第三十七話「商人の月例訪問と、閉ざされた扉の先」
月日は流れ、バベル・ガーデンにも「定期的な訪問者」が訪れるようになっていた。
ザッ、ザッ、ザッ…!
世界樹の根元、第一層の巨大な開口部。
そこに、一人の少女が飛び込んでくる。
小柄な体躯には不釣り合いな、家一軒分はあるかと思われる超巨大リュックを背負って。
「ふぅ…!到着ですー!」
赤髪の行商人、リッカだ。
数百キロの荷物を背負って大森林を走破してきたとは思えない爽やかな笑顔で、彼女は額の汗を拭った。
「お疲れ様。リッカ」
出迎えたのは、バインダーを手にした総務部長、ルミナだった。
彼女はリッカの背負う荷物を見ても、もう眉一つ動かさない。
この塔の住人たちは、常識の外にある存在ばかりだからだ。
「はい!ご発注の品、すべて揃えてきましたよ!ヴォルグ料理長ご所望の東方産香辛料一式、それとアレクセイさんからの依頼の『スライム用保冷剤』が大量に!」
「助かるわ。特に保冷剤は、牧場の拡張で不足していたから」
ルミナは手際よく検品を済ませ、支払いのサインをする。
通常業務はここで終了だ。だが、今日のメインイベントはこれからだった。
「…賢者様がお待ちよ。奥へ」
「はい、承知しております」
リッカの表情から、商人の愛想笑いが消え、少しだけ真剣なものへと変わった。
◆◇◆◇◆
総務室の奥、機密会議室。
防音結界が張られたその部屋で、リッカは一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。
「これが、ご依頼の『聖王国』に関する調査報告書です」
対面に座るのは、黒いクマのぬいぐるみ――賢者メルキオラスだ。
彼は短い手で器用に書類を手に取り、黒い瞳を光らせた。
「…ふむ。迅速な仕事だね」
「はい。各国の酒場やギルド、行商人ネットワークを駆使しました」
リッカが補足説明を加える。
「現在、聖王国の王都は混乱の極みにあります。騎士団の敗走、そして『装備だけ奪われてパンツ一丁で帰還した』という事実は、軍の上層部に深刻なトラウマを与えました」
「だろうね。で、報復の可能性は?」
「現時点での軍事行動は『凍結』です。物理的に勝てないことを悟ったようですので」
メルキオラスは頷いた。ここまでは想定内だ。
「問題は、次の一手です。彼らは武力ではなく、情報戦に切り替えようとしています。近々、『密偵』を数名、冒険者に偽装してこの塔に送り込む計画があるとか」
「密偵、か」
「はい。内部構造の把握、そしてあわよくば…『対話』の糸口を探ろうとしている節もあります」
リッカの言葉に、隣で聞いていたルミナが眼鏡を押し上げた。
「対話、ですか?侵略しておいて?」
「ええ。彼らは『魔王が復活した』と思い込んでいましたが、騎士団長の話では『魔王はサウナに夢中だった』わけですから…国としても、どう対応していいか分からないのが本音でしょう」
メルキオラスは報告書を机に置いた。
「なるほどね。恐怖よりも、困惑と好奇心が勝りつつある、か」
重苦しい空気が流れる会議室。
だが、その空気は唐突に破壊された。
「ねえ、私の話はー?」
虚空から、不満げな声が降ってきた。
空間が歪み、エプロンドレスの少女――大家の真音が、音もなくテーブルの上に座っていた。
頭の上の丸い熊耳が、ピコピコと催促するように動いている。
「あ、大家様!こんにちは!」
「こんにちは、リッカ。…で、今日は何を持ってきたの?」
真音は難しい政治の話には興味がない。彼女の関心事はただ一つ、リッカが運んでくる「未知の味」だ。
リッカは慌ててポケットから小さな箱を取り出した。
「はい!今日はこれです。『生キャラメル』!」
「キャラメル?」
真音は包み紙を剥き、茶色い立方体を口に放り込んだ。
――トロン。
口に入れた瞬間、体温で溶け出し、濃厚なミルクと焦がし砂糖の風味が爆発する。
噛む必要すらない。
舌の上で消えていく儚さと、強烈な余韻。
「…んッ!」
真音の熊耳がピンと立ち、黒曜石の瞳が輝いた。
「美味しい!グミとは違う、なんていうか…甘えん坊な味!」
「ふふ、気に入っていただけて何よりです。西の牧畜が盛んな国で作られている銘菓なんですよ」
真音は頬を緩ませながら、ふとリッカを見つめた。
「ねえ、リッカ」
「はい?」
「アンタって、いろんな場所に行ってるんでしょ?このキャラメル作った人とか、他の国の人とか…外には、面白い人がいっぱいいるの?」
その問いかけに、リッカは一瞬きょとんとし、すぐに温かな笑みを浮かべた。
「ええ、いますよ。山ほどいます。頑固な職人さんもいれば、お喋りな宿屋の女将さんも、変な発明ばかりしてる学者さんも」
「ふーん…」
真音はキャラメルの甘さを反芻しながら、窓の外――雲海の下に広がる世界をぼんやりと見つめた。
