第三十六話「魔王の発明と、蒸気機関の革命」
シューーーーーッ…!!
バベル・ガーデン、ボイラー室。
ここは、熱と蒸気の聖域。
配管の森に囲まれたこの場所で、魔王ガルシスは腕を組み、頭上の排気口を睨みつけていた。
「…嘆かわしい」
彼が吐き捨てた言葉は、かつて人間軍を見下ろした時のそれとは質が異なっていた。
彼の視線の先では、安全弁から逃がされた余剰蒸気が、白煙となって虚空へと消えていく。
「おい、ドルフ。あの蒸気の排出量はどれくらいだ」
「はい。圧力計の数値からして、毎時三〇〇トンってとこですかね。サウナと暖房に使っても、どうしても余ってしまう分です」
配管保守班のドワーフ、ドルフがモンキーレンチ片手に答える。
ガルシスは眉間の皺を深くした。
「三〇〇トン…。三〇〇トンだぞ!それだけの熱エネルギーを、ただ大気に捨てているだと!?貴様ら、それがどれほどの損失か分かっているのか!」
「損失って言われましても…爆発させないためには逃がすしかねえでしょう」
「『逃がす』のではない!『使う』のだ!」
ガルシスはマントを翻し(実際は作業用の耐熱タオルだが)、演説するように両手を広げた。
「この蒸気は、我が魔力と『イフリート・炉』が生み出した極上のエネルギーだ。それをただ捨てるなど、魔王の美学に反する!破壊の限りを尽くしたかつての私ならいざ知らず、今の私は『創造』を求められているのだ!」
ドルフはポリポリと頭を掻いた。
最近のボス(魔王)は、熱のことになると少々面倒くさい。
「へいへい。で、どうするんです?蒸気でゆで卵でも作りますか?」
「ふん、凡夫の発想だな。…見ろ、あの圧力を。あの奔流を」
ガルシスの瞳の中で、赤い燐光が揺らめいた。
それは破壊の炎ではない。発明家の狂気にも似た、情熱の炎だった。
「あの力があれば…岩の一つや二つ、指先一つで持ち上げられるとは思わんか?」
◆◇◆◇◆
その日から、ボイラー室の片隅にある魔王の執務机は、設計図の山に埋もれることになった。
カリカリカリカリ…ッ!
深夜。
ボイラーの低い唸りだけが響く中、ガルシスは羽ペンを走らせていた。
「違う!このシリンダー径では圧力が逃げる!ピストンの素材はミスリル合金か?いや、熱膨張率を考えればオリハルコンのコーティングが必要か…」
図面をクシャクシャに丸めて投げ捨てる。
その背後には、すでに失敗作の図面が小山を築いていた。
かつて世界を恐怖に陥れた頭脳は今、いかにして「重い荷物を楽に持ち上げるか」という一点にのみ注がれていた。
魔法を使えば簡単だ。
重力魔法で浮かせればいい。
だが、それは違う。
ガルシスが求めているのは、自身の魔力を使わず、捨てられている蒸気(廃材)を利用するシステムだ。
「…あ、あの、魔王様?そろそろ休憩されては…」
「黙れ!今、インスピレーションが降りてきているのだ!」
夜食を持ってきたドルフを一喝し、ガルシスは再び図面に向かう。
その目は充血し、髪はボサボサだったが、その表情は生き生きとしていた。
「ここだ…この弁の開閉タイミングを、蒸気圧と連動させる。そして、力のベクトルを垂直方向へと変換する…!」
彼は震える手で、最後の一線を書き加えた。
「出来た…!『魔導蒸気式・垂直多段昇降機』の完成だ!」
深夜のボイラー室に、魔王の高笑いが響き渡った。
ドルフは「名前が不吉だなぁ」と呟きながら、冷めたコーヒーをすすった。
◆◇◆◇◆
数日後。
バベル・ガーデン第七五六層、修復工事現場。
「おーい!この石材、重すぎて人力じゃ無理だ!ミノタウロス隊を呼んでこい!」
「ダメだ、あっちは南側の崩落現場で手一杯だ!」
現場監督の悲鳴が上がる。
世界樹の暴走で崩れた外壁の修復には、数トンクラスの巨大な石材が必要となる。
魔法使いによる運搬も限界があり、作業は遅々として進んでいなかった。
ズゥゥゥゥン…。
突如、地響きと共に巨大な鉄の塊が運ばれてきた。
それを押しているのは、ドルフ率いる配管班と、なぜか誇らしげな顔をした魔王ガルシスだ。
「な、なんだアレは?」
「鉄の…檻?」
兵士たちがざわつく中、ガルシスは鉄塊の横に立ち、不敵に笑った。
「下等生物どもよ、無駄な汗を流すのは終わりだ。この私が、貴様らに文明の光を与えてやろう」
「魔王様、また何か変なもん作ったんすか?」
元魔王軍の兵士が気安く話しかける。
ガルシスはフンと鼻を鳴らし、ドルフに目配せをした。
「接続開始!」
「へい!」
ドルフが太いホースを近くの蒸気配管に繋ぐ。
シューッ!と白い蒸気が漏れる。
「見よ!これが『魔導蒸気式・垂直多段昇降機』…通称『蒸気リフト』だ!」
ガルシスがレバーを握る。
「あの石材を載せろ!」
半信半疑の兵士たちが、巨大な石材を鉄の台座に転がして載せる。
重みで台座がきしむ。
「動くわけねぇよ、あんな重いもん」
「魔法も使わずにどうやって…」
ガルシスは口角を吊り上げ、レバーを一気に押し込んだ。
「動け!我が発明よ!」
プシュウウウウウウウウッ!!
