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第四十話「密偵の潜入と、見えない罠」

 バベル・ガーデン第一層。


 世界樹の根が複雑に絡み合い、自然の迷宮と化したエリアに、一つの影が滑り込んだ。


 ヒュンッ。


 風を切る音もなく着地したのは、くすんだ緑色の外套を纏った男――聖王国諜報部所属、エリオットだ。


 コードネーム『銀狐』。


 千の顔を持ち、あらゆる極秘任務を完璧に遂行してきた敏腕スパイである。


「…潜入開始」


 エリオットは鋭い眼光で周囲をスキャンした。


 湿度七〇%。気温二二度。


 植生の密度は高いが、踏み跡が数箇所にある。人の出入りはあるようだ。


「王都を震撼させた謎の巨塔…。騎士団長ガウェインをパンツ一丁にして追い返した魔窟か。…だが、見たところ防衛設備は皆無だな」


 彼は懐から手帳を取り出し、素早くメモを取る。


 『入り口:開放状態。警備兵:なし。結界:感知できず』


「甘いな。これでは子供の秘密基地だ」


 エリオットは口元だけで笑うと、気配を完全に殺し、奥へと進み始めた。


 彼の背中には、冒険者を装うための安物の剣と、使い古されたリュック。


 完璧な擬態だ。


 誰が見ても、一攫千金を夢見て迷い込んだ三流冒険者にしか見えないだろう。


 だが、彼は知らなかった。


 その頭上、木の葉の陰に隠された極小の『監視魔法陣カメラ』が、彼のまつ毛の本数まで鮮明に捉えていることを。



◆◇◆◇◆



 同時刻。


 バベル・ガーデン、総務室。


 壁一面に展開された数百枚のモニターの前で、総務部長ルミナが冷徹な声を上げた。


侵入者捕捉ロック。第一層、D―4エリア。個体識別名…不明。装備から推測するに、冒険者、あるいは密偵です」


 彼女の指がキーボード(魔法盤)を高速で叩く。


 カチャカチャカチャッ!


 画面の一つが拡大され、エリオットの顔がアップになる。


「へえ、いい男じゃない」


 その隣で、お茶をすすりながら画面を覗き込んでいるのは、黒いクマのぬいぐるみ――賢者メルキオラスだ。


「動きに無駄がないね。重心が常に安定している。…ただの冒険者じゃないな。聖王国からの『お客様』かな?」


「排除しますか?ミノタウロス警備隊を向かわせれば、三分で制圧可能です」


 ルミナが事務的に提案する。


 だが、メルキオラスはぬいぐるみの首を横に振った。


「ううん。せっかくの『お客様』だ。おもてなしをしなくちゃ」


「おもてなし、ですか?」


「そう。彼が欲しがっているのは『情報』だろ?なら、たっぷりとお土産を持たせてあげようよ。…僕たちが『選んだ』情報をね」


 メルキオラスの瞳が、黒く、深く光った。


「ルミナくん。ミッション『空き家の幽霊』を発動。彼に、この塔を『ただの無秩序な廃墟』だと思い込ませるんだ」


「…承知いたしました。情報操作、開始します」


 ルミナの眼鏡がキラーンと光る。



◆◇◆◇◆



 エリオットは慎重に進んでいた。


 第二層への階段付近。


 彼は物陰に身を潜め、前方の広場を観察していた。


「…なんだ、あれは」


 視線の先には、数名のオークたちがたむろしていた。


 彼らは手に粗末な棍棒を持ち、何やら言い争っている。


「あぁん?今日の飯当番はてめェだろ!」


「うるせぇ!俺は昨日やったんだよ!人間の捕虜にやらせろ!」


 ドスの利いた怒号。


 エリオットは冷静に分析する。


(指揮系統が乱れている。規律がない。…やはり、魔王軍の残党が勝手に住み着いているだけか?)


 彼は知らない。


 彼らがルミナの指示による『演技者』であることを。


 実際には彼らは休憩中の資材搬入班であり、手にした棍棒はただの「杭打ち用ハンマー」。会話の内容も台本通りだ。


 通常来れないはずの二層を舞台にするためだけに配置されていた。


 エリオットは音もなく移動する。


 次のエリア。そこは崩落した壁がそのまま放置された、荒涼とした空間だった。


「ひどい有様だ。修復すらされていない」


 彼が見ているのは、あえて修復を後回しにされた「廃棄予定区画」だ。


 そのすぐ壁一枚向こう側では、最新鋭の『蒸気リフト』が稼働し、ピカピカに磨かれた大理石の回廊が広がっているのだが――ルミナの空間操作によって、その道は巧妙に隠蔽されていた。


 ズゥゥゥン…。


 不意に、地響きがした。


 エリオットが振り返ると、通路の奥から巨大なゴーレムが現れた。


 全身が苔むし、動きはぎこちない。


「古代の自律兵器か…!まだ稼働していたとは」


 エリオットは緊張し、ダガーの柄に手をかけた。


 だが、ゴーレムは彼を無視し、壁に頭をガンガンとぶつけながら、ふらふらと去っていった。


「…故障しているのか。脅威レベル、低」


 彼は手帳に書き込む。


 『防衛兵器:老朽化が激しく、制御不能。実戦配備に値せず』


 ――実際には、それは最新型の『全自動お掃除ゴーレム・ルンバ十一号』であり、壁の隅の埃を取るために頭を擦り付けていただけなのだが。


 エリオットの目には、哀れな古代の遺物にしか映らなかった。


「よし、上層へ向かう」


 彼は階段を駆け上がる。


 だが、三層へ続く道は、巨大な瓦礫によって完全に塞がれていた。


「…行き止まりか」


 エリオットは舌打ちした。


 瓦礫の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。


(ここから先は崩落が激しいようだ。…気配探知でも、上層に強力な魔力反応はない。あるのは微弱な…植物の反応だけか)


