第四十四話「温泉の新メニューと、職人たちの共闘」
バベル・ガーデン、ボイラー室。
配管が脈打つこの灼熱の聖域に、場違いな男の姿があった。
純白のコックコートに身を包んだ、総料理長ヴォルグである。
「…して、お話とは何でしょうか、魔王様」
ヴォルグは直立不動で、蒸気の向こうに立つかつての主君を見つめた。
ガルシスは配管のバルブに片足を乗せ、不敵に笑った。
「ヴォルグよ。以前開発した『地獄蒸しプリン』、あれは好評だったな」
「ハッ!魔王様の魔力蒸気のおかげで、今や食堂の人気ナンバーワン商品となっております」
「うむ。だが…私は満足していない」
ガルシスはバルブを強く握りしめた。
「あれは所詮、蒸気の『圧力』に頼った料理だ。だが、この『世界樹の源泉』の真価は、そこだけではないはずだ」
「真価、でありますか?」
「そうだ。繊細なミネラル、香り、そして何より…生命を育む『優しき熱』だ。ヴォルグよ、貴様の腕で、この湯の『揺らぎ』を料理に昇華できんか?」
ヴォルグの目が大きく見開かれた。
かつて破壊の限りを尽くした魔王の口から、「優しき熱」という言葉が出るとは。
だが、その提案は料理人としてのヴォルグの魂を激しく揺さぶった。
「…なるほど。高温高圧での一気加熱ではなく、源泉そのものの温度を利用した低温調理…。面白い、実に面白い試みです、魔王様!」
「フッ、乗ったか。ならばこれより、オペレーション『温泉フルコース』を開始する!」
◆◇◆◇◆
翌日、深夜。
ボイラー室の一角に設けられた「試作キッチン」。
そこは、緊迫した空気に包まれていた。
「魔王様!温度が高すぎますッ!」
ヴォルグが悲痛な声を上げ、温度計を指差した。
目の前のザルには、白身が固まりすぎてゴムのようになった卵が転がっている。
「ぬう…!これでも出力は最低に絞っているのだぞ!」
「現在八五度です!これではただの茹で卵になってしまいます!目指す『温泉卵』の黄金比は、黄身がねっとり、白身がフルフルの状態…そのためには、六五度から七〇度の間を三〇分キープせねばなりません!」
ヴォルグは額に汗を浮かべ、必死に訴える。
「しかしだ、ヴォルグよ。源泉の温度は常に変動している。世界樹の脈動に合わせて熱湯が噴き出すのだぞ?それを一定に保つなど…」
「やっていただかねば困ります!それが出来なければ、大家様の舌を満足させる『至高のトロトロ感』は出せません!」
ヴォルグは、思わず一歩踏み込んでいた。
相手はかつての主君。絶対的な恐怖の対象。
だが、今は「料理長」としての矜持が、恐怖を凌駕していた。
「魔王様!貴方様は『破壊の王』から『創造の王』へと変わられたはず!ならば、この程度の熱制御、造作もないことでしょうッ!?」
その言葉に、ガルシスの瞳の中で赤い炎が揺らめいた。
「…ほざいたな、将軍ヴォルグ」
ガルシスはマント(耐熱タオル)を翻し、バルブに向き直った。
「いいだろう。貴様のその食材への執念…私が『熱』への執念で応えてやる。見くびるなよ、私は魔王ガルシスだ!」
「ハッ!ご武運を!」
二人は再び背を向け合い、それぞれの持ち場についた。
ガルシスはバルブの前に座り込み、ミクロ単位の魔力操作で、荒れ狂う源泉の脈動をねじ伏せにかかる。
ヴォルグはストップウォッチを片手に、湯の中に全神経を集中させる。
一時間後。
二時間後。
試作された卵の山が築かれていく。
「…おい、ヴォルグ」
「…はい」
ガルシスが、湯気の中から声をかける。
その全身からは魔力が立ち昇り、極限の集中状態にあることが見て取れた。
「今の温度…六八・五度。誤差、プラスマイナス〇・一度だ。…どうだ?」
「…確認します」
ヴォルグが震える手で、殻を割った。
つるん。
器に滑り落ちたのは、淡雪のような白身に包まれた、宝石のような卵。
箸を入れると、白身は抵抗なく崩れ、中から濃厚なオレンジ色の黄身が、溶岩のように、しかし優しく溢れ出した。
「…美しい」
「…ふっ、そうか」
ヴォルグは一口含み、そして震えながらガルシスに向き直った。
「完璧です…!これぞ、神の領域の火入れ!さすがは魔王様!」
「礼を言うのは早いぞ、料理長。次は蒸し野菜と、デザートの饅頭だ。この温度帯を維持したまま、貴様の蒸し器へ熱を回す!」
