もう手出しできないくらい、この塔は巨大な『国家』になっているさ」
情報戦の勝利。
血を流さず、剣を交えず、ただ認識を操作することで敵を無力化する。
これぞ、数千年生きた大賢者の戦い方だった。
その時。
ヒュンッ。
総務室の空間が歪み、転移ゲートが開いた。
「ねえ、くまちゃん」
現れたのは、パジャマ姿の大家――真音だった。
頭の上の熊耳が、寝癖で片方だけ折れ曲がっている。
「おや、お目覚めかい?真音ちゃん」
「うん…。なんか、小賢しいネズミの気配が消えたから、スッキリして目が覚めた」
真音はあくびを噛み殺しながら、メルキオラスの隣の椅子にドカッと座った。
その野生の勘は、数千キロ離れたエリオットの退去すら感じ取っていたらしい。
「で?上手くいったの?」
「バッチリだよ。聖王国は当分、ここには手を出さない。僕たちの平穏な日常は守られたよ」
「ふーん」
真音は興味なさげに、ルミナのデスクの上のペンを回し始めた。
「まあ、どうでもいいけど。…それよりルミナ」
「は、はいッ!何でしょう大家様!」
「小腹が空いた。ヴォルグに『特製パンケーキ・マシマシタワー』を作らせて。あと、アレクセイに新作のドロップも持ってこさせて」
国の興亡よりも、今のおやつ。
このブレない姿勢こそが、バベル・ガーデンの頂点たる所以だ。
「かしこまりました!直ちに手配いたします!」
「あと、サウナの温度、今日は四三度にしておいて。ちょっと汗かきたい気分」
「ガルシスに伝達します!」
総務室が慌ただしく動き出す。
メルキオラスは、そんな日常の風景を眺めながら、手元の手帳に新たなページを追加した。
『フェーズ2:対外貿易の拡大と、観光特区の設立準備』
「さて、と。…忙しくなるぞ」
外敵の目は欺いた。
次の一手は、内側の充実。
廃墟だと侮っている世界を、いつか圧倒的な「文化」と「経済」でひれ伏させるために。
バベル・ガーデンは今日も、見えない根を静かに、しかし確実に広げていくのであった。