「…変な人、か。ちょっと、見てみたいかも」
その小さな呟きを、メルキオラスは聞き逃さなかった。
◆◇◆◇◆
その日の深夜。
最上層『樹洞の聖域』。
世界樹の内部にあるこの空間は、外の世界から切り離された、真音だけの揺り籠だ。
だが今夜、こたつに入った真音は、珍しく眠らずに天井を見上げていた。
「…ねえ、くまちゃん」
「ん?」
メルキオラスが読みかけの本を閉じ、優しい視線を向ける。
「私、もっといろんな人と会ってみたいな」
真音の言葉は、静かな水面に投じられた石のように、メルキオラスの心に波紋を広げた。
「…そうか」
「うん。リッカが来てから、美味しいものいっぱい増えたし。…それに、アレクセイやヴォルグたちも、最初はただの『債務者』だったけど、今は…まあ、悪くない奴らだし」
真音は布団の中でモゾモゾと動き、膝の上のラズリを撫でた。
「外には、もっと変で、面白い人たちがいるかもしれない。…ずっとここに閉じこもって寝てるのもいいけど、たまには『お客さん』が来てもいいかなって」
メルキオラスは、感慨深げに真音を見つめた。
かつての彼女は、他者を拒絶していた。
世界樹を守るため。
そして、自分たちの平穏を守るため。
外界は「敵」であり、排除すべき対象でしかなかった。
それが『世界樹の守人』たる彼女の正しい姿ではある。
だが、変わったのだ。
勇者との戦い、塔の増築、共同生活、そしてリッカとの交流。
それらが、孤高の大家の心を少しずつ溶かしてきた。
「…真音ちゃん。僕たちは数千年の間、この世界樹を隠し、守り続けてきた」
メルキオラスは静かに語りかける。
「『閉じる』ことは、一番安全な防衛策だ。でも…それじゃあ、新しい風は入ってこない。キャラメルも、蒸気機関も、笑い声もね」
彼は短い手で、真音の手をそっと握った。
「外の世界と繋がることは、リスクもある。悪い奴も来るかもしれないし、面倒ごとも増えるだろう。…それでも、扉を開けてみるかい?」
真音は視線を巡らせ、そしてニッと笑った。
それは、守られるだけの少女の顔ではなく、この塔の支配者としての不敵な笑みだった。
「当たり前じゃない。悪い奴が来たら?私がデコピンで吹き飛ばすに決まってるでしょ」
「あはは、そうだね。君は最強の大家さんだもんね」
「それに、楽しい人が来たら儲けものだし。…私、決めたわ」
真音は宣言する。
「この塔、ちょっとだけ『開店』してみようよ」
◆◇◆◇◆
翌朝。
バベル・ガーデン総務室に、メルキオラスの招集がかかった。
ルミナは、朝一番で呼び出されたことに少し緊張しながら、執務机の前に立った。
「おはようございます、賢者様。…何かトラブルでしょうか?まさか、またアレクセイがスライムを脱走させたとか…」
「いや、違うよ。今日は、バベル・ガーデンの今後の方針について通達があるんだ」
メルキオラスは、いつになく真剣な表情で切り出した。
「ルミナくん。…この塔の下層エリアを、外部に開放する準備を始めてほしい」
ルミナの手から、バインダーが滑り落ちそうになった。
「か、開放…ですか?つまり、侵入者を許容すると?」
「言い方が悪いなぁ。『冒険者の受け入れ』と言ってほしいね」
メルキオラスはホワイトボードに図を描き始めた。
「第一層から第一〇〇層までを『初級ダンジョンエリア』として一般公開する。そこでは魔物狩りも、資源採取も自由とする。ただし…」
「ただし?」
「『入場料』を徴収する。そして、塔内でのルール――ゴミを捨てない、壁を壊さない、指定区域以外立ち入り禁止――を守らせる」
ルミナは呆然とし、やがてその頭脳が高速で回転を始めた。
「…なるほど。あえて開放することで、無秩序な侵入を管理下に置く。さらに、入場料による収益化。冒険者が落とす外貨を獲得し、塔の経済圏を拡大する…」
ルミナの眼鏡がキラーンと光った。
「リスクはありますが、リターンは計り知れません。…これは、大家様の意思ですか?」
「うん。あの子が『もっといろんな人と会いたい』ってね」
メルキオラスは嬉しそうに目を細めた。
「真音ちゃんの気まぐれかもしれない。でも、これは歴史的な転換点だ。…僕たちはもう、隠れるのをやめる」
ルミナは背筋を伸ばし、深く一礼した。
その顔には、新たな難題に挑む「管理者」としての武者震いと、高揚感が浮かんでいた。
「承知いたしました。直ちにセキュリティプランの策定、受付ゲートの設置、そして『観光ガイドライン』の作成に取り掛かります」
「頼んだよ、総務部長。…忙しくなるよ」
窓の外、雲海を突き抜けて昇る朝日が、バベル・ガーデンを照らしていた。
閉ざされていた巨塔の扉が、今、ゆっくりと開き始めようとしていた。
それは、伝説の始まり。
世界樹の大家と、愉快な店子たちが織りなす、新たな騒動と冒険の幕開けであった。




