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第三十八話「料理長の故郷と、母の味」

 ジュワァァァァァッ!!


 バベル・ガーデン第三居住区、食堂の厨房。


 ここは戦場だ。


 数千人の胃袋を満たすため、炎と鉄と食材が乱舞する、命の最前線である。


「A班、火力が弱い!ドラゴンのブレス並みに強火を維持しろ!」


「B班、野菜のカットが0.1ミリずれている!貴様らの包丁は飾りか!」


 怒号を飛ばしながら、総料理長ヴォルグは五つのフライパンを同時に振るっていた。


 元魔王軍将軍である彼の指揮は、軍隊そのものだ。


 だが、その手が不意に止まった。


「…ん?」


 鼻孔をくすぐる、ある香り。


 それは、先日行商人リッカが納品していった、魔界原産の希少スパイス『赤熱実レッド・ベリー』の香りだった。


 一瞬にして、ヴォルグの脳裏にセピア色の記憶が蘇る。


 ――荒涼とした魔界の荒野。


 ――ボロボロの天幕の中で、ぐつぐつと煮える大鍋。


 ――そして、「たくさんお食べ」と微笑む、優しき母の顔。


「…母上」


 ヴォルグは無意識に呟いていた。


 それは、彼がまだ「将軍」と呼ばれる前、ただの食いしん坊なオークの子供だった頃の記憶。


 母が作ってくれた、名もなき煮込み料理。


 高級な食材など何一つ入っていない、根菜と硬い肉を煮込んだだけのもの。


 けれど、あれこそがヴォルグにとっての「世界最高の御馳走」だった。


「…作ってみるか」


 ヴォルグの瞳に、料理人としての、いや、息子としての炎が宿った。



◆◇◆◇◆



 深夜二時。


 業務を終え、静まり返った厨房に、包丁の音だけが響いていた。


「違う…これではない」


 ヴォルグは、小皿に取ったシチューを口に含み、苦渋の表情で首を振った。


 流し台には、すでに五回分の失敗作が廃棄されている。


「手順は完璧なはずだ。香辛料の配合も、火加減も、記憶の中の母上の手際を完全に再現している。なのに…」


 味が、違う。


 美味しいのだ。


 プロの料理人である彼が作るのだから、味は一級品だ。


 だが、決定的な「何か」が欠けている。


 あの頃、冷え切った体を芯から温めてくれた、魂を包み込むような深みがない。


「ええいッ!なぜだ!私は魔王軍の将軍だぞ!あらゆる戦術を極め、今や究極のウェルダンすら操るこの私が、なぜ母の味一つ再現できんのだ!」


 ガンッ!


