第三十九話「牧場の危機と、クイーンの憂鬱」
バベル・ガーデン、『スライム牧場』。
普段なら、ペチペチというスライムの跳ねる音と、アレクセイ牧場長の「よしよし、いい子だ」という親馬鹿な声が響く平和な場所だ。
だが、今の牧場は、不穏な静寂によって包まれていた。
「…な、なぜだ…!」
アレクセイは、地面に崩れ落ちていた。
彼の目の前には、無数に広がる「水たまり」があった。
いや、ただの水ではない。
それは、表面張力を失い、デロンと地面に溶けるように平たくなったスライムたちの成れの果てだ。
「朝の点呼の時間だぞ!起きろ!跳ねろ!そして極上のドロップを吐き出すんだ!」
アレクセイが涙目で叫び、近くのグリーンスライムを揺さぶる。
だが、スライムは「めんどくせぇ…」と言わんばかりに、ダラーッと指の間から零れ落ちるだけ。
「ぼ、牧場長!第三飼育区画も全滅です!」
「こっちもダメです!餌の魔鉱石に見向きもしません!」
部下の魔族兵たちが、顔面蒼白で駆け寄ってくる。
スライムが動かない。
それはつまり、「スライム・ドロップ」の生産停止を意味する。
そしてそれは直結する――大家・真音による、「おやつの恨みは死よりも重い」という処刑宣告に。
「ひぃッ!殺される…!グミが納品できなければ、俺たちがグミにされてしまう!」
アレクセイは恐怖でガタガタと震えた。
だが、元勇者としての理性が、ギリギリのところで彼をパニックから引き戻す。
「お、落ち着け!原因があるはずだ!病気か?水質汚染か?それとも反抗期か!?」
彼は牧場の最奥、豪奢なクッションが敷き詰められた『女王の間』へと走った。
そこには、群れの統率者である巨大な虹色スライム――クイーンが鎮座していた。
しかし、彼女の体からも、いつもの美しい輝きが消え、くすんだ灰色に沈んでいた。
「ク、クイーン様!どうされたのですか!どこかお加減が!?」
アレクセイが必死に問いかける。
クイーンの体表が波打ち、ポコンと気泡が弾けた。
同時に、アレクセイの脳内に直接、思念が響く。
『…飽きた』
「え?」
『毎日毎日、食べて、寝て、出して…。同じ景色の繰り返し。…退屈』
クイーンはそれだけ伝えると、プイと触手を背けた。
その仕草は、完全に「倦怠期の恋人」のそれだった。
「た、退屈…だと…?」
アレクセイは雷に打たれたように立ち尽くした。
盲点だった。
温度管理、栄養管理、衛生管理。すべて完璧に行ってきたつもりだった。
だが、彼らにとってここは「檻」でしかなかったのだ。
変化のない日常は、心を殺す。それは人間もスライムも変わらない。
「…刺激か。刺激が足りないのか…!」
アレクセイの瞳に、炎が灯った。
彼は踵を返し、部下たちに向かって吠えた。
「総員、作業着に着替えろ!これより『オペレーション・アミューズメント』を開始する!」
◆◇◆◇◆
カン、カン、カン!ギコギコギコ…!
牧場の一角から、けたたましい工作音が響き渡る。
「おい、そこの板もっとヤスリをかけろ!ささくれ一つ残すな!スライム様の柔肌を傷つける気か!」
「はッ!了解であります!」
「強度は十分か?クイーン様が乗っても壊れないように、補強材を入れろ!」
アレクセイの指揮の下、魔王軍の兵士たちが廃材と格闘していた。
彼らが作っているのは、武器でも防具でもない。
「場長…俺たち、精鋭だったはずなんですけど…なんで滑り台なんて作ってるんですか?」
「黙れ!これが俺たちの生存戦略だ!」
アレクセイはハンマーを振り下ろしながら叫んだ。
数時間後。
牧場の中央広場に、奇妙な構造物群が出現した。
世界樹の枝を利用した、巨大な螺旋滑り台。
土管や樽を組み合わせた、複雑怪奇な迷路トンネル。
そして、トランポリンのように弾むゴム状の床。
名付けて、『バベル・スライム・プレイランド』。
手作り感満載だが、アレクセイの愛と狂気が詰まった遊園地だ。
「…クイーン様。こちらへ」
アレクセイは汗だくのまま、けだるげなクイーンを広場へエスコートした。
クイーンは、目の前の物体を訝しげに見つめる。
触手でペチペチと滑り台の入り口を叩く。
『…なにこれ?』
「遊び場でございます。…どうぞ、この階段を登って、滑り降りてみてください」
クイーンは疑わしそうに、しかし少しの好奇心を滲ませながら、ゆっくりと階段を這い上がった。
そして、頂上へ。
アレクセイと兵士たちが、固唾を飲んで見守る。
クイーンが、滑り台に身を預けた。
――シュルルルルルルッ!