猛烈な排気音と共に、白い蒸気が爆発的に噴き出した。
シリンダーに熱い血が通う。
ガゴンッ!
鉄の台座が震え、そして――浮いた。
「なっ!?」
ゆっくりと、しかし力強く。
数トンの石材を載せたリフトが、垂直に上昇していく。
魔法のような浮遊感ではない。機械的な、圧倒的な「物理」の力だ。
グングンと高度を上げ、あっという間に十メートル上の足場へと到達した。
「す、すげええええええ!」
「持ち上がった!蒸気だけで!?」
「魔法使いの力を使わずに運べるぞ!これなら無限に作業ができる!」
現場が歓声に包まれる。
兵士たちは口々に「魔王様バンザイ!」「天才だ!」と叫び、ガルシスを取り囲んだ。
「フハハハ!驚いたか!これが科学と魔導の融合だ!」
ガルシスは高笑いしながらも、兵士たちに称賛され、少し顔を赤らめていた。
破壊神として恐れられていた頃には決して向けられなかった、純粋な感謝と尊敬の眼差し。
それが、意外なほど心地よかった。
「んー。うるさいと思ったら、また何かやってるの?」
不意に、上空から気だるげな声が降ってきた。
全員が硬直し、空を見上げる。
そこには、ふわふわと浮遊するエプロンドレスの少女――大家、真音の姿があった。
頭の上の丸い熊耳が、興味深そうにピコピコと動いている。
「お、大家様!?」
「これは…その、騒音を出すつもりはなく…」
ガルシスが慌てて言い訳をしようとした時、真音は上昇したままのリフトの上に降り立った。
「へえ。これ、便利そうね」
「は?」
「階段使うの面倒くさいから、これ、私の部屋まで繋げてよ。専用エレベーターにして」
真音はリフトの揺れを楽しむように、つま先で床をトントンと叩いた。
「は、はい!?し、しかしこれは貨物用で…!」
「出来るわよね?天才発明家の魔王様?」
黒曜石の瞳で覗き込まれ、ガルシスは直立不動になった。
「か、可能ですッ!直ちに!最高級の乗り心地に改良いたしますッ!」
「ん、期待してる」
真音は満足げに頷くと、スライム・ドロップを一粒口に放り込み、去っていった。
嵐が過ぎ去った後、安堵の息を漏らすガルシスの元へ、今度は別の影が近づいてきた。
総務部長、ルミナである。
「…素晴らしいですね」
彼女は眼鏡の奥の瞳を光らせ、稼働するリフトを見上げていた。
手元のバインダーには、すでに複雑な計算式が書き込まれている。
「ガルシス部長。このリフトを導入すれば、資材搬入の効率は現在の三〇%向上。さらに魔法使い部隊を修復作業そのものに集中させることができるため、全体の工期は半減します」
「ふ、ふん。当然だ。私の計算通りだ」
ガルシスは腕を組み、そっぽを向いた。
「別に、貴様らのために作ったわけではない。温泉の蒸気を捨てるのが癪だったから、ついでに有効活用してやっただけだ」
見え透いた強がり。
いわゆるツンデレである。
ルミナはクスリと笑った。
「ありがとうございます。貴方の『ついで』に、私たちは救われています」
真っ直ぐな感謝の言葉に、ガルシスは「うぐっ」と喉を詰まらせ、さらに顔を背けた。
耳まで赤い。
「…それで、相談なのですが」
ルミナの声色が、ビジネスモードに切り替わる。
「この技術、応用できませんか?」
「応用だと?」
「はい。今回は『垂直』方向の移動でしたが…これを『水平』方向への移動に使えないかと」
ルミナはバインダーをめくり、一枚のスケッチを見せた。
それは、車輪のついた箱のような図だった。
「バベル・ガーデンの回廊は広大です。資材や人員の移動に時間がかかりすぎる。もし、蒸気の力で自走する車両があれば…物流革命が起きます」
ガルシスはスケッチを奪い取った。
蒸気で走る、車。
そのイメージが、脳内で爆発的に膨れ上がっていく。
「…面白い」
ガルシスの口元が、ニヤリと歪んだ。
「ピストンの往復運動を回転運動に変換するクランク機構…さらに高圧ボイラーを小型化して搭載すれば…」
ブツブツと呟き始める魔王。
その目には、先ほどまでの照れなど微塵もない。
未知の技術に挑む、一人のエンジニアの魂が燃え上がっていた。
「可能ですか?」
「愚問だな、総務部長」
ガルシスはスケッチを叩き、不敵に言い放った。
「誰に向かって口を利いている。私は魔王ガルシス。不可能を可能にする男だ!」
「頼もしいですね。では、予算を計上しておきます。…納期は?」
「一ヶ月…いや、二週間で試作機を上げる!ドルフ、行くぞ!徹夜だ!」
「へいへい、勘弁してくださいよぉ」
マントを翻してボイラー室へと戻っていく魔王と、その後ろを追いかけるドワーフ。
その背中は、かつての世界征服を企んでいた頃よりも、遥かに大きく、そして輝いて見えた。
こうして、バベル・ガーデンに「産業革命」の足音が響き始めた。
後に『魔導蒸気機関車』と呼ばれる鉄の怪物が、回廊を爆走し、真音に「うるさい!」とデコピンで脱線させられるのは、もう少し先の話である。




