第四十六話「勇者の手紙と、故郷への想い」
バベル・ガーデン、『スライム牧場』。
ここは、元勇者が牧場長を務め、かつての魔王軍幹部候補生たちがスライムの世話に明け暮れる、世界で最も平和で、ぬるぬるした場所だ。
「よしよし、いい子だ。今日の艶も最高だぞ、グリーン」
牧場長アレクセイは、ブラシを片手にスライムを磨き上げていた。
プヨヨンッ!
磨かれたグリーンスライムが、嬉しそうにアレクセイの頬に体当たりする。
「ははは!くすぐったいぞ!…おや?」
牧場の入り口に、一人の男が立っていた。
背中には総務部の目印が刻印された鞄。配達人だ。
バベル・ガーデンには、稀に郵便物が届く。多くは、行商人リッカ経由なのだが、元勇者軍、元魔王軍の行方がわからぬ中、一縷の望みを託してバベル・ガーデンの一層に置いていく者がいるのだ。
そういった「お届け物」を配達するのが、総務部所属の配達人だ。
「ここが牧場か…。すいません、アレクセイ様はいらっしゃいますか?」
「私ですが」
「地上からの届け物です。…差出人は、故郷のお母上からと」
ドクン。
アレクセイの心臓が、早鐘を打った。
彼は泥だらけの手を慌ててタオルで拭き、震える手で封筒を受け取った。
「母さん…から」
配達人が去った後も、彼はしばらく動けなかった。
封筒の文字は、記憶にある母の字よりも、少し震えていて、小さかった。
◆◇◆◇◆
夕刻。牧場の休憩室。
アレクセイは、開封した手紙をテーブルに置き、頭を抱えていた。
『親愛なるアレクセイへ。
元気にしていますか。ご飯は食べていますか。
村のみんなも、お前が魔王を倒して帰ってくるのを待っています。
母さんも歳をとりました。最近は膝が痛くて、畑仕事も辛くなってきました。
…いつ、帰ってくるのですか。
一目だけでも、お前の顔が見たいです』
短く、拙い文章。
だが、そこには痛いほどの愛情と、寂しさが詰まっていた。
「母さん…」
アレクセイは天井を仰いだ。
故郷の風景が脳裏をよぎる。
黄金色の麦畑。暖炉の火。
そして、玄関先で自分を待ち続ける母の背中。
(僕は…ここで何をしているんだ?)
勇者として旅立ったあの日。
必ず世界を救って帰ると誓った。
だが今、自分は剣をブラシに持ち替え、スライムの機嫌を取る毎日を送っている。
借金返済という名目はある。
だが、本心では――この生活に満足してしまっている自分がいる。
「…裏切りだ。これは、母さんへの」
ズン…と心が沈む。
その負のオーラを察知したのか、足元のスライムたちが心配そうに寄り添ってきた。
プヨ?プヨプヨ?
彼らの冷たくて柔らかい感触が、今は罪悪感を刺激するだけだった。
「…邪魔だ。向こうへ行け」
アレクセイは、つい冷たい言葉を吐いてしまった。
スライムたちがビクリと震え、悲しげにしぼむ。
「あ…すまない、違うんだ。僕は…」
自己嫌悪で押しつぶされそうになった、その時。
「――湿気くさいわね」
凛とした声が、湿った空気を切り裂いた。
「!?」
アレクセイが弾かれたように顔を上げる。
入り口に立っていたのは、エプロンドレスの少女――大家、真音だった。
頭の上の熊耳が、不快そうにペタリと伏せられている。
「お、大家様…!本日はどのようなご用件で…」
「散歩よ。グミの生育状況を見に来たんだけど…アンタの顔色が腐ったゾンビみたいだから、グミまで不味くなりそう」
真音はスタスタと歩み寄り、テーブルの上の手紙を一瞥した。
「…手紙?」
「は、はい。故郷の母から…」
「ふーん」
真音は勝手に椅子に座り、スライム・ドロップを一粒口に放り込んだ。
「で?『帰りたい』って泣いてたわけ?」
「ッ…!」
図星を突かれ、アレクセイは言葉に詰まる。
彼は拳を握りしめ、絞り出すように言った。
「…母は、待っています。僕は勇者として、故郷に錦を飾るはずでした。なのに、今の僕はただの牧場主…。母を裏切って、自分だけこんなに楽しく暮らしていていいのかと…」
沈黙。