 ヴォルグは苛立ち、お玉を調理台に叩きつけた。


 その時。


「…喧しいぞ、ヴォルグ」


 背後から、低い声がかけられた。


 ヴォルグが弾かれたように振り返ると、そこには湯上がりのバスローブ姿で、頭にタオルを乗せた魔王ガルシスが立っていた。


 手には、サウナ上がりの定番ドリンク『フルーツ牛乳』が握られている。


「ま、魔王様!?申し訳ありません!お休みのところを…!」


「ボイラーの最終点検の帰りだ。…で、貴様、こんな夜更けに何をしている。厨房を破壊するつもりか?」


 ガルシスは興味なさげに鍋の中を覗き込んだ。


「…オーク風煮込みか。懐かしい香りだ」


「は、はい。リッカ殿が持ち込んだスパイスを見て、つい…母の味を再現しようかと」


「ほう」


 ガルシスは勝手にスプーンを手に取り、鍋の中身を啜った。


「…美味いな」


「!」


「だが、硬い」


「…え?」


 ガルシスはスプーンを置き、ヴォルグを真っ直ぐに見据えた。


「味は洗練されている。技術も申し分ない。だが…貴様の料理からは『殺気』がする」


「殺気…ですか?」


「ああ。貴様は今、食材と戦っている。鍋という戦場で、味という敵をねじ伏せようとしている。…貴様の母君は、そんな顔をして料理をしていたか?」


 ヴォルグはハッとした。


 記憶の中の母。


 彼女は、決して眉間に皺を寄せていなかった。


 貧しい食材を前にしても、常に鼻歌を歌い、鍋を慈しむように混ぜていた。


「…愛、か」


 ガルシスはフルーツ牛乳を腰に手を当てて飲み干し、プハッと息を吐いた。


「我々は武人だ。力を誇示し、敵を圧倒することを是としてきた。だが、料理とは本来、食う者への『奉仕』であり『祈り』だろう?」


「…ッ!」


「怒りで作るな。技術でねじ伏せるな。…ただ、食わせたい相手の顔だけを思い浮かべろ。そうすれば、自ずと答えは出るはずだ」


 ガルシスはタオルで濡れた髪を拭きながら、背を向けた。


「…と、偉そうに言ってみたがな。早く完成させろ。その匂いを嗅いでいたら、腹が減ってきた」


 パタン、と扉が閉まる。


 残されたヴォルグは、しばらく呆然と立ち尽くし――やがて、深く息を吐き出した。


「…完敗です、魔王様」


 ヴォルグは自分の顔を両手で叩いた。


 力が入りすぎていた。


 完璧な再現を求めるあまり、最も大切な「心」を置き去りにしていたのだ。


 誰のために作るのか。


 今は亡き母のためではない。


 今、この塔で共に生きる「家族」たちのために作るのだ。


「…よし」


 ヴォルグは再び包丁を握った。


 その手つきからは、刺々しい殺気が消え、代わりに祈るような優しさが宿っていた。



◆◇◆◇◆



 翌日の昼下がり。


 最上層『樹洞の聖域』。


 陽だまりのような温かさに満ちたその部屋で、大家の真音はこたつに潜り込んでいた。


「…んぅ」


 眠たげな黒曜石の瞳。頭の上の熊耳はぺたりと寝ている。


 そこへ、ヴォルグがワゴンを押して現れた。隣には案内役のメルキオラスと別件で呼ばれていたガルシスがいる。


「失礼いたします、大家様。…お昼の軽食をお持ちしました」


「んー…そこに置いといて」


 真音は布団から手だけを出して合図する。


 だが、ヴォルグが蓋を開けた瞬間、漂ってきた香りに、彼女の熊耳がピクリと反応した。


「…いい匂い」


 真音がのっそりと起き上がる。


 目の前に置かれたのは、いつもの華やかな料理ではない。


 ゴロゴロとした根菜と、分厚い肉が煮込まれた、素朴で茶色いシチューだった。


「『オーク風・故郷の煮込み』でございます。…見た目は無骨ですが」


「いただきます」


 真音はスプーンを手に取り、湯気を立てるスープを口に運んだ。


 パクッ。


 時が、止まったようだった。


 濃厚な肉の旨味。


 野菜の甘味が溶け出したトロトロのスープ。


 そして、スパイスの香りが、決して刺激的ではなく、体の奥底からポカポカと温めてくれるような余韻を残す。


 それは、「美味しい」という言葉だけでは表現できない味だった。


「…」


 真音は無言で、二口、三口とスプーンを進める。


 その表情が、次第に緩んでいく。


 寝ているようだった熊耳が、嬉しそうにゆらゆらと左右に揺れている。


 やがて、皿が空になった。


 真音は満足げに息を吐き、ヴォルグを見上げた。


「…すごく、優しい味がした」


 その一言に、ヴォルグの心臓が跳ねた。


「誰かを想って、作ったでしょ?これ」


 真音は、ヴォルグの心の内などお見通しだと言わんばかりに、ニカっと笑った。


「技術とか、高級食材とか、そういうのじゃなくて…なんていうか、『お母さん』みたいな味」


「ッ…!」


 ヴォルグの目頭が熱くなった。


 届いたのだ。


 数十年越しに、母の愛が、自分の手を通して、この我儘で愛すべき主人の元へ。


「美味しかったわ、ヴォルグ。…おかわり、ある?」


 空の皿を差し出す真音。


 ヴォルグは震える声で、深く、深く頭を下げた。


「は…はいッ!!すぐに!!鍋いっぱい作ってありますとも!!」


 ヴォルグの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


 それは悲しみの涙ではない。


 料理人として、一人の息子として、何かを取り戻した男の、誇り高き涙だった。


「あーあ、泣いてる。おじさんが泣くと暑苦しいわよ」


「申し訳…ぐすっ、申し訳ございません…!」


 その様子を、隣で見ていたメルキオラスとガルシスが、穏やかに見守っていた。


「やるじゃないか、三流料理人」


「当然だ…」


 厨房という戦場に、今日は平和な湯気が立ち上る。


 それは、種族も過去も超えて繋がった、温かい「家族」の食卓であった。

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