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第四十三話「激辛の試練と、料理人の情熱」

 バベル・ガーデン、食堂厨房。


 ここは常に戦場だが、今日の空気はいつになく――禍々しかった。


「ククク…。これだ。この香り、この刺激…!」


 総料理長ヴォルグは、薄暗い倉庫の奥で、桐箱に入った「それ」を見つめ、恍惚の笑みを浮かべていた。


 中に入っているのは、宝石ではない。


 ドス黒い赤色をした、歪な形の果実。


 表面から揺らめく陽炎のような瘴気が立ち上り、近づくだけで目がチカチカする。


 魔界原産『煉獄唐辛子ヘル・ペッパー』。


 かつて魔王軍の宴席で、幾多の猛者を発狂させた伝説の香辛料である。


「リッカ殿に無理を言って取り寄せた甲斐があった。このバベル・ガーデンには、刺激が足りんのだよ、刺激が!」


 ヴォルグはオリハルコン製中華鍋を熱し、轟音と共に『煉獄唐辛子』を投下した。


 ジュワアアアアアアアッ!!


 爆ぜる音と共に、厨房内に真紅の煙が充満する。


 換気扇エア・シューターが悲鳴を上げ、排気ダクトがガタガタと震えた。


「ゴフッ!ゲホッ!り、料理長!?毒ガス攻撃ですか!?」


 部下のコボルドが涙目で駆け寄ってくる。


「馬鹿者!これは『故郷の香り』だ!」


 ヴォルグは鍋を振りながら吠えた。


 彼の目には、狂気にも似た料理人の情熱が宿っていた。


「人間と魔族の共存…それは素晴らしい。だが、互いに歩み寄るばかりで、我ら魔族の『ソウル』を忘れてはいないか?今日は人間に、魔界の深淵(味)を教えてやるのだ!」


 鍋の中では、真っ赤なスープが地獄の池のように煮えたぎっている。


 具材は、ドラゴンミートの角切りと、根菜類。


 だが、その全てが『煉獄色』に染まっていた。


「完成だ…『ヴォルグ特製・超激辛煉獄シチュー』!」


 ヴォルグは、ドロリとした液体を小皿にすくい、近くにいたミノタウロスの兵士に差し出した。


「味見をしろ」


「は、はい!いただきます!」


 ミノタウロスは一口啜り、カッ!と目を見開いた。


「モォォォォォォッ!!」


「どうだ!?」


「か、辛いッ!喉が焼ける!…ですが、美味い!体の芯から魔力が湧き上がってくるようです!これぞ魔界の味!」


 ミノタウロスは鼻から興奮の蒸気を噴き出し、一気に皿を空にした。


「よし!魔族には好評だ。ならば人間どもも、この衝撃に酔いしれるがいい!」


 ヴォルグは自信満々に、ランチタイムの鐘を鳴らした。



◆◇◆◇◆



 正午。


 食堂は、午前の作業を終えた空腹の兵士たちで溢れかえっていた。


「今日のメインは『赤いシチュー』か?」


「ヴォルグ料理長の新作だってよ!精がつきそうだ!」


 人間たちは、何の疑いもなく、真っ赤なシチューを受け取り、席についた。


 そして、一斉にスプーンを口に運ぶ。


「いただきます!」


 パクッ。


 一瞬の静寂。


 時が止まったかのような、静けさ。


 その直後。


「ぎゃああああああああああああああッ!?」


 食堂が、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


「か、辛い!?いや、痛いッ!口の中が爆発した!」


「火だ!喉に火がついた!」


「水!水をくれぇぇぇぇ!」


 人間兵士たちが次々と椅子から転げ落ち、床をのたうち回る。


 ある者は顔を真っ赤にして涙を流し、ある者は白目を剥いて痙攣し、またある者は口から本当に小さな火を吹いていた。


「な、なんだと!?」


 厨房から様子を見ていたヴォルグが絶句する。


「貴様ら!根性がないぞ!その痛みこそが旨味の入り口…」


「馬鹿なこと言わないでくださいッ!!」


 バンッ!


 厨房のドアが蹴破られ、総務部長ルミナが飛び込んできた。


 彼女は口から火を吹く兵士たちを見て、顔面蒼白になっている。


「り、料理長!これはバイオテロです!今すぐ提供を中止してください!」


「テロだと!?心外な!これは私の故郷の味で…」


「種族差を考えてくださいッ!オークの胃袋と人間の胃袋は作りが違うんです!これじゃあ、兵士全員が胃潰瘍で全滅します!」


 ルミナが叫ぶ間にも、被害は拡大していた。


 洗面所の水道には長蛇の列ができ、何人かはすでに気絶して担架で運ばれている。


「くっ、まさかこれほど脆弱とは…!どうすれば!」


 ヴォルグが頭を抱えた、その時。


「皆のもの!口を開けろォォォッ!」


 食堂の入り口から、白い影が飛び込んできた。


 牧場長、アレクセイだ。


 彼は両手にバケツを持ち、その中にはプルプルと震える白い液体のようなものが詰まっている。


「アレクセイ牧場長!?」


「緊急要請を受けて駆けつけました!これは牧場の『ホワイト・スライム』から採取した、高純度粘液ミルクです!カプサイシンを中和する成分を、通常の牛乳の一〇〇倍含んでいます!」