真音はドロップを噛み砕き、ゴクリと飲み込んだ。
そして、あっけらかんと言った。
「なら、帰れば?」
「…え?」
「借金?まあ、まだ残ってるけど…アンタ、今まで十分働いたし。退職金代わりってことでチャラにしてあげてもいいわよ」
真音は黒曜石の瞳で、アレクセイをまっすぐに見つめた。
「嫌々働かれても、生産性が落ちるだけだし。…帰りたいなら、今すぐ荷物をまとめて出ていきなさい。西のゲート、開けてあげるから」
冷たい言葉。
突き放すような響き。
だが、アレクセイは知っていた。
この我儘な大家が、本当は誰よりも「身内」を大切にすることを。
これは、彼女なりの優しさであり――試練なのだ。
「…」
アレクセイは視線を落とした。
足元には、先ほど叱責してしまったスライムたちが、まだ心配そうに彼を見上げている。
さらに奥、牧場の柵の向こうでは、クイーン・スライムが虹色に輝き、部下の魔族たちが汗を流して働いている。
ここには、彼が築き上げた「世界」がある。
「でも…寂しくなるな」
真音がポツリと呟いた。
彼女は視線を逸らし、頬杖をつく。
「アンタがいなくなったら、誰がこいつら(スライム)の言葉をわかるのよ。…こいつら、アンタがいないと、またストレスで酸を吐き散らすかもね」
プヨッ!
足元のスライムが、同意するように高く跳ねた。
そして、アレクセイの足にギュッと抱きついた。
(…ああ)
アレクセイの目から、涙が溢れた。
温かい。
故郷の母の温もりとは違う。けれど、確かにここにある、命の体温。
「僕は…」
アレクセイは涙を拭い、顔を上げた。
その表情から、迷いは消えていた。
「僕は…帰りません」
彼はきっぱりと言い切った。
「母のことは心配です。でも…僕は今、ここで必要とされています。この子たちには、僕がいなきゃダメなんです」
「ふーん。…親不孝者」
「はい。僕は親不孝な息子です。…ですが、世界一幸せな牧場主です」
アレクセイは胸を張った。
かつて聖剣を握っていた手で、今は愛するスライムを撫でる。
その誇りは、勇者時代よりも輝いて見えた。
「勝手にしなさい。…その代わり、明日からのノルマ、二割増しだからね」
真音はニカっと笑った。
熊耳が嬉しそうにピコピコと動く。
「覚悟の上です!さあ、大家様!採れたての新作ドロップの試食をお願いします!」
「ん、食べてあげる」
◆◇◆◇◆
その夜。
アレクセイは、机に向かってペンを走らせていた。
『拝啓、母さん。
手紙をありがとう。僕は元気です。
ご飯も、ここの料理長が作る飯が世界一美味いので、太り気味なくらいです。
帰れなくて、ごめんなさい。
でも、僕は今、新しい「戦場」を見つけました。
剣ではなく、愛情で育てる命の現場です。
ここの仲間たちは、少し…いや、かなり変わっていますが、みんな良い奴らです。
口の悪い大家様も、本当は優しい人です。
もう少し、ここにいさせてください。
いつか胸を張って、僕の育てた「宝石」を持って帰ります。
追伸
仕送りの代わりに、僕が作った特製ドロップを同封します。
腰痛に効く成分を入れておきました。食べてください。
親不孝な息子、アレクセイより』
書き終えた手紙を封筒に入れ、アレクセイは大きく伸びをした。
「よし!」
窓の外には、世界樹の葉が風に揺れる音が聞こえる。
空を見上げると、満月が輝いていた。
遠い故郷の空とも繋がっている、同じ月だ。
「…待っていてくれ、母さん。僕はこの場所を、世界一の牧場にしてみせるから」
翌朝。
リッカにお願いしてもらうよう、配達人に手紙を託したアレクセイの顔は、昨日の雨雲が嘘のように晴れ渡っていた。
「さあ野郎ども!今日はクイーン様のブラッシングだ!気合を入れろ!」
「「「イエッサー、牧場長!!」」」
魔族たちの野太い返事と、スライムたちの楽しげな跳ねる音が、今日もバベル・ガーデンに響き渡る。
勇者の剣はもうない。
だが、その手には今、もっと大切な「家族」の命が握られているのだった。




