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第四十一話「蒼天竜の記憶と、失われた仲間」

 風が、鳴いている。


 それは、今この身が感じている「樹洞の聖域」の無機質な静寂ではない。


 もっと生々しく、熱く、そして鉄の匂いがする風だ。


 夢、か。


 我は、数千年ぶりに、古い記憶の淵を漂っていた。



◆◇◆◇◆



 視界いっぱいに広がるのは、抜けるような蒼穹。


 その青を切り裂くように、幾筋もの光が飛翔していた。


『ラズリ!遅いぞ!それでも「蒼天」の二つ名を持つ者か!』


『ははは!置いていくぞ、チビ助!』


 前を行くのは、深紅の鱗を持つ竜と、翡翠色の翼を持つ竜。


 彼らは空気を蹴り、雲を突き破り、互いに翼をぶつけ合いながら笑っていた。


『待て!我をチビと呼ぶな!』


 若き日の我は、未熟な翼を必死に羽ばたかせ、兄とも慕う彼らの背中を追っていた。


 世界は広かった。


 空はどこまでも高く、我らの未来は無限に続いていると信じていた。


 だが。


 空の色が、瞬きひとつで変わる。


 ドォォォォォォンッ!!


 青が、赤黒い炎に塗り潰された。


 雲海の下から放たれた無数の魔導砲撃が、空の王者たちを容赦なく撃ち抜く。


『グガァァァァッ!!』


『ひるむな!我らは竜族!天空の支配者なり!』


 誇り高き咆哮が、断末魔へと変わるのに時間はかからなかった。


 人間と魔族、そして異界の怪物たちが入り乱れる「神話大戦」。


 圧倒的な物量の前に、個の力など無力だった。


 深紅の竜が、翼を焼かれて墜ちていく。


 翡翠の竜が、数万の矢を受けて血の霧散となる。


『兄者!待ってくれ!我を置いていくな!』


 叫んでも、声は届かない。


 伸ばした爪の先で、親友だった白銀の竜が、光の粒子となって消えていく。


 誰もいない。


 空にはもう、羽ばたく音がない。


 ただ、我だけが残された。


 最強の鱗と、最強のブレスを持って生まれたがゆえに、死ぬことすら許されず。


 たった一匹、灰色の空に浮く、孤独な点となって――。



◆◇◆◇◆



 ビクッ!!


 強烈な落下の感覚と共に、ラズリは弾かれたように目を開けた。


「…ハッ、はぁ…ッ!」


 荒い呼吸。


 全身の鱗が逆立ち、心臓が早鐘を打っている。


 視界に入ってきたのは、硝煙漂う戦場ではない。


 温かな木漏れ日が差し込む、平和なリビングルームだ。


 ここは、バベル・ガーデン最上層『樹洞の聖域』。


 今の我が、唯一安らげる場所。


「…夢、か」


 ラズリは猫ほどの大きさに縮めた体を丸め直し、深い溜息をついた。


 ひどい寝汗(のような魔力放出)をかいていた。


 数千年忘れていたはずの喪失感が、胸の奥に鉛のように沈殿している。


(…なぜ、今になってあのような夢を)