「御意!最高の食材を用意します!」
もはやそこに、上下関係の壁はなかった。
あるのは、一つの「作品」を作り上げようとする、二人の職人の魂の共鳴のみ。
◆◇◆◇◆
数日後の夕刻。
バベル・ガーデン大浴場に隣接する、VIP専用ラウンジ。
湯上がりの真音は、ふかふかのバスローブに身を包み、ソファに沈み込んでいた。
「ふぅ…」
濡れた髪をタオルで拭きながら、大きく息を吐く。
頭の上の熊耳は、蒸気でしっとりと濡れ、ぺたりと寝ている。
風呂上がりの火照った体は、だるく、そして心地よい空腹感を訴えていた。
「…お腹すいた」
独り言のように呟いた、その時。
「お待たせいたしました、大家様」
恭しい声と共に、ガルシスとヴォルグがワゴンを押して現れた。
二人の顔には、隠しきれない自信と、戦いを終えた男たちの清々しさが漂っている。
「今日は、湯上がりの体に染み渡る『低温源泉フルコース』をご用意いたしました」
「低温…?」
真音の耳がピクリと反応し、少しだけ起き上がる。
「まずは、『究極の温泉卵・世界樹の雫仕立て』です」
ガラスの器に入った卵。
以前の「地獄蒸し」のような荒々しさはない。静謐な美しさを湛えている。
真音はスプーンですくい、つるりと口に運んだ。
「んんッ…!」
熊耳がピンと立つ。
濃厚な黄身が舌に絡みつく。白身は淡雪のように溶け、黄身のコクだけが口いっぱいに広がる。
「なにこれ…。飲み物みたいに喉を通っていく。…すごい滑らか」
「六八・五度。この温度帯でしか出せない食感です。魔王様の神懸かり的な温度管理があればこそ実現しました」
「ふん。当然だ」
ヴォルグの称賛に、ガルシスが腕を組み、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らす。
「続いて、『源泉低温蒸し野菜』。そして締めはデザート、『出来たて温泉饅頭』でございます」
蒸し野菜は、高温で一気に蒸したものとは違い、野菜の酵素が働く温度帯でじっくり加熱されているため、甘みが異常なほど引き出されていた。
そして温泉饅頭。
真音は手で掴み、ハフハフと言いながらかぶりついた。
皮はしっとりと水分を含み、中の餡は熱々のトロトロ。
「…」
真音は無言で一個目を平らげ、すぐさま二個目に手を伸ばした。
熊耳が、嬉しそうにパタパタと左右に揺れている。
それが何よりの評価だった。
「…美味しい」
三個目を口に詰め込みながら、真音がもごもごと呟く。
「前のプリンも美味しかったけど、こっちはなんか…優しい味がする。お風呂上がりの体と一体化する感じ」
「ありがたきお言葉…!」
ヴォルグが深々と頭を下げる。
勝った。
「圧力」ではなく「優しさ」で、この我儘な大家を陥落させたのだ。
「二人とも、やるじゃない。…特にガルシス」
「はっ」
「アンタ、ただ熱くするだけじゃなくて、こういう細かい調整もできるようになったのね。…見直したわ」
真音の言葉に、ガルシスは一瞬目を見開き、そして深く跪いた。
「恐悦至極に存じます。…全ては、大家様の快適ライフのため」
「ふーん。まあ、いいわ。このメニュー、採用よ」
真音は満足げにソファに倒れ込み、あくびをした。
「大浴場の入り口で、限定数を希望者に配りなさい」
「ハッ!仰せのままに!」
商魂たくましい大家の言葉に苦笑しつつ、二人の男はラウンジを後にした。
廊下に出たところで、ヴォルグが立ち止まり、かつての上司に向き直った。
「…お見事でした、魔王様。あの温度維持、私一人では不可能でした」
「よせ、将軍。…今はただの『ボイラー係』だ」
ガルシスはヴォルグの肩をポンと叩いた。
「貴様の食材への愛、しかと見届けた。…いい腕になったな」
「…ッ!勿体なきお言葉!」
ヴォルグが男泣きしそうになるのをこらえ、二人はガシッと握手を交わした。
熱い手のひらと、分厚い手のひら。
そこには、かつての主従関係を超えた、対等な職人同士の固い絆が結ばれていた。
こうして、バベル・ガーデンの名物に「究極の温泉卵」が加わった。
そのあまりの美味しさに、入浴後だけでなく入浴前にも食べてしまい、「お腹いっぱいでのぼせる兵士」が続出するという新たな問題が発生するのは、また別の話である。