 アレクセイは、のたうち回る兵士の口に、ひしゃくで白いスライム液を流し込んだ。


「飲め!噛まずに飲め!」


「んぐッ、ごくッ…!」


 兵士が喉を鳴らして飲み込むと、瞬時に顔の赤みが引き、荒い呼吸が落ち着いた。


「あ…痛くない。口の中が、まろやか…」


「助かった…勇者様、ありがとう…」


 アレクセイと牧場スタッフたちは、戦場を駆け巡る衛生兵のように、次々と兵士たちを救護していく。


 その手際の良さは、かつて魔王と戦った頃よりも洗練されていた。


「はぁ…。なんとか収束しましたね」


 ルミナが額の汗を拭い、ヴォルグを睨みつけた。


「料理長。始末書です。あとで総務室に来てください」


「…うぐぐ。面目ない…」


 ヴォルグがシュンと項垂れた。


 魔界の味を広めようとした情熱が、まさか大惨事を招くとは。自分の配慮不足を恥じるしかない。


 だが、騒動はまだ終わっていなかった。


「…ねえ。なんか騒がしいんだけど」


 凛とした、しかし絶対的な威圧感を持つ声が、食堂の空気を凍りつかせた。


 入り口に立っていたのは、エプロンドレスの少女――大家、真音だった。


 頭の上の熊耳が、不機嫌そうにピクピクと動いている。


「お、大家様!?」


 ヴォルグ、ルミナ、アレクセイが同時に直立不動になる。


 食堂の空気が、辛さによる熱狂から、恐怖による冷却へと一瞬で切り替わった。


「お昼寝してたら、『水くれー!』とか『死ぬー!』とか聞こえてきたのよ。…私の安眠を妨害するほどの事件って、なに?」


 真音は黒曜石の瞳で、現場を見渡した。


 床に転がる兵士たち。


 白い液体まみれのアレクセイ。


 そして、厨房カウンターに残された、真っ赤なシチュー鍋。


「…あ、あの、これはですね」


「その赤い鍋、なに?」


 真音はヴォルグの説明を待たず、スタスタと鍋に近づいた。


「ひぃッ!大家様、それは危険です!人間が食べればショック死しかねない劇物で…!」


 ルミナが止めようとするが、真音は聞く耳を持たない。


 彼女はスプーンを手に取り、ドロリとした赤い液体をすくった。


 鼻を近づける。


 ツンとした刺激臭に、熊耳がピクリと反応する。


「…ふーん」


 パクッ。


 躊躇なく、口に入れた。


 全員が息を呑む。


 最強の大家といえど、味覚は少女のはず。


 激痛に暴れだし、食堂ごと消し飛ばされるのではないか――。


 真音の動きが止まった。


 口をもぐもぐと動かし、ごくんと飲み込む。


 そして。


「…ッ!」


 カッ!


 真音の顔が、耳まで真っ赤に染まった。


 目尻に涙が浮かび、頭のてっぺんからポッポと湯気が出るのが見える。


「か、からッ――!!」


 真音が叫んだ。


 その衝撃波で、近くの窓ガラスがビリビリと震える。


「水!アレクセイ、その白いやつ寄越しなさい!」


「は、はいッ!」


 アレクセイが差し出したバケツに顔を突っ込みそうになる勢いで、真音はコップを奪い取り、一気に飲み干した。


「ぷはぁっ…!…ハァ、ハァ…」


 肩で息をする真音。


 ヴォルグは死を覚悟した。


(終わった…。大家様に不快な思いをさせた…。私は今日、スライムの餌になる…)


 しかし。


 顔の赤みが引いてきた真音は、空になったコップを置き、再び赤い鍋をじっと見つめた。


「…もう一口」


「はいぃ?」


 真音は再びスプーンを伸ばし、シチューを口に運んだ。


「ん…辛っ!…でも…」


 彼女は首を傾げ、口の中に残る余韻を確かめるように舌なめずりをした。


「なんか、癖になるかも」


「えっ?」


 真音の瞳が、キラリと輝いた。


 それは、新しいおもちゃを見つけた子供のような、あるいは未知の味に出会った美食家の目だった。


「最初は痛いけど、その後になんか、ドカンと旨味が来る感じ。…体が熱くなって、目が覚めるわ」


「お、おおお…!分かりますか!分かってくださいますか、大家様!」


 ヴォルグが感涙にむせび泣く。


 そう、それこそが『煉獄唐辛子』の魔力なのだ。


「うん、悪くない。…甘いグミばっかり食べてたから、たまにはこういう刺激もいいかも」


 真音はニカっと笑い、汗を拭った。


「ヴォルグ、これ採用」


「はッ!ありがとうございます!」


「ただし」


 真音は床で伸びている人間兵士たちを指差した。


「人間用は、辛さを十分の一…いや、百分の一にしなさい。仕事にならなくなるから」


「ぎょ、御意!」


「その代わり…月に一度、『激辛の日』を作りなさい」


 真音は楽しそうに提案した。


「希望者だけが挑戦できる、地獄の激辛祭り。完食したら、特別ボーナス支給。…面白そうじゃない?」


 ルミナは溜息をつき、そして苦笑した。


「…なるほど。ガス抜きイベントとしては、悪くないかもしれませんね。医療班を待機させた上であれば、許可します」


「やった!じゃあヴォルグ、私専用の激辛セット、部屋に運んでおいて。ラズリにも食べさせて反応を見るから」


 真音は悪戯っぽく笑うと、上機嫌で食堂を後にした。


 その背中からは、先ほどまでの不機嫌さは微塵も感じられない。


 こうして、バベル・ガーデンに新たな名物イベントが誕生した。


 毎月一回、『煉獄の激辛デー』。


 その日だけは、人間も魔族も、種族の壁を超えて顔を真っ赤にし、汗と涙を流しながら鍋を囲む。


 「辛い!」「痛い!」「でも美味い!」という絶叫は、平和な塔の新たな日常風景として定着していくのであった。

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