 ラズリは前足に顎を乗せ、ぼんやりと虚空を見つめた。


 最近、この塔が賑やかになってきたせいかもしれない。


 人間と魔族が笑い合い、共に食事をし、明日を語り合う姿。


 かつての竜のドラゴニアも、そうだった。


 光景が重なり、そして対比として「今の孤独」が浮き彫りになる。


 自分には、もう同族はいない。


 どれほど長く生きようとも、どれほど強大な力を誇ろうとも、この記憶を共有できる「対等な翼」は、もう二度と現れないのだ。


「…寂しい、な」


 ポツリと漏れた言葉は、誰にも聞かれず空気に溶けるはずだった。


「――何が寂しいの?」


「!?」


 ラズリの尻尾がピーンと跳ね上がった。


 すぐ目の前に、黒曜石のような瞳があった。


 こたつから顔だけ出した、大家の真音だ。


「わ、我が君!?いつの間に…!」


「いつの間にもなにも、アンタが私の膝の上で寝てたんでしょ」


 言われて気づく。


 ラズリが丸まっていた場所は、座布団の上ではなく、こたつに入った真音の太ももの上だった。


「あ、失礼いたしましたッ!重かったでしょう、直ちに降ります!」


「いいわよ、別に。カイロ代わりだし」


 真音は欠伸をしながら、ラズリの背中を無造作に撫でた。


 普段なら、その心地よさに喉を鳴らすところだ。


 だが、今のラズリには、その温もりが少しだけ痛かった。


「…それで?」


 真音が、不意に視線を鋭くした。


 頭の上の丸い熊耳が、ピクリとこちらを向く。


「なんか、変よ。アンタ」


「…え?」


「いつもなら、寝起きはもっとマヌケな顔して『メシはまだか』とか言うくせに。…今日はなんか、雨に濡れた捨て猫みたいな顔してる」


 真音の観察眼は誤魔化せない。


 彼女は我儘で自己中心的だが、自分の「所有物テリトリー」の変化には異常なほど敏感だ。


 ラズリは視線を逸らした。


 最強の蒼天竜たる者が、過去の悪夢に怯えて弱音を吐くなど、恥ずべきことだ。


「…なんでも、ありません。ただの、昔の夢です」


「ふーん。昔の夢」


 真音はテーブルの上のスライム・ドロップを一つ摘み、口に放り込んだ。


 モグモグと咀嚼し、飲み込んでから、再びラズリを見る。


「どんな夢?」


「…つまらない話です」


「私が聞いてるのよ。話しなさい」


 絶対命令。


 だが、その声音には強制力よりも、不器用な気遣いが滲んでいた。


 部屋の隅で読書をしていたメルキオラスも、本を閉じて静かにこちらを見守っている。


 ラズリは観念し、ポツリポツリと語り始めた。


「…昔の話です。まだ、世界樹が今より若かった頃」


 言葉にすると、堰を切ったように記憶が溢れ出した。


「我には、多くの同胞がいました。空を埋め尽くすほどの竜の群れ。競い合い、高め合う兄弟たち。…毎日が、光に満ちていました」


「うん」


「ですが、戦争がすべてを奪いました。兄たちは墜ち、友は散り…気づけば、空を飛んでいるのは我一人でした」


 ラズリの声が、微かに震える。


「我は生き残りました。最強であるがゆえに。…ですが、それは呪いのようなものです。もう二度と、誰とも並んで飛ぶことはできない。どれほど高く飛んでも、隣には風しかいない」


 ラズリは伏し目がちに、自身の小さな前足を見つめた。


「我は…真竜族の、最後の一匹なのです。この孤独は、この命が尽きるまで終わらない」


 語り終えると、重苦しい沈黙が降りた。


 言ってしまった。


 最強の守護竜の仮面の下にある、泣き虫な子供の素顔。


 幻滅されただろうか。


(…まあ、いい。所詮、我は過去の遺物だ)


 ラズリが自嘲気味に目を閉じた、その時。


 ポン。


 頭の上に、温かいものが乗った。


 真音の手のひらだ。


「…よしよし」


 子供をあやすような、一定のリズムで撫でられる。


 鱗の流れに沿って、優しく、丁寧に。


「寂しかったんだね」


 その一言が、ラズリの胸の奥の氷を、パリンと割った。


 否定も、激励もしない。


 ただ、その感情を肯定する言葉。


「…はい。…とても、寂しかったです」


「そっか」


 真音はラズリを抱き上げ、自分の顔の高さまで持ち上げた。


 黒曜石の瞳と、竜の金色の瞳が交差する。


「でもね、ラズリ」


 真音はニカっと笑った。


 それは太陽のように明るく、そして絶対的な「主」の笑みだった。


「竜の友達はいないかもしれないけど。…アンタ、もう『一人』じゃないでしょ?」


「…え?」


「ここに私がいる。くまちゃんがいる。…下には、うるさい連中がたーくさんいる」


 真音は窓の外、雲海の下に広がる世界を顎でしゃくった。


「アンタが『最後の一匹』なら、私が『最初の一人』になってあげる。竜と並んで飛ぶことはできなくても、私の家のここで、一緒に昼寝することはできるよ」


「我が君…」


「だから、そんな湿気た顔しないの。アンタが暗いと、背中が冷えて安眠できないわ」


 乱暴な理屈。


 だが、そこには確かな「居場所」の提示があった。


 かつての空には戻れない。


 けれど、今の空の下には、新しい家族がいる。


 ラズリの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 それは頬を伝い、真音の手のひらに落ちて弾けた。


『…ありがとう、ございます』


 ラズリは、真音の胸に顔を埋めた。


『我は…幸せ者です。貴女様のような主に出会えて』


「ふん。当たり前よ。感謝して、死ぬまで私を守りなさい」


 真音は憎まれ口を叩きながらも、ラズリを抱きしめる腕の力を少しだけ強めた。


「…うん。よかったね、ラズリ」


 メルキオラスが優しく微笑み、再び本を開いた。


 聖域に、穏やかな空気が戻ってくる。


 ラズリは目を閉じた。


 まぶたの裏に浮かぶのは、もう血塗られた戦場の空ではない。


 こたつの温もりと、甘いグミの香り。そして、少し生意気な少女の鼓動。


(ああ…暖かい)


 最強の蒼天竜は、小さな猫の姿のまま、主人の腕の中で再び安らかな眠りへと落ちていった。


 もう、悪夢を見ることはないだろう。

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