第四十二話「賢者の休日と、忘れられた研究室」
その日、バベル・ガーデンの実質的な支配者(裏方)である賢者メルキオラスは、ある決断を下した。
「よし。今日は休もう」
彼の手帳は真っ黒だ。
ルミナからの申請、アレクセイからの牧場拡張計画、ヴォルグの新メニュー試食スケジュール調整(真音)依頼、ガルシスのサウナ温度調整会議…。
ここ数ヶ月、彼は休むことなく働き続けてきた。
世界を救うよりも、この個性豊かな(問題児ばかりの)債務者たちを管理する方が、よほど骨が折れる。
「たまには、自分のために時間を使わないと、綿がへたっちゃうからね」
メルキオラスは、短い手足でポンポンと自身の腹を叩いた。
彼は誰もいない『樹洞の聖域』のリビングを見渡した。
主である真音は、まだ布団の中だ。
彼女が起き出すのは午後二時過ぎだろう。
絶好のチャンスである。
彼は赤いマフラーを直し、空間の裂け目を開いた。
行き先は、執務室でも工事現場でもない。
数百年もの間、封印していた「秘密基地」だ。
◆◇◆◇◆
世界樹の幹、その深層部。
迷路のように入り組んだ導管の隙間に、古びた木製の扉が隠されていた。
防御結界の術式は、まだ生きている。
メルキオラスが扉に掌(肉球)を当てると、複雑な魔法陣が青白く発光し、カチャリと解錠音が響いた。
ギィィィィ…。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重厚な扉が開く。
「…けほっ、けほっ」
舞い上がったのは、数世紀分の埃だ。
メルキオラスは小さな手で鼻先を仰いだ。
薄暗い室内。
天井から差し込む僅かな光が、浮遊する塵をキラキラと照らし出している。
「やあ。久しぶりだね、僕の実験室」
そこは、時が止まった空間だった。
壁一面の本棚には、カビ臭い古文書がぎっしりと詰まっている。
机の上には、干からびたフラスコや、用途不明の水晶、半分組み立てられたまま放置された小型ゴーレムのパーツなどが散乱していた。
メルキオラスは、トコトコと部屋の中を歩き回る。
「おや、これは…『自動肩叩き機・改』か。懐かしいなぁ。あはは、魔力設定を間違えて、実験体のトロールの肩を粉砕しちゃったんだっけ」
彼はガラクタの一つを手に取り、懐かしそうに目を細めた(ビーズの瞳だが)。
ここにあるのは、かつて彼が「賢者」と呼ばれる前、ただの知的好奇心の塊だった頃の残骸だ。
成功も失敗も、すべてが愛おしい。
彼は机の上の埃をフゥーッと吹き飛ばし、積み上げられた書類の山を崩さないように慎重に漁り始めた。
休日とはいえ、じっとしていられないのが研究者の性だ。
未整理のまま放置していたデータを、今こそまとめる時だ。
「ん?これは…」
書類の山の下から、一冊の分厚い革表紙のノートが出てきた。
表紙には『世界樹成長観測記録・第405巻』と記されている。
「ああ、そういえば。毎日定点観測をしていたっけ」
メルキオラスは、椅子(彼のサイズには大きすぎるため、よじ登った)に座り、ページをめくった。
インクが薄れかけているが、そこには緻密な数字とグラフが並んでいた。
マナ吸収率。
幹の太さの変化。
枝の伸長速度。
彼は夢中で読み進めた。
そして、最新のページ――といっても数百年前に書かれたものだが――に辿り着いた時、彼の手が止まった。
「…なるほど。そういうことか」
彼の黒い瞳が、知的な興奮で輝き出した。
これは、ただの過去の記録ではない。
現在、そして未来へと続く、この巨大な「家」の秘密だ。
「これは…真音ちゃんに見せなきゃ!」
彼は休日としたことも忘れ、慌てて懐の水晶板を取り出した。
◆◇◆◇◆
ヒュンッ!