流体ボディが、摩擦ゼロで加速する。
風を切る音。視界が流れる感覚。
クイーンの体色が、灰色から徐々に明るさを取り戻していく。
スポーーーンッ!!
勢いよく滑り台から飛び出し、着地地点のクッションプールへダイブ。
バヨンッ!と高く弾む。
一瞬の静寂。
そして。
『…!』
クイーンの全身が、カッと虹色に発光した。
『たのしい!』
明確な喜びの感情が爆発する。
クイーンはすぐさま這い上がり、再び滑り台へ突撃した。
その姿を見て、地面にへばりついていた他のスライムたちも顔を上げた。
「…お?」
「…ぷる?」
一匹が迷路に入り込む。
もう一匹がトンネルをくぐる。
楽しげな波動は伝染する。
あっという間に、死んでいた牧場が、大運動会のような喧騒に包まれた。
「ひゃっほーい!」(※スライム語)
「たーのしー!」(※スライム語)
彼らは飛び跳ね、滑り、転がり、そしてぶつかり合う。
そのたびに、彼らの体内で魔力が活性化し、化学反応を起こしていく。
ポンッ。ポポポンッ。
あちこちで、彼らの体から宝石のような結晶が排出され始めた。
スライム・ドロップだ。
しかも、普段のものより一回り大きく、輝きが強い。
「で、出た…!ドロップだ!」
「牧場長!こっちも!あっちも!回収が追いつきません!」
兵士たちが歓喜の声を上げて走り回る。
アレクセイはその光景を見つめ、目頭を押さえた。
「…そうか。管理じゃない。必要なのは、笑顔だったんだ…」
ただ効率を求めて詰め込むだけではダメだ。
心が満たされてこそ、最高のパフォーマンスが発揮される。
それはかつて、勇者として期待されすぎて潰れかけた自分自身とも重なる真理だった。
「遊べ!もっと遊べ!お前たちの幸せが、俺たちの明日(命)を繋ぐんだ!」
アレクセイは夕焼け空に向かって、高らかに叫んだ。
◆◇◆◇◆
その日の夜。
最上層『樹洞の聖域』。
アレクセイは、山盛りの「特選スライム・ドロップ」が入った籠を抱え、正座していた。
こたつに入った真音が、その一粒を摘み上げる。
「…ふーん」
真音はドロップを光にかざし、目を細めた。
いつもより透明度が高く、内側から発光しているようにさえ見える。
パクッ。
「…ん!」
咀嚼した瞬間、熊耳がピンと立ち、次いでパタパタと嬉しそうに羽ばたいた。
弾ける果汁感。
そして、何より「楽しげな」後味。
「美味しい。…なんか、元気が出る味ね」
「は、はいッ!スライムたちの『幸福度』を極限まで高めた結果であります!」
アレクセイが胸を張る。
真音はニヤリと笑い、もう一粒を口に放り込んだ。
「いいじゃない、アレクセイ。上出来よ。…ま、朝の時点で納品が遅れた分は、なにかで埋め合わせしてもらうけど」
「そ、そんなぁ…!」
ガックリと項垂れるアレクセイ。
だが、その表情は以前のような悲壮感ではなく、やり遂げた男の清々しさに満ちていた。
牧場の危機は去った。
スライム・プレイランドの滑り台は、今日も明日も、彼らのプルプルとしたお尻によって磨き上げられ、バベル・ガーデンの経済をピカピカに支え続けるのである。