 ルミナによる『魔力遮断結界』の仕事は完璧だった。


 彼の遥か上空の向こうで、三千人の従業員が快適なサウナライフを送り、ヴォルグの絶品料理に舌鼓を打っているなど、想像もできない。


 ましてや、最上層で熊耳の少女が「スライム・ドロップうまー」と寝転がっているなど、神でも見抜けまい。


「…結論が出たな」


 エリオットは手帳を閉じた。


 その表情には、プロフェッショナル特有の冷徹な自信が満ちていた。


「ここは、ただの廃墟だ。魔王の復活?笑わせる。騎士団長ガウェインは、野良の魔物に装備を奪われ、パニックになって幻覚を見たに過ぎない」


 彼は踵を返した。


 これ以上の調査は時間の無駄だ。


 この「無害な廃墟」の情報を持ち帰り、聖王国の過剰な警戒を解くことこそが、国益に繋がる。


任務完了ミッション・コンプリート。…帰るぞ」


 エリオットは影のように、来た道を戻っていった。


 その背中は、「完璧な仕事をした男」の達成感に満ちていた。



◆◇◆◇◆



 総務室。


 モニターの中で、エリオットが塔を出て森へと消えていく姿が映し出された。


「退去を確認。…演技班、撤収。お疲れ様でした」


 ルミナがマイクに向かって告げると、画面の中のオークたちが「ふぅ、疲れた」「やっと飯が食える」と素に戻り、エレベーターに乗る様子が映る。


 塞がれていたはずの第三層への道も、幻影魔法が解かれ、いつもの綺麗な通路に戻っていた。


「ふふふ。完璧だね、ルミナくん」


 メルキオラスがパチパチと拍手をする。


「これで聖王国は、『バベル・ガーデンは脅威ではない』と判断する。大規模な軍事侵攻は遠のき、我々は平穏な日常(と労働)を守れるというわけさ」


「…しかし、賢者様」


 ルミナは少しだけ不安げに眉を寄せた。


「本当にこれでよかったのでしょうか?舐められるということは、逆に盗賊や小規模な荒らしを呼び寄せることになりませんか?」


「いいんだよ。そういう『雑魚』なら、今度開放する予行演習にちょうどいいしね」


 メルキオラスは黒い瞳を細めた。


「一番厄介なのは、国が本気を出して『総力戦』を仕掛けてくることだ。真音ちゃんなら一瞬で国ごと消し飛ばせるけど…それじゃあ、僕たちの安眠スローライフが終わっちゃうからね」


 強すぎる力は隠す。


 能ある鷹は爪を隠し、熊のぬいぐるみを被るのだ。


「それに、彼が見た『廃墟』の情報が広まれば、逆に『お宝が眠っているかも』という噂になって、冒険者がお金を落としに来てくれるかもしれない」


「…!そこまで計算を」


 ルミナは感嘆のため息をついた。


 防御を攻撃(収益)へと転じさせる策。さすがは大賢者だ。


 その時。


 ブブブ…。


 ルミナの懐の水晶板スマホが震えた。


 画面には『大家様(要注意)』の文字。


「ッ!大家様からです!」


「おっと。昼寝から起きたかな」


 ルミナは姿勢を正し、通話ボタンを押した。


「は、はい!総務部長ルミナです!」


『ねえ、ルミナ』


 スピーカーから聞こえるのは、寝起き特有の不機嫌さと、甘さが混じった気だるげな声。


『なんかさっき、変なネズミが一匹、下の方をチョロチョロしてなかった?』


「――ッ!?」


 ルミナとメルキオラスは顔を見合わせた。


 真音はずっと最上層の樹洞で寝ていたはずだ。しかも、物理的な距離は数千メートルもある。


 それなのに、気配だけで感知していたというのか。


『デコピンで潰そうかと思ったけど、くまちゃんたちが何か遊んでるみたいだから放置しといたわ。…ちゃんと掃除あとしまつ、できたんでしょうね?』


「は、はいッ!完璧に処理いたしました!ご安心ください!」


「僕たちの手のひらの上で踊らせて、お帰り願ったよ。真音ちゃんの手を煩わせるまでもないさ」


 メルキオラスが横からフォローを入れる。


『ふーん。ならいいけど』


 真音は興味を失ったようにあくびをした。


『それより、おやつまだ?リッカが持ってきたキャラメル、切れたんだけど』


「ただちにお持ちします!ヴォルグ料理長が新作の『生キャラメル・抹茶味』を完成させたところです!」


『ん、待ってる』


 プツン。通話が切れる。


 ルミナはドッと疲れが出たように椅子に座り込んだ。


「…やはり、あの方が一番の『見えない罠(脅威)』ですね」


「あはは。聖王国の密偵くん、真音ちゃんに見つからなくて本当に運が良かったね」


 メルキオラスは窓の外、エリオットが去っていった森の方角を見つめた。


 何も知らない敏腕スパイは今頃、「チョロい任務だった」と鼻歌交じりに報告書をまとめていることだろう。


 その背後で、世界を滅ぼしかねない熊耳の魔神が、あくびをしながら見逃してくれていたことなど、露ほども知らずに。


 バベル・ガーデンの平和は、今日もこうして、高度な情報戦と、大家の気まぐれによって守られたのであった。

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