第四十五話「総務部長の休日と、意外な趣味」
バベル・ガーデン、総務部長執務室。
書類の塔に囲まれた要塞の如きデスクで、ルミナは機械仕掛けの人形のような速度でペンを走らせていた。
「牧場からの納品書、承認。第三区画の資材搬入ルート、再計算完了。ボイラー室の出力調整報告、受理…」
カツカツカツカツ…ッ!
ペンの音が執務室に響く唯一のBGMだ。
彼女の目の下には、コンシーラーでも隠しきれない濃い隈が刻まれている。
ブブブ…。
懐の水晶板が震えた。
画面には『大家様(絶対君主)』の文字。
「ッ!はい、総務部長ルミナです。直ちに伺います!」
ルミナは反射的に姿勢を正し、転移ゲートの申請を行おうとした。
『来なくていいわよ』
スピーカーから聞こえたのは、気だるげな、しかし有無を言わせぬ少女の声だった。
『ルミナ、鏡見てる?顔色が死霊騎士より悪いのよ』
「え…?いえ、バイタルは正常値の範囲内ですが…」
『却下。私の家の管理人が過労死したら困るのよ。…今日は仕事禁止。部屋から出て、どっかで遊んで来なさい』
「あ、遊び…ですか?しかし、未処理の案件が…」
『くまちゃんにやらせとくから。…もし一時間以内に仕事してるのを見つけたら解任するからね?』
プツン。
一方的に通話が切れた。
ルミナは呆然と水晶板を見つめ――そして、深く溜息をついた。
「…業務命令、ですか。ならば、従うしかありませんね」
彼女はペンを置き、よろりと立ち上がった。
最強の社畜聖女に、唐突な「休日」が訪れた瞬間だった。
◆◇◆◇◆
バベル・ガーデン、大図書室。
ルミナは、当てもなくそこへ辿り着いていた。
「…休めと言われても、何をすればいいのやら」
サウナは先週の視察で入ったばかりだし、食堂に行けば仕事の粗探しをしてしまう。
消去法で選んだのが、この静寂の空間だった。
「おや?これは珍しいお客様だ」
書架の陰から、真紅のダブルスーツを着こなした男――娯楽部長オズワルドが現れた。
彼は銀縁眼鏡を指で押し上げ、知的で芝居がかった笑みを浮かべる。
「多忙を極める総務部長が、このような場所へ何用かな?」
「…大家様から、強制休暇を命じられまして。時間を潰せるものを借りに来ました」
ルミナは困ったように眉を下げた。
「何か、おすすめはありますか?…できれば、経営学か、組織論に関する実用書がいいのですが」
「ナンセンスだ」
オズワルドは即座に却下した。
「休日に仕事の本を読むなど、無粋の極み。脳を休めるために来たのであろう?ならば、求めているのは『論理』ではなく『情動』だ」
彼は迷いなく一つの棚へ歩き出し、一冊の本を抜き取った。
ピンク色の装丁に、キラキラとした金箔でタイトルが刻まれている。
『公爵令嬢の秘密の恋〜身分違いの騎士様は、私の涙を拭わない〜』
「…なんですか、これは」
「恋愛小説だ。最近、女性兵士たちの間で流行しているベストセラーだよ」
「…非生産的ですね」
「フン。騙されたと思って読んでみたまえ。…枯れ果てた君の心に、潤いを与えるかもしれんぞ?」
オズワルドの不敵な笑みに、ルミナは少しムッとした。
枯れているとは失礼な。
だが、仕事の本を読めば真音に怒られる気もする。
「…分かりました。一冊だけ、お借りします」
ルミナは本を受け取り、閲覧スペースの奥まったソファに腰を下ろした。
どうせ、数ページで飽きるだろう。
そう思いながら、彼女は表紙をめくった。
◆◇◆◇◆
――二時間後。
(…非論理的です)
ルミナは眉間にしわを寄せ、ページをめくっていた。
(なぜ、主人公の令嬢はここで素直に好意を伝えないのですか?『好き』と言えば三秒で解決する問題を引き伸ばして、誤解を生んでいる。コミュニケーション・コストの無駄遣いです)
職業柄、どうしても効率を求めてしまう。
だが、ページをめくる手は止まらなかった。
――四時間後。
(…なるほど。身分の差という社会的障壁が、心理的なバイアスを生んでいるのですね。騎士側の『守るべき対象には触れられない』という葛藤…非効率ですが、理解できなくも…ありません)
ルミナの読む速度が上がっていた。
周囲の音が消え、物語の世界へと没入していく。
――そして、夕暮れ時。
「…ッ!」
ルミナの視界が、滲んで歪んでいた。
物語はクライマックスを迎えていた。
敵国の侵攻により、離れ離れになる二人。
燃え盛る城壁の上で、騎士が初めて令嬢の名を叫ぶシーン。
『行け、エリザベス!君が生きていてくれれば、俺は…!』
『嫌よ!貴方を置いてなんて行けない!』
文字の羅列が、鮮明な映像となって脳内に流れ込んでくる。
ルミナは知っていた。
大切な人のために命を懸ける尊さを。
そして、置いていかれる側の、身を引き裂かれるような辛さを。
(ああ…ダメです。死なないで…。やっと、やっと心が通じ合ったのに…!)
彼女の目から、大粒の雫がこぼれ落ちた。
ポタリ、ポタリと、本のページを濡らす。
「うぅ…ぐすっ…」
完璧な総務部長の仮面が剥がれ落ち、ただの一人の乙女に戻っていた。
鼻をすすり、ハンカチを握りしめ、物語の結末に一喜一憂する。
それは、彼女が聖女として生きる中で切り捨ててきた、普通の少女としての感情だった。
その時。
「…む?誰かいるのか?」
低い声と共に、足音が近づいてきた。
ルミナがハッとして顔を上げると、そこにはレシピ本を抱えた巨漢――料理長ヴォルグが立っていた。
「…!?」
ヴォルグは目を見開いた。
彼の目に映ったのは、薄暗い図書室の片隅で、目を真っ赤に腫らし、ボロボロと涙を流しているルミナの姿だった。
「ル、ルミナッ!?」
ヴォルグが慌てて駆け寄る。
「何かあったのか!?魔王様がまたボイラーを暴走させたか、それとも大家様に無理難題を押し付けられたか…!?」
「ち、違います…!これは…!」
ルミナは慌てて涙を拭い、本を隠そうとした。
だが、ヴォルグの目には、彼女が何かに深く傷ついているようにしか見えない。
「誰が貴女を泣かせたのか!」
「違いますったら!死んだんです!」
「誰が!?」
「騎士様が!エリザベス様を庇って、矢を受けて…うぅッ…!」
思い出してまた泣き出すルミナ。
ヴォルグは数秒間硬直し、そしてルミナの手元にあるピンク色の本を見て、ようやく事態を把握した。
「…あー。…なるほど」
ヴォルグの顔から殺気が消え、代わりに生温かい苦笑が浮かんだ。
「…本、でしたか」
「…はい。…すごく、いいお話で…」
ルミナは顔を真っ赤にして俯いた。
穴があったら入りたい。総務部長としての威厳が崩壊した瞬間だった。
「ご、ご内密に願います…。こんな姿を見られたら、部下に示しがつきませんので」
「フッ、分かっておりますよ」
ヴォルグは優しく微笑み、懐から清潔なハンカチを取り出して差し出した。
「誰しも、息抜きは必要です。…感受性が豊かであることは、良い管理者の条件でもありますからな」
「…料理長」
その言葉は、下手な慰めよりもルミナの心を軽くした。
彼女はハンカチを受け取り、鼻をかんだ。
「…ありがとうございます。でも、この作者は許せません。なぜ主人公を殺すのですか」
「ははは。物語とは、ままならぬものですな」
二人の間に、穏やかな空気が流れた。
仕事の話抜きで、こんなふうに笑い合えるのは、初めてかもしれない。
◆◇◆◇◆
翌日。
バベル・ガーデン総務室は、いつもの喧騒に包まれていた。
「A班、作業開始!遅れを取り戻すわよ!」
「収支報告書にミスがあるわ!再提出!」
ルミナは、昨日までの疲労が嘘のように、ハツラツとした表情で指揮を執っていた。
その肌は艶やかで、目の下の隈も消えている。
「部長、なんか今日、元気ですね?」
「ええ。昨日はしっかり『心の栄養』を補給しましたから」
部下の問いに、ルミナは完璧な営業スマイルで答えた。
そして、昼休み。
彼女は誰にも見られないように、こっそりと図書室を訪れた。
「やあ、総務部長。昨日の本はどうだったかな?」
カウンターで待ち構えていたオズワルドが、ニヤリと笑う。
ルミナは無言で本を返却し、そして一枚のメモ用紙を滑らせた。
「…発注依頼です」
オズワルドがメモを見る。
そこには、震えるような筆跡でこう書かれていた。
『同作者のシリーズ続編「王太子の溺愛〜転生したら悪役令嬢だった件〜」全五巻。至急入荷求む』
「…ククッ、承った」
オズワルドは肩を震わせて笑い、最高級の紅茶の準備を始めた。
ルミナは顔を背け、咳払いをする。
「勘違いしないでください。これは…人間の心理行動学を研究するための、資料ですから」
「ああ、分かっているとも。全てはバベル・ガーデンの効率的運営のため、だろう?」
その日以来、総務部長のデスクの引き出しの奥には、ピンク色の表紙の本が隠されるようになった。
そして時折、深夜の執務室から「尊い…」という、普段の彼女からは想像もできない呟きが聞こえてくるという噂が流れるのだが――それはまた、別の話である。
◆◇◆◇◆
一方、最上層『樹洞の聖域』。
こたつでくつろぐ真音の元に、ヴォルグが昼食を運んできた。
「失礼します、大家様。本日のランチは『涙味の塩パスタ』でございます」
「なにそれ、変な名前」
真音はパスタを一口食べ、目を丸くした。
「…しょっぱい。けど、なんか優しい味がする」
「ええ。昨夜、ちょっとした『いい話』を目撃しましてね」
ヴォルグは意味深に笑った。
真音は熊耳をピクリと動かし、ニカっと笑い返した。
「ふーん。ルミナ、いい顔してた?」
「はい。とても人間らしい、可愛らしいお顔でした」
「なら、よし」
真音は満足げにパスタを頬張った。
彼女にはお見通しだ。
自分の大切な人が、ようやく肩の力を抜く方法を見つけたことを。
バベル・ガーデンの休日は、今日もそれぞれのやり方で、心を癒やしていくのであった。