研究室の中央に転移魔法陣が展開し、そこからパジャマ姿の少女が現れた。
大家、真音である。
頭の上の熊耳は寝癖でぺしゃりと潰れ、口には歯磨き代わりのドライフルーツ・レモンを咥えている。
「…なによ、くまちゃん。せっかく二度寝しようと思ってたのに」
真音は不機嫌そうに周囲を見回した。
「なにここ。埃っぽい?」
「ごめんごめん。どうしても見せたいものがあってね」
メルキオラスは机の上から手招きをした。
「見てごらん、これ」
「…古臭いノート」
真音は面倒くさそうに近づき、覗き込んだ。
「字が汚くて読めない」
「ひどいなぁ、これでも速記術の達人だったんだよ?…ほら、ここの数値を見て」
メルキオラスが指差したのは、グラフの右肩上がりの曲線だった。
「これは世界樹の成長率だ。この木はね、もう成長が止まった『巨木』だと思われていたけど、実は違うんだ」
「違うの?」
「うん。今も生きている。…それどころか、ここ数百年で成長速度が加速しているんだよ」
メルキオラスは興奮気味に語る。
「計算上、この世界樹は年間で約一メートルずつ高くなっている。そして、幹の直径も五センチずつ太くなっているんだ」
真音は「へー」と気の抜けた声を出し、天井を見上げた。
「つまり、この家…勝手に増築されてるってこと?」
「そういうこと!物理的に床面積が増えているんだよ。バベル・ガーデンの外壁にヒビが入ったり、配管が歪んだりするのは、単なる劣化じゃなくて、母体である世界樹が大きくなっているからなんだ」
真音は口の中のドライフルーツを噛んだ。
彼女の熊耳が、ピクリと立つ。
「…ってことは」
「うん?」
「家賃、上げてもいいってことよね?」
「…え?」
真音の目が、銭ゲバの輝きを帯びる。
「だって床面積が増えたんでしょ?なら、居住スペースも広くなってるはずじゃない。広くなった分、追加料金を請求するのは大家として当然の権利よ」
「あはは…まあ、理屈はそうなるけど…彼らから徴収してるのは『労働力』だからね」
メルキオラスは苦笑した。
この壮大な生命の神秘を前にして、真っ先に家賃のことを考えるとは。さすがはバベル・ガーデンの支配者だ。
「でも、すごいことだよね」
真音はノートから視線を外し、部屋の壁――剥き出しになった世界樹の樹皮――に触れた。
ゴツゴツとした感触。
その奥から、ドクン、ドクンと、微かな脈動が伝わってくる。
「この木、生きてるんだ。…当たり前だけど、なんか不思議」
「そうだね。僕たちは、巨大な生き物の腕の中で暮らしているようなものさ」
メルキオラスも真音の隣に並び、樹皮に手を添えた。
数千年前、まだ二人が世界から逃げるようにしてここに来た時、この木はただの隠れ家だった。
だが今は、多くの命を抱え、共に成長し続けている。
「ねえ、くまちゃん」
「なんだい?」
「この木、どこまで大きくなるのかな」
「さあね。もしかしたら、いつか雲を突き抜けて、星の海まで届くかもしれないよ」
「星の海かぁ…」
真音は想像した。
そこにはきっと、誰も邪魔するもののない、究極の静寂と安眠があるに違いない。
「…悪くないかも」
真音はニカっと笑った。
「その時が来たら、最上階に『天空のサンルーム』を作るわ。星を見ながら昼寝するの」
「それは素敵だね。…じゃあ、僕はそのために、今から『宇宙対応型ガラス』の研究をしておかないと」
メルキオラスは嬉しそうに、ノートに新たな書き込みを加えた。
『未来計画:星空のサンルーム』。
「あ、そうだ。くまちゃん」
「ん?」
「ここ、なんか面白いものないの?ガラクタばっかりだけど」
真音は部屋の隅に転がっていた、奇妙な箱を指差した。
「ああ、それは『全自動おやつ製造機・試作三号』だよ。材料を入れると、ランダムで甘味が出てくるんだけど…たまに爆発するんだ」
「爆発するおやつ?何それ、面白そう。やってみてよ」
「ええ!?ここで!?」
真音の無茶振りに、メルキオラスが慌てる。
だが、その表情は満更でもない。
かつて一人で籠もっていた孤独な研究室に、今はこうして笑い合える「家族」がいる。
「ほら、早く!材料ならここにあるわよ!」
「わ、わかったよ!でも離れててね!…スイッチ、オン!」
ボカンッ!!
派手な爆発音と共に、部屋中に黒煙と、焦げたポップコーンのような甘い香りが充満した。
「けほっ、けほっ!…あーあ、真っ黒」
「あはは!くまちゃん、そこ!焦げてる!」
煤だらけになった二人は、顔を見合わせて大笑いした。
外ではルミナたちが血眼になって二人を探しているかもしれないが、今はどうでもいい。
忘れられた研究室。
そこは今日、バベル・ガーデンで最も賑やかで、穏やかな「休日の隠れ家」となった。
世界樹は、そんな二人の笑い声を抱きながら、今日も静かに、空へと向かって成長を続けていく。